「浮世絵」の終焉
開化絵と戦争絵の世界

歌川芳幾「滑稽倭日史記」
歌川芳幾「滑稽倭日史記」明治38年


 日本航空の「鶴丸」のロゴは、丹頂鶴と日の丸を組み合わせたデザインで、1959年に商標登録されました。でも、このデザイン、実は江戸時代からあるんですね。下の画像は『江戸名所図会』に出てくる「錦絵(絵双紙)屋」です。

草双紙屋
草双紙屋


 江戸時代、木版多色刷りの浮世絵を「錦絵」と呼びました。
 錦絵は、幕末になると「洋赤」など鮮やかな舶来顔料が使えるようになり、よりいっそうカラフルになりました。
 しかし、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』など、旅シリーズ以降、人気を呼ぶテーマは少なくなっていました。

大蘇芳年(月岡芳年)「徳川治績年間紀事 徳川綱吉」
大蘇芳年(月岡芳年)「徳川治績年間紀事 徳川綱吉」明治10年?


 ところが、明治になったとたん、文明開化によって、西洋建築や鉄道など見たことも聞いたこともないテーマが大量に生まれました。
 最初に始まったのは開港した横浜で、これを「横浜絵」と呼びました。
 文明開化が広がっていくと、東京を中心に「開化絵」が流行します。
 
 特に人気を集めたのが、慶応4年に完成した築地ホテルです。
「築地のホテルは、異国の商人わが国に渡りて、滞留の旅館なり。普請の結構、目を驚かすばかりなり。或人曰く、一泊の価およそ3両2分に当るべし。膳部美味を列ね、大勢にてこれをもてなす」と明治2年刊行の『東京繁華一覧』にあり、このホテルを描いた錦絵が何枚も登場しました。
 残念ながらこのホテルは明治5年に焼失します。いったいどんな感じのホテルだったかというと、こんな感じです。

歌川国輝・築地ホテル
歌川国輝(2代目)「東京築地鉄砲洲景」明治2年


 開化絵のテーマは、洋風建築、銀座レンガ通り、蒸気機関車、駅、ガス灯、電灯、博覧会など、ありとあらゆるものが描かれました。

 たとえば、斎藤茂吉は「三筋町界隈」にこう書いています。

《鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢ひかれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際きわどい事故は起らぬのであった》

 鉄道馬車の錦絵は、こんな感じです。馬車より橋の方が目立ってますね。

鉄道馬車
歌川広重(3代目)「東京名所浅草鉤橋鉄道馬車往復之図」明治17年(模写)


また、近代建築としての国会議事堂はこんな感じ。ちょっと質が悪いですが……。

大日本帝国国会議事堂之図
歌川延一「大日本帝国国会議事堂之図」明治23年


 明治になって、いままで見たことのない巨大な組織が現れます。それが軍隊です。徴兵制が敷かれたこともあり、軍事を描いた錦絵も頻繁に登場します。
 初期は、気球ものなどです。

東京築地海軍省軽気球試験
歌川芳虎「東京築地海軍省軽気球試験 従西洋館眺望図」刊行年不明(模写)


 軍事ものが人気を集めたのは、なんといっても西南戦争です。
 以下、大森貝塚を発見したモースが書いた「西郷隆盛の人気すごい」という文章。

《往来を通行していると、戦争両で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日太人は皆彼を敬愛している》(『日本その日その日』)

 開化ブームの後、人気を集めたのは戦争絵でした。もうひとつ人気のテーマがあり、それが無残絵と呼ばれるものです。特に、新聞が創刊されたものの、庶民には読みづらかったことから、絵入り新聞(新聞錦絵)が人気を集めました。


落合芳幾「東京日日新聞」新聞錦絵
落合芳幾「東京日日新聞」新聞錦絵833号


 戦争絵や無惨絵は人気を集めましたが、明治20年(1887年)頃になると、次第に手間のかかる木版の人気は落ち、石版画が普及していきます。明治22年の『女学雑誌』(12月7日号)には、「絵双紙屋の売り上げの4分の3が石版画」だと記録されています。
 実は、石版画は木版画に比べるとかなり地味なんですが、無惨絵などの行き過ぎた反動があったのかも知れません。江戸時代以来の錦絵も、消滅の危機にありました。

 ところが、ここで一発大逆転が起きます。それが日清戦争です。

安達吟光「九連城攻撃占領」日清戦争
安達吟光「九連城攻撃占領」明治27年


 日清戦争当時、すでに動画の撮影も可能で、もちろん写真機は存在していました。しかし、実際には日清戦争の写真はまだほとんど流通せず、庶民はみな錦絵によって戦争を追体験したのです。このとき、地味な石版ではなく、派手派手しい木版画が非常に受けたのです。

 日清戦争の宣戦布告は明治27年(1894年)8月1日ですが、すでに8月9日付けの読売新聞は、戦争の絵草紙(錦絵)が飛ぶように売れていると報じています。

《日清の事変起りてより、都下の絵草紙屋は大いに忙しく、新絵出版を競うて、あたかも戦争のごとくなるが、現に出版せるものおよそ25種にして、摺り立つるや否や、売り捌(さば)きは争ってこれを持ち去る、故に売り子は全く鼻が明き、内外大混雑を極め居れり。また絵草紙も新聞紙、書籍同様検閲を経る事となりしに付き、5、6日前よりは、出版大いに手間取りたれば、来る20日頃には前後検閲を乞いし分、一時に出版になり、豊島、牙山 激戦の図、松崎大尉勇戦の図のみにて、少なくとも100番は店頭に顕わるるならんと》

