日本企業が作った幻のルーブル紙幣
あるいは「日本人700人」大虐殺の真相

尼港事件、廃墟になったニコラエフスク市街
尼港事件で廃墟になったニコラエフスク市街


 1921年、別府である展覧会が開かれました。展示品は「陸軍省所有の国宝」と題された日本人700人の遺留品です。この700人は、前年、シベリアのニコラエフスクで起きた「尼港事件」で虐殺された人たち。ロシア革命に巻き込まれた犠牲者ですが、なぜこの町の日本人は全員殺されたのか?
 今回は、空前絶後の虐殺事件に隠された「経済戦争」についてまとめます。

尼港事件
大分で開かれた「尼港事件展覧会」


 尼港事件は1920年に起きました。そのちょうど50年前、長崎県の島原半島に生まれたのが島田元太郎です。元太郎は大陸での成功を夢見て、1885年にウラジオストクに渡航します。翌年、アムール河口近くの都市ニコラエフスク(日本語で尼港)に移り、中国人が経営する商店に住み込みで働き始めました。
 すぐに頭角を現した元太郎は、1896年、現地に島田商会を設立し、市内随一の商社に発展させていくのです。
 
 尼港は、河口から30キロの場所にあり、なだらかな河岸段丘の上に広がっています。冬に1万3000人だった人口は、夏には2万5000人にもなりました。主な産業はアムール川のサケ、マス漁に加え、木材、毛皮、さらに砂金採掘などです。

 元太郎は、ニコラエフスクの産品を輸出し、中国や日本から生活雑貨を輸入し、大儲けに成功します。元太郎がこの地に来て30年ほど経ったころには、この街の産業の多くを握っていました。
 ちょうどそのころ、ロシアの政情は不安定になりつつありました。1917年2月に2月革命、11月にはレーニンのボリシェヴィキによる10月革命(世界初の社会主義革命)が起きました。

 1917年12月、元太郎はロシアで働く日本人の窮状を政府に訴えるべく、日本に帰国します。そのとき、マスコミの取材に次のように語っています。

《地方の治安は全く維持されず、白昼、道行く婦人の外套や靴を強奪したり、少し金でも持って居そうな人が通ればピストルを向けて射殺すると云う様な事は日々珍らしくありません。銀行等も堂々と無頼の徒に押込まれ金品を強奪されると云う風なので、露西亜人同士の取引等は誠に不安なもので、到る所、英国や米国や日本の銀行に依頼して預金替をし、ニコライウスクには外国人の銀行がない為、私の店に迄(まで)預金を依頼して来ると云う有様です》(大阪朝日新聞、1917年12月9日)

 1918年にロシア帝国は崩壊し、混乱は続きます。物価は年に10倍以上の高騰となり、ルーブルの価値は大きく下落していくのです。
 経済の混乱を立て直すにはどうすればいいのか。元太郎は一計を案じ、「独自紙幣」の発行を企てます。もちろん、偽造紙幣ではありません。いったいどういうことか。『ピコラエヴィッチ紙幣』(熊谷敬太郎著)によれば、以下の通りです。

ピコラエヴィッチ紙幣
ピコラエヴィッチ紙幣(ロシア「歴史紙幣循環研究センター」のサイトより転載)


 まず、当時のロシアでは、ハイパーインフレが続くなかで、ルーブル札を受け取るロシア人がいなくなりました。もちろん、日本円は無理。その結果、町では砂金や郵便切手が代わりに流通するようになり、さらにサケやマスなどとの物々交換も始まります。しかし、砂金は毎回、目方を量るので不便きわまりないし、魚は保存がきかない……。

《「すると次に受けても良いのは何だと思う? 島田商会の小切手だろう。しかし小切手を受け取れば次に銀行に持ち込んで現金に替えなければならない。その現金はロシア政府発行のルーブル札だ。こいつはどう考えても願い下げだ。
 ……つまり受けても良いのは島田商会の商品との交換を約束した手形、保証書の類となるな。いいかここが重要だ、島田商会の商品と交換がきくという点だ。町の人間はみんな島田商会で何らかの商品を購入する。漁民は先ずは漁網だろう、農民は鍬や鋤を買うかもしれない。それに女どもは小麦粉や食料品。つまりだな、この町の人々の生活はその多くを島田商会の食品と生活用品に頼っているわけだ。いずれも日本や満州から輸入されたものだ。だからロシア人はロシア政府のルーブル札より島田商会が発行した保証書を欲しがる。すなわち、そこでシマダ・ルーブル札の誕生となるわけだ」》


