【日露戦争】
講談で読む「コレーツ号撃沈」

 歴史や軍記物をおもしろおかしく語る「講談」はもはや絶滅寸前ですが、その昔は大人気の芸でした。ライブで行う場合はもちろんですが、出版物でも「講談風の文章」というのはかなりの人気を博していました。
 講談社(もとは大日本雄弁会講談社)という出版社は1909年の設立なので、日露戦争当時は存在していません。しかし、庶民に親しまれた「講談」を名前に使うことで、出版は高尚なものではなく「大衆のもの」であると高らかに宣言したのです。いわば出版文化の刷新を狙っていたわけで、これもひとつの文化史ではあります。

 というわけで、当時の出版物から、講談風「日露戦記」を公開しときます。ポイントは、7・5調ぽいノリのよさ。

コレーツ号撃沈
コレーツ号撃沈の瞬間!

 コレーツは明治37年(1904年)2月9日、仁川沖で日本の「浅間」などの攻撃を受け、ワリヤーグとともに自沈しました。この戦闘をもって日本とロシアは完全な戦争状態になり、翌日両国の宣戦布告がなされるのでした。
 では、日本軍の武勇伝を読んでみよう!(●は検閲による伏せ字です)


 敵の先頭「コレーツ号」はあくまで平和の体に装い、黒煙をみなぎらせて次第次第に距離が近づく、時分はよしと「浅間」艦真っ先に乗りだし、「適宜にいたらば打方始め」という信号の合図に、檣上(しょうじょう=帆柱の上)のトップでは航海士官がしきりと双方の距離を測りつつ
「コレーツ8500m」
 と叫びます、これは発砲の度合いを知らせるので
「8300……8100……7●●●……7●●●……●●……●●●●ッ」
 とまで接近したときが0時10分、かくと聞き取る「浅間」艦長海軍大佐八代六郎君においては、素早く喇叭(ラッパ)手を振り返って
 艦長「打方始め」
 との号令に、割れよとばかり吹き出でる喇叭の音、えたりここぞと、砲術長は大音声に
「独立打方●●●●、敵艦コレーツ」
 と叫びもあえず、8インチの砲門はハッと一団の白煙り湧き出でて、
「ドドドドドドドドン」
 狙いの一発は天地も震動せんばかりの勢い、「コレーツ」をめがけて撃ち出しましたが、かくと見るより「コレーツ」もにわかに戦闘旗を檣上に掲げ、打ち出す打ち出す雨あられのごとく打ち始めましたが、一向当たらない、
 
 時間で申せば9日の午後0時20分頃が最も戦いの激しい最中で、空一面にみなぎる砲煙は陰々朦々として、飛び交う弾丸は雨あられのごとく、なかにも恐るべき時限信管という爆裂弾は虚空に破裂してあたかも流星の一時に落ち来たるごとく、着発弾という弾丸は艦を貫くにしろ貫かないにしろ、1度海中に落ちると、ゴゴゴゴッと凄まじい勢いで2度3度跳ね上がり、キリキリキリキリ廻りながら飛んでいくのが目に見えるので、イヤその音と申すものは
 乾坤砕け地軸も裂けん
 かと思われます、

 まだそればかりでもない、すべて弾丸には反発力というものがあり、ヒューヒュー飛んでくると空気の圧力が起こるから、頭の髪も何も押しつけられてしまう、何しろ精鋭なるわが艦隊から打ち出す弾丸の数、空気の振動ばかりにでも弱い相手は肝をつぶす、
 このとき「千代田」の砲塔より狙いすまして打ち出した12インチの砲丸が見事コレーツの胴腹を打ちぬき、ちょうど機関室の横手、
 大マストの下で爆発
 したからたまらない、ガラガラガラガラとあたりはさながら木っ端微塵、大のマストが根本から打ち折れたという大損害、軍艦にとってこの大マストは非常に大切なもの、もし旗艦でもあったら信号旗を掲げることができなくなります
 露士「サア大変だ、オイオイみんな尻込みをしないで防水の手当をしなけりゃ艦が沈むぞ……」
(『日露合戦記第1』大阪新報社、明治37年4月)


制作:2004年2月18日

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