西郷隆盛「不死身」伝説の誕生
なんとシベリアでロシア軍を訓練していた!?

西郷隆盛
鹿児島空港前の西郷隆盛


 明治24年(1891)4月、ギリシャの王子とロシアの皇太子が日本にやってきました。長崎、鹿児島と観光し、5月9日には神戸経由で京都に到着、名門の常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に宿を取りました。
 一行は京都で大歓迎されました。駅前には緑門(アーチ)が立てられ、通行するすべての道にロシアとギリシャと日本の国旗が並び、紅灯が吊され、季節外れの大文字焼き(五山送り火)を楽しみました。

旧常盤ホテル
旧常盤ホテル(その後、造築して京都ホテルに)


 11日、2人は有栖川宮威仁親王(海軍大佐)の案内で琵琶湖に日帰り観光します。
 当時、もちろん東海道線は開通しており、前年には琵琶湖疏水が完成し、京都から船便もありました。しかし、なぜか人力車で行くことになりました。
 日本側としては、京都に電気をもたらした琵琶湖疏水を自慢したかったと思うんだけど、それより庶民の生活を見たいとか言われたんでしょうね。あるいは警備の都合もあったかもしれませんが。

琵琶湖疎水
琵琶湖疎水(大津)


 そんなわけで、40両ほどの人力車が一列になり、180mくらいの大行列が大津を目指しました。三井寺、唐崎を観光後、再び大津に戻り、県庁で昼食。その後、焼物「京薩摩」の錦光山を目指していたところ、突然、道路脇で警備していた警官が飛び出してきて、サーベルでロシア皇太子を斬りつけました。
 これがいわゆる「大津事件」ですな。

大津事件(湖南事件)
大津事件(湖南事件)

 
 犯人の津田三蔵はすぐに車夫たちに取り押さえられ、皇太子は頭に9cmほどの切り傷を負っただけで助かりましたが、日本政府にとってはまさに驚天動地の大事件となりました。

ニコライ皇太子 津田三蔵
ロシアのニコライ皇太子と津田三蔵

津田三蔵
津田三蔵も負傷
(国立公文書館・アジア歴史資料センターのサイトによる)


 さて、では、犯人の津田はどうして犯行に及んだのか?
 公判資料によれば、津田は7年前、2日酔いで脳充血を起こし、「酒客譫妄(しゅかくせんもう)病」にかかったことがありますが、精神疾患は認められませんでした。

 取り調べでは、津田は明治8年に締結された「樺太・千島交換条約」の不平等を例に挙げ、もともとロシアの横暴さに不満をもっており、さらに来日して最初に天皇に挨拶しない無礼さを批判しました。
 その上で、「今回の来日は日本を占領するための偵察だ」と主張します。この偵察説は、当時、かなり流布しており、マスコミも真剣に取り上げています。実際、津田は、警備中に見た皇太子の随行員2人が車夫にいろいろ指示を出しているのを見て、これは日本の地理を調査しているに違いないと思い込み、実行を決意したと自供しています。

 でだ。
 犯行の原因はほぼ「ロシアへの不信」と特定されましたが、実際はもっと別の原因もあったと言われています。それが、「西郷隆盛の帰朝」説です。簡単に言うと、西郷隆盛が生きていて、ロシア皇太子と一緒に日本に戻ってくる……という噂です。

西郷隆盛
西郷隆盛

 いったいどういうことか?

 西南戦争を指揮した西郷隆盛は、明治10年(1877)9月24日、籠城中の城山で自刃しました。
 庶民に人気だった西郷は、劣勢が伝えられるたび、「死んだ西郷が赤い星になった」と噂されました。当時、火星が地球に最接近しており、天球には真っ赤な星が輝いていたのです。これが「西郷星」という伝説です。
 たとえば、読売新聞には

《大坂日報に、この節毎晩辰巳(たつみ)の方に、赤色の星が顕(あらわ)れ、それを望遠鏡で見ると、西郷隆盛が陸軍大将の官服を着ている体(てい)に見えるとて、物干で夜を明かす人もあると出てあり……》(明治10年8月8日)

 と書かれていて、どうやら関西から「西郷星」伝説が始まったようで、すぐに日本中に広がりました。

《或る所で、例の通り西郷星が見えるぜ見えるぜ、と騒いでみる男の傍から、もしお爺さん、西郷星とは何のことだエ、と聞くと、この子は開けねえ子だ。この間まで鹿児島で大敵を引受けた西郷様が、討死なすツたから、その魂が天上へ昇つて、一ツのお星さまになったのよ。このお星様を拝んでおきな。きツといいことがあるぜ。第一喧嘩をしても人に負けるやうなことはないぜ、と空を眺めながら言ふ》(読売新聞、明治10年9月21日)

 この噂は、大森貝塚の発見者・モースも記録しています。

《往来を通行していると、戦争画で色とりどりな絵画店の前に、人がたかっているのに気がつく。薩摩の反逆が画家に画題を与えている。絵は赤と黒とで色も鮮かに、士官は最も芝居がかった態度をしており、「血なまぐさい戦争」が、我々の目からは怪奇だが、事実描写されている。一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い》(『日本その日その日』)