 シマダ・ルーブルは、必ず島田商会の商品と交換できるため、価値が下落しない点がミソでした。

 こうして、1919年、島田商会版のルーブルが発行されました。ニコラエフスクの紙幣という意味から「ニコラエヴィッチ紙幣」と名付けられましたが、НをПに誤植したため、そのまま「ピコラエヴィッチ紙幣」と呼ばれるようになったのです。

ピコラエヴィッチ紙幣
ピコラエヴィッチ紙幣裏面(ロシア歴史紙幣循環研究センターのサイトより)
 

 さて、ロシア国内では、革命側の赤軍(パルチザン)に対し、反革命側の白軍(白衛軍)との対立が激化しています。日本政府は、1918年から1922年まで、連合国の一員としてシベリア出兵を行い、尼港には白軍と日本軍守備隊が駐留していました。
 1920年1月の段階で、尼港に駐留していた日本軍は陸軍(水戸歩兵第2連隊第3大隊)300名、海軍40名などで、合計約400人。そこに4000人の赤軍が押し寄せます。

 ニコラエフスクの町の入口にはチヌイラフ要塞があり、近くに日本海軍の無線電信所がありました。これが2月7日に襲撃され、外界との連絡が途絶します。しかも、厚い氷に阻まれ、艦船は接近できず、軍の増派は不可能でした。尼港は完全に孤立しました。
 
 日本軍はパルチザンと停戦交渉に入り、まもなく合意が成立します。合意条件は、
  白軍部隊も一般人もすべて免責、白軍の武器は日本軍が引き受け、日本軍は武器の保持と護衛権が認められる
 というものでした。

尼港事件、破壊された港
尼港事件、破壊された港


 パルチザンは2月28日正午にニコラエフスクに入りますが、その日から大規模な虐殺が始まりました。白軍のロシア人を斬り、旧軍人・官吏を殺し、知識階級や資産階級を惨殺し、略奪・陵辱を始めたのです。そして、その攻撃は「経済搾取をしている」日本人にも向かいました。

 3月11日、パルチザンは日本軍に武装解除を要求。これに対し、日本軍は12日午前1時半に決起し、敵本部への攻撃を開始します。しかし、多勢に無勢で、次第に劣勢になっていきます。
 ある部隊は島田商会に立てこもって数十倍の敵を相手にしますが、12日午後に建物が焼き尽くされ、からくも生き残った兵は兵営に引き揚げます。この時点で、残ったのは日本領事館と兵営のみ。

 領事館には、石田虎松副領事一家と三宅駸吾少佐らがいましたが、13日夕方に6インチ砲による攻撃を受け建物が炎上。領事一家と少佐は正装に着替えた上で、ピストルで自害します。そして、領事館に逃げ込んでいた居留民など全員が猛火に包まれました。

尼港事件、破壊された日本領事館
破壊された日本領事館


 残る兵営には150〜160人ほどいましたが、ハバロフスクの旅団本部からの停戦勧告に乗り、18日に投降。翌日、121人が牢獄に入れられました。
 監獄では、日本軍の救援部隊を迎え撃つ防御工事をさせられ、その後、5月24日、全員が虐殺されました。
 国会図書館に所蔵されている『大日本国辱史』(樋口麗陽、1920)によれば、

《零下30度という酷寒の空に、一片の布さえ与えられず、全裸のまま針金で後ろ手に縛られ、めちゃめちゃに刺し殺し、突き殺し、えぐり殺し、惨殺した。一本一本指を斬られ、腕を切り離され、眼球をえぐられ、鼻をそがれ、首をはねられ、足を切られ、見るも無惨ななぶり殺しにあった》(抄訳) 

 結局、日本人は居留民も合わせ、ほぼ全員が惨殺されました。殺された人数は判明しているだけで731名に上ります。街全体では、1万5000人いたロシア人のうち、6000とも7000とも言われる人間が虐殺されました。