 そして、8月17日付けの都新聞は、絵双紙に夢中になってる人が多く、スリが横行しているとしています。斎藤茂吉も日清戦争の錦絵を見たと書いていますが、庶民がそれだけ熱中するほど、戦争報道は盛り上がっていました。
 なにしろ、異国の戦場では数多くの「軍国美談」が登場します。いずれもすぐさま版画として販売されました。たとえば下の錦絵は、敵の攻撃をものともせず、単身で大同江を渡って敵の船を奪ってきた川崎伊勢雄軍曹の絵。

日清戦争・川崎軍曹渡単身大同江
作者不詳「川崎軍曹渡単身大同江」明治27年

 
 ちなみに、読売の記事に出てくる松崎大尉というのは、明治27年7月29日、清国兵の攻撃によって日本側初の戦死者となった松崎直臣歩兵大尉のことです。
 当時は、錦絵以外に、多くの本も出版されているので、その木版画を紹介しておきます。

日清戦争絵巻
『日清戦争絵巻』より

 
 さて、この木版画は別として、これまで掲載した錦絵は、だいたい同じサイズで作成されています。通常、大判(おおばん)という縦39cm×横26.5cmサイズに刷られます。これが1枚で、だいたい3枚組が多いです。なかには、6枚組の大規模パノラマも存在しています。
 実は、先に掲載した築地ホテルは、実際には6枚組です。東京都立図書館のサイトから転載しておきます。

築地ホテル
築地ホテル(6枚組)


 本サイトの管理人も、日清戦争の6枚セット錦絵を2種類持っているので、それを公開しましょう。
 2枚とも、いわゆる黄海海戦の画像です。

黄海海戦
歌川国政(5代目)「日清海戦大狐山沖大激戦大日本海軍大勝利之図」明治27年
(クリックで拡大)

黄海海戦
作者不詳「大孤山沖海洋島附近大海戦之図」明治27年
(クリックで拡大)
 

 日清戦争勃発から10年後、今度は日露戦争が起きます。
 しかし、このときはすでに写真報道が当たり前になっており、もはや錦絵は受けいれられませんでした。石版画はまだまだ売れましたが、木版画に需要はありませんでした。
 こうして、江戸時代以来の錦絵(浮世絵)は、その寿命を終えたのです。

日露戦争・金州城総攻撃大日本帝国
数少ない日露戦争の木版画
作者不詳「我第二軍金州城総攻撃大日本帝国勝利萬歳」明治37年


制作:2015年11月25日

<おまけ>
「日清海戦大狐山沖大激戦大日本海軍大勝利之図」の説明書きを全文あげておきます。当時の戦争報道の文体がわかると思います。

《明治27年9月17日なり。

 鴨緑江と旅順口との間、大狐山沖に我海軍海上巡視の折、清国軍艦に出合たり。
 我「吉野」艦、敵の艦なるを見留(みとめ)たるより本隊に通じ、開戦の準備したる処(ところ)に、忽(たちま)ち敵艦は我艦隊へ発砲したる故、 直ちに之に応じ砲発し、敵艦の帰航の路を遮り隊伍を乱さず砲戦し、超勇を打ち沈めたり。

「揚威」は火災を起し、狼狽して逃れ去りたるが、浅瀬に乗り揚げたり。
 我艦益(ますます)戦い、「西京」「比叡」「赤城」中々危険なりしも能(よ)く戦い、敵艦を撃ちて無事なり。
 敵の雄艦と跨(ほこ)る「鎮遠」「定遠」は、「西京」の正面間近く進み来るを、さすが少しも屈せず直進し、此の間、切り抜る勢い龍の如し。

 流石(さすが)堅艦と雖(いえ)ども、勇猛に懼(おそ)れ左右に開きたり。「西京」はなんなく衝(つ)き切りたり。

 水雷三度に逢いたるも能(よ)く之を避け、我艦は縦横無尽に横行し、尚、敵艦「来遠」「靖遠」を撃ち沈め、敵益(ますます)狼狽、隊乱れ戦力尽 きたるに又、「定遠」「経遠」「平遠」の三隻焼毀し、水雷艇も打沈められ残る敵艦は大破損を受けて、渤海へ向け遁走す。

「広甲」は浅瀬に乗り上げ、焼棄てたり「致遠」も沈没したりと云う。
 清国の名ある甲鉄艦も数隻、我猛烈なる海軍に打沈めらる。適々(たまたま)無事なるも、大破損を蒙り敗走す。
 古今無比の大海戦に大日本海軍の大勝利。

 帝国万歳、万々歳》


<おまけ2>
 本サイトで使っているそのほかの浮世絵を解説しておきます。


月岡芳年「正清三韓退治図」元治元年=1864年
(薩英戦争でイギリス艦隊を撃退。実寸では36×72センチ程度)


一曜齋国輝「奥州海岸一覧図」明治元年=1868
(江戸城開城後、函館に向かった榎本武揚一行)


月岡芳年「東京府中橋通街の図、第二東京府京橋の図」明治元年=1868年
(明治元年の“東幸”行列。後方の鳳輦〈ほうれん〉に乗っているのは明治天皇)

クリックで拡大できます。珍しい大判(半紙)6枚版。実寸では36×144センチ程度



『大日本史略図絵』九十二「桃青翁草庵に閑居の図」明治31年=1898年
(松尾芭蕉の隠居生活を描いた木版画。有名な「古池や蛙飛び込む水の音」はここで作成)

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