ミイラ発掘!
大谷探検隊、地獄のシルクロードを行く

大谷探検隊の発見したミイラ
これが発掘したミイラだ!
 

 19世紀後半から20世紀初頭、帝国主義の色濃い時代に、多くの探検家が登場しました。
 中央アジアでいうと、

 ・オーレル・スタイン(イギリス)……ホータンや敦煌文書の発掘
 ・ピョートル・クズミッチ・コズロフ(ロシア)……廃都カラホトの発見
 ・スヴェン・ヘディン (スウェーデン)……楼蘭の発見
 ・アルベルト・フォン・ル・コック(ドイツ)……マニ教経典の発見
 ・ポール・ペリオ(フランス)……クチャ文書、敦煌文書の発掘

 あたりが有名です。
 そうしたなか、仏教の研究を主目的とした探検隊が日本から送られました。それが大谷探検隊です。

大谷光瑞
大谷光瑞(おおたにこうずい、1876-1948)


 探検隊を組織したのは、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主の大谷光瑞です。
 光瑞は仏教界最大派閥の門主の息子で、生まれたときから1000万信徒の頂点に立つことが約束されていました。子供の頃から地図が大好きで、地質学、植物学、気象学などにも強い関心を示していました。

 光瑞は探検の目的をこう記しています(1915年『西域考古図譜』序文)。

 ・仏教が東に伝わった経路の解明
 ・仏教遺跡の巡礼
 ・イスラム教徒が仏教をどのように弾圧したかの解明
 ・西域における経典、仏像、仏具等の収集
 ・仏教の教義の研究と考古学上の研鑽を積むこと
 ・地理学、地質学、気象学、植物学的な研究


 こうして光瑞は西本願寺の財力を背景に、第1次(1902年〜04年)、第2次(1908年〜09年)、第3次(1910年〜14年)の3回、探検隊を中央アジアに派遣しました。
 第1次隊の隊員は光瑞以下6名でしたが、第2次隊は橘瑞超、野村栄三郎の2名、第3次隊も橘瑞超、吉川小一郎の2名で光瑞は参加していません。それは、1903年に門主となったためで、さすがにトップ自らが危険な辺境に行くわけにはいかなかったんでしょう。

大谷探検隊
探検隊のルート(拡大図


 当時の中央アジアはどんなところだったのか?
 第1次隊に参加した吉川小一郎が残した探検日記(『新西域記』所収「支那旅行」)には、たとえばこんな一文があります。

《暁起積雪の上に、東の疾風雪を吹く。寒凛冽、出発するを得ず。我が黒馬寒疾に罹る》

 日が落ちればあまりの寒さに馬さえ走れず、昼の灼熱の地獄ではラクダさえ簡単に死んでしまう。夜盗もいれば、動物に襲われる可能性もある大秘境。一方、外国人が普通には入ってこない地域だけに、中国側は警戒し、スパイ扱いされたこともありました。
 こうした苦難に負けず、大谷探検隊は瓦礫をひたすら掘り、土の中から「極楽に住む阿弥陀たち」を発掘するのです。

大谷探検隊
灼熱の砂漠を行く

 一般に外国の探検隊は大きくて価値の高いものしか持って帰りませんが、研究目的だった大谷探検隊は「現地の発掘品は1つ残らず全部もってこい」という指令の下、墓に供えてあるお菓子から、死体に敷いてある編み布、さらに葬儀用の紙細工まで持ち帰っています。その数がつもりつもって数万点になっており、今となっては非常に重要な資料となっています。

敦煌千仏洞 スバシ故城の発掘
(左)敦煌千仏洞の全景。唐代以前の貴重な教典が大量に保存されていた。スタインが最初に発掘
(右)スバシ故城の発掘。唐代には亀茲国最大の寺院で、玄奘の『大唐西域記』にも登場している



 特に有名な発掘品をあげておくと、第1次隊では玉の産地ホータンで発掘した仏頭(3〜4世紀)が有名です。青銅製で金箔を貼ってあり、他国に類のない名品。クムトラ石窟で発掘した唐代の菩薩頭部、キジル石窟で発掘したやはり唐代のドロナ像(仏画)あたりが逸品中の逸品。

唐時代の塑像
新疆クムトラ石窟で発見された唐時代の塑像
この場所に5〜11世紀の112の石窟があった

    
 第2次隊では楼蘭で発掘した李柏文書が有名です。紙が普及しはじめた頃の書簡の下書きがあり、日付が特定できる世界最古の紙も含まれています(正確には「李柏尺牘稿(りはくせきとくこう)」といいます)。
 そして第3次隊では、新疆ウイグル自治区トルファンの墓を掘って掘って掘りまくってミイラを発見しました。全部で12体あり、うち1つは子供のミイラでした。
 ちなみに墓はどのような場所にあるかというと、

《墳域は正方形或は矩形に土墻(砂礫を積み列べたるもの)を以て囲まれ、大概此土墻内に二、三或は四、五の土饅頭形をなしたる墳墓を発見するを常とす》

 だそうです。

ミイラ

ミイラ
トルファンで発掘した1300年前のミイラ。高昌国の人間で、大人11体、子供1体の計12体


ミイラに付属していた人首蛇身神像 ミイラに付属していた人首蛇身神像
左がミイラに付属していた人首蛇身神像。左手に尺度を、
右手にハサミを持っていて、世界の創造主とされる。右は顔のカバー