尼港事件、刑務所に残された文字
刑務所に残された「大正9年5月24日午後12時忘るな」の文字


 パルチザンが、2月28日から5月25日の撤退まで85日間に行った虐殺は、筆舌に尽くしがたいものでした。具体的には、

 ●男女を走らせ、突然、膝から下を斧で切り、全裸にし、断末魔の苦痛にもだえる人間を火に投じる
 ●股割きと称して、2頭の馬に片足ずつくくりつけ、勢いよく走らせることで体を真っ二つにする
 ●数人で押さえつけ、生きながら頭の皮や足の皮を剥ぐ
 ●両目をえぐり取って木の枝を差す
 ●集団で陵辱し、局部を切り裂き、ロウソクを立てる
 ●男女の首を切り落とし、男の首を女の首に、女の首を男の首につなぎ替える
 ●アムール川の氷の上に生きながら裸で寝かせ、凍死させる
 ●男子の口を割って、血汐の滴る人肉を食べさせる
 ●女を強姦した上、ウオッカで酔わせて裸踊りをさせ、その後、四つん這いで肛門から剣を差して殺戮


 などの虐殺が繰り広げられました。
 殺されたのはほぼロシア人と日本人だけで、900人の中国人、500人の朝鮮人は、パルチザンの強制動員に応じ、日本人虐殺に参加したため、安全が保証されました。

《900の支那人と500の朝鮮人はパルチザンと一緒になって日本人虐殺を行った。
 彼らは惨殺した死屍の指を切って指輪を取り、歯を打ち砕いて金歯を奪った。支那人の愛人だった佐藤ユキが目撃したところによると、支那人は妊婦の腹を割いて胎児を掴みだしたという。
 つまり、わが700人の同胞は、4000のパルチザンと900の支那人と500の朝鮮人によって虐殺をほしいままにされたのだ》(『大日本国辱史』抄訳)



 島田商会が経済搾取した証拠はありませんが、地元ロシア人や出稼ぎの中国人、朝鮮人にとっては不満の塊だったのでしょう。
 
 尼港の街が壊滅したとき、たまたま島田元太郎は帰国中で難を逃れました。しかし、店も店員も財産もすべてを失いました。6月になって元太郎は尼港を訪れ、事業の復活を決意します。まもなく店舗を再建しますが、1922年12月30日にソ連が樹立されて以降、商売はうまくいかず、結局は撤退を余儀なくされました。
 
 ニコラエフスクは、1926年にニコラエフスク・ナ・アムーレと改称しました。今もアムール川の主要港の一つではありますが、島田商会が消えた後では大きな発展もできず、小さな田舎町として残されました。

尼港事件
パルチザン撤退後、日本はニコラエフスクを再占領。
写真はソ連成立直前、反革命軍カツピリ将軍の出迎え


制作:2013年1月27日


<おまけ>
 尼港事件が起きると、国内の世論は沸騰しました。

 右翼の大物・五百木良三は1920年10月に刊行した「尼港問題を通して」という小冊子で、

《悪戦苦闘の間に生き残った我百余の勇士が、日本男児最期の一戦に死花を咲そうとした時も時、又(ま)たしても停戦命令の天降りに無限の痛恨を忍びつつ、終(つい)に降伏者同様、武器を奪われ牢獄に投ぜられ、あらゆる大侮辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたというあの始末。何というみじめな運命であろう》

 と怒りの声を挙げ、シベリアからの撤兵に反対しました。
 当時の撤兵論には「列強との協調」「ソ連との友好」「出兵の罪悪視」「財政の限界」「増長する軍閥への反感」などがありましたが、「撤兵は過激派への降伏、日本の魂の破壊」と強硬論を言い立てました。こうした主張の結果、日本軍は最後までシベリアに残ることになりました。
 そして、日本は治安維持と称し、なぜか北樺太(サハリン)に進駐するのでした。

 なお、五百木良三(五百木飄亭)は正岡子規の一番弟子であり、日露開戦論、日比谷焼き討ち事件を主導したことでも有名です。韓国併合や張作霖爆殺に関与した可能性も指摘されており、いわばフィクサー的な人物なのですな。

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