「満州」商店の看板を一挙公開

満州の表具屋の看板
満州の表具屋


 1931年9月18日、旧日本軍は柳条湖(奉天郊外)で満州鉄道を爆破、これを張学良軍の仕業として軍事行動を起こしました。これが満州事変。
 そして翌1932年に、日本の傀儡国家である「満州国」が建国されました。

 では、一体、満州とはどのようなところだったのか。
 たとえば、下の図は、満州風の正装した奥様の風俗画です。

満州婦人の風俗画
満州婦人


 頭の上には黒い布で作った髪飾りが載せてあります。満州では婦人をほめるとき、「端荘(乱れたところがなく調っている)」と言うのが礼儀だったそうですが、実際のところ、満州人はかなりおしゃれでした。

 町には呉服屋が多く、ちょっとした布は、どの雑貨店でも切り売りしてくれました。ご婦人方は、さすがに着物の仕立ては専門店に任せましたが、刺繍などは自分たちで丹念にやっていました。ちなみに、たいていは靴も自分たちで縫っていたのです。

 当然、こうしたファッションにまつわる店はあちこちにあるんですが、満州の多くの庶民は文字が読めません。そこで、店の看板は、誰が見ても一目でわかるように、服がそのまま軒先に飾られました。また、かもじ(髪を結うとき添える髪)屋にも、だらりと長い毛が下げられました。


満州看板
かもじ屋の看板


 これは衣料品店だけでなく、満州では、多くの店で、手っ取り早く、商品そのものを掲げる習慣でした。
 饅頭屋は饅頭を、綿屋は綿を、八百屋はカブや芋をそのまま吊り下げました。そして、ついには、肉屋が「生の豚の頭」を輪切りにして、そのまま軒先から吊り下げたのです。


満州の肉屋の看板
肉屋の看板


 看板は、人目を惹くため、ほぼすべてのものに赤い小布がつけられていました。ホウキ屋であれば、ホウキの現物に赤い布。肉屋であれば、豚の頭に赤い布という、かなり壮絶な看板がそこかしこにあったわけです。


満州の紐屋の看板
糸(ひも)屋の看板


 1889年に生まれ、東京帝国大学の文学部を卒業後、1923年に中国に渡った教育者・堀越喜博は、こうした看板を一つ一つ、絵に描いて記録として残し始めました。

 堀越は、その作品を『満洲看板往来』にまとめ、JTB(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)満州支部から刊行しています。
 本の刊行は1940年。前述のとおり、満州国が建国されたのは1932年なので、この本に描かれた看板は、かつて存在した「日本の風景」ともいえるわけです(もちろん、満州国と日本は別の国ですが……)。

 そこで、この本から一部引用し、同時に、別資料からそれと似た看板写真をピックアップし、比較してみたいと思います。

 まずは細工物屋。机の脚や、木の輪、お椀など、あらゆる木の刳物(くりもの)を作っていた店です。棍棒のようなものは、洗濯のときに使った「打ち棒」で「洗衣裳棒兒」というものです。

満州の看板満州の細工物屋の看板
細工物屋

満州の看板
カゴ屋


 続いて、カゴ屋。満州には竹がないため、多くは柳の枝で編んだもので、桶なども柳の枝で間に合わせていました。
 その柳製の目の粗い籠を突き出しておくと、宿屋になりました。

満州の旅館の看板満州の旅館の看板
宿屋


 鞣革(なめしがわ)屋では、革の切れはしを束ねて下げてありました。特に大きな円形にすることが多く、かなり目立ったようです。


満州の革屋の看板
満州の革屋の看板
なめし革屋


 豪華で有名だっのが、薬屋の看板。町のいたるところに、中央を丸で黒塗りした四角と三角の板の看板がありました。


満州の薬屋の看板満州の薬屋の看板
薬屋


 実は、満州国の建国前、街中で目立ったのが両替屋です。
 穴の空いたお金を銭差(ぜにさし)に通したものをかたどった筒のようなものが軒先に並べられています。
 かつて中国は幣制の統一がまったくされておらず、各地方で勝手に紙幣を発行していました。そのため、旅行者は必ず両替屋の世話になる必要がありました。

 しかも、地域ごとに同じ1両という単位でも価値が異なり、それがまた日によって上下していました。うまく両替をすれば、利ざやで儲けることが十分可能でした。堀越も、満州国ができる前、日本の1円をハルビンで両替したら2円50銭になったと記録しています。

 ただし、満州国が建設され、幣制が統一された結果、日本円も満州通過も同じ価値になったので、両替屋の商売はあがったりになりました。


満州の両替屋の看板満州の両替屋の看板
両替屋


 さて、最後に別の風俗画を見てみましょう。下の図は、お宮の狛犬の前で客待ちしている満州の易者。古き良き時代の支那衣装を着て、「アンペラ」と呼ばれる風防を背にしています。アンペラは、通常はカヤツリグサでできていますが、満州ではコーリャン(高粱)の桿の皮で編んでいました。


満州の易者
路上の易者

 
 満州には、普通の占い師だけでなく、「堪与」という、葬式や婚礼の日取り、葬る場所などの吉凶を占う占い師もいました。
 満州では、誰かが死ぬと、吉日が来るまで死後3カ月も4カ月も柩を家に安置しておく風習がありました。そもそも、棺桶は、周囲に彫刻したり、金碧の彩色をしたりと、きわめて豪華なものでした。老年になると、まだ元気なうちに豪勢な棺桶を買い込んで、「これでいつ死んでも安心」と応接間などに飾っておいたりもしたのです。

 そんな不思議な風習が、かつて存在していたのです。


制作:2016年3月12日


<おまけ>
 堀越は、奉天では第二中学校の校長を務め、天津では図書館や博物館に勤務していました。中国やチベットの書籍や拓本を大規模にコレクションしており、この膨大な資料は、1946年に死去後、ハーバード大学に寄贈されました。現在も堀越資料はハーバード燕京研究所に所蔵されています。

 なお、今回、堀越喜博の『満洲看板往来』を電子書籍で実験的に復刻してみました。183点のカラー図版入り。さて、どれくらい売れるかな?

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