 大谷光瑞の財力はホントに巨大だったようで、たとえば1904年の日露開戦のときには、西本願寺は800万円という巨額の国債を引き受けています。戦争終了後に明治天皇から光瑞へ感謝状が贈られたそうですよ。

 そして、1908年、光瑞は神戸の六甲山に二楽荘という壮麗な別邸を建設します。「二楽」とは「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」の意味だといいますが、建設費は17万円、総敷地面積は24万6000坪。最上段に純白の白亜殿があり、子弟教育の私塾(現在の甲南大学)から大庭園までありました。驚くべきは各建物を結ぶ3本のケーブルカーまで設置された点ですな。

二楽荘 二楽荘
「本邦無二の珍建物」と評された二楽荘の本館。1909年に完成したが、まもなく閉鎖。右はイスラム風庭園


 この二楽荘にはインド室やエジプト室、イギリス室など世界各地の風俗を具現化した数多くの部屋がありました。要はこの別荘に世界そのものを再現しようとしたわけですよ。
 二楽荘には多くの探検の将来品を並べていたことから、あるいはここに阿弥陀世界さえ再現するつもりだったのかもしれません。
 なんとも壮大な話ですな。


 さて、権勢を誇った光瑞ですが、まもなく頂点から転落することになります。
 巨額の国債引き受け、豪勢な別荘、そして大探検隊……こうした出費により教団の財政は悪化、ついには疑獄事件にまで発展し、光瑞は1914年に門主を辞任せざるを得なくなるのです。

 門主を辞めた光瑞は、日本では西本願時の別荘のあった京都・三夜荘で生活し、多くの本を刊行しました。国粋的なものも多く、たとえば『大谷光瑞興亜計画』では、「日本と支那共栄のため」支那新首都の設置や巨大水路の建設まで提言しています。
(余談ながら、三夜荘は豊臣秀吉の伏見城があった場所近くにあり、「山から出る月」「宇治川・巨椋池に映る月」「杯に浮かぶ月」と一夜に3つの月を楽しめるという意味です)

 しかし、根が探検家の光瑞は、中国の大連を拠点にアジアから南米、アフリカ各地まで放浪を続けます。アコンカグアなど、世界の5大陸の最高峰を見たりもしたようです。もちろん弟子にはエチオピアからアラスカまで、世界のあらゆる場所を見に行かせました。
 まさに国際感覚あふれた大人物ですな。

 終戦後、光瑞はソ連に抑留されますが、1年半ほどで何とか日本に戻り別府に居を構えます。
 そこで「観光都市建設私案」を作り、役所に「エビアンに対抗して日本でも名産のミネラルウォーターを作るべき」などと提言しています。

 しかし、昭和23年(1948)4月、光瑞に公職追放令が適用され、その半年後、この世を去りました。

橘瑞超が発見した古代仏画
橘瑞超が発見した古代仏画。絹に描かれており、二楽荘に展示されていた

 
 光瑞は第1次探検中に、中国で若き伊東忠太と出会っています。伊東は、当時、平安神宮の設計で名をあげており、後には明治神宮なども設計した建築界の大御所です。2人の関係は終生続き、二楽荘にも伊東のアドバイスが生きています。

 光瑞は大連に建設予定だった本願寺別院など5つの建物の設計を依頼していましたが、失脚や敗戦でほとんど実現しませんでした。唯一実現したのは関東大震災で焼失した築地本願寺の再建。昭和9年(1934)に完成した姿はおよそ寺院とは思えない奇抜な外観ですが、三島由紀夫から勝新太郎まで、多くの有名人がこの寺院で葬儀を行っています。
 本尊は聖徳太子の手彫とされる阿弥陀如来の立像。
 光瑞の二楽荘は昭和7年(1932)に焼失しているので、この築地本願寺こそ、彼が現世に残した唯一の阿弥陀世界なのです。

築地本願寺 築地本願寺
1934年に完成した築地本願寺と内部。古代インド様式(天竺様式)の伽藍で、多くの大理石彫刻が


制作:2011年1月24日

<おまけ>
 光瑞は失脚後、二楽荘も手放さざるを得なくなり、3回の探検で収集した貴重な品々は散逸してしまいます。
 その流れを書いておくと、まず「鉱山王」久原房之助(くはらふさのすけ、日立製作所の基盤となった久原鉱業所などを所有)が二楽荘を買収。発掘品の一部は朝鮮総督府経由でソウルの博物館に渡り、あるいは上海経由で大連に移動し、旅順博物館に収蔵されました。
 残りは久原家から木村貞造という人物が購入し、京都帝室博物館に貸与されたものと合わせ、最終的に国が買収しました。
 第1次隊の仏頭やドロナ像は東京国立博物館に、第2次隊の李柏文書は日本の龍谷大学に、第3次隊のミイラは旅順と韓国に残っています。

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