西郷星
西郷星(ウィキペディアより)


 ところで、自刃した西郷は介錯により首がなかったため、本当は死んでいないという噂も流れました。多くは朝鮮やインドに逃亡したという根も葉もない噂で、あまり相手にされませんでしたが、それが明治24年に一挙に信憑性をもって語られるようになったのです。

 時代背景を書いておくと、明治22年に「徳川家康江戸入府300年祭」がおこなわれ、「昔はよかった」的な回顧意識が強まっているなか、明治23年に米価高騰による米騒動が起き、明治政府に対する反感が大きくなっていました。
 そこに、ロシア皇太子来日の知らせが入りました。

 このとき、西郷隆盛はロシアで生きていて、皇太子と一緒に戻ってくるという話が広まります。おそらく「もし西郷が生きていたら」という庶民の希望が、いつのまにか「真実」になってしまったわけですが、地元・鹿児島新聞をはじめ、日本中のマスコミが一挙に記事にし始めたのです。 

 まずはその報道の現物を公開しときます。

西郷隆盛
明治24年(1891)発行の「西郷正三位翁外三氏存命報」


《岩城谷の一戦で、「草頭一点の露」と消えた西郷隆盛。当時、西郷翁は生きているとの噂が広がったが、まもなくその噂は消えてしまった。ところが最近、西郷翁だけでなく、桐野利秋、村田新八、淵辺高照など諸将が今なお生きていて、ロシアのシベリアにいるという話が出てきた。
 実は、城山が陥落する2日前に抜け出して、串木野の島平浦から和船に乗って甑島に渡り、桑之浦よりロシアの軍艦に乗り込み、ロシア兵の訓練をしているという。
 明治7、8年の頃、黒田清隆がヨーロッパ歴訪の折、この話を聞いて密かに兵営を訪ねて面会、日本の将来について議論を重ね、明治24年に帰朝すると約束したという。
 また明治21年12月11日、高知県旧立志社の平尾喜寿もシベリアの兵営で面会したという。今回、ロシア皇太子の御漫遊に託し、数艘の軍艦に乗って鹿児島にやってくる、と4月1日付の関西日報と4月9日付けの大阪朝日新聞が報じている》(明治24年4月10日発行の報道ビラ、現代語訳)


 黒田清隆や平尾喜寿など実在する人物の名前を出すところがポイントですな。そして、黒田が帰国後に性格が一変したこと、西郷の墓が異常に小さいこと、西郷の近くで砲弾製造していたドイツ人の行方がいまだ不明なことなどを理由に、噂はだんだんと信憑性を帯びていきました。

西南戦争
最後の内乱・西南戦争


 こうした噂に対し、「オレは西郷の死を確認した」という人間も登場してきます。しかし、その人物が言うには、
「川村純義参軍(総司令官)が死体を旧浄光寺跡で検視したとき、『西郷の右腕に創痕あり』という人相書きを見ながら『旧友西郷も戦死してしまった。今は賊だが、昔は竹馬の友だった』と涙を流していたから間違いない」
 というものでした(日本新聞、明治24年4月2日)。
 たしかに川村は西郷の親戚筋だし、一緒に検視した山県有朋参軍も西郷のことは熟知しており、見間違いはないとはいえ……しかし、確たる根拠もないわけです。

 かくて、西郷生存説は大きなムーブメントとなり、それを津田は妄信した可能性があるのです。

西南戦争でまかれたビラ
西南戦争でまかれたビラ
(「官軍に降参する者はころさず」、熊本博物館)


 本籍が三重県の津田三蔵は、名古屋で陸軍に入り、西南戦争に従軍しました。左手にケガをしたことで勲七等を受章しており、もし西郷隆盛が戻ってくれば、自分の勲章が取り上げられると悩んでいました。
 どうしてかというと、明治23年(1890)11月29日に明治憲法が施行され、朝敵とされた西郷も大赦で正三位を贈られ、名誉回復していたからです。それはつまり、自分の軍功の意義がなくなることを意味しました。
 
 そうしたなか、最初に警備した三井寺では、偶然にも西南戦争記念碑(歩兵第9連隊慰霊碑)の前を担当し、過去を思い出していました。遠くでは皇太子を歓迎する花火がどんどん打ち上がり、まるで大砲の音に聞こえます。しばらくすると皇太子の随行員がやってきたものの、記念碑に敬礼することもなく、眼下を見下ろして車夫にいろいろ指図している。やはり、日本の地理を調査しに来たのだろう……こうして殺害を決意、3番目の警備ポイントで皇太子を襲撃したのです。

三井寺
三井寺。左端の塔が津田が警備した記念碑(現在は山奥に移転)


 10年ほど前、三重県上野市の個人宅から津田三蔵の書簡53通が発見されました。そこには、西南戦争中の気持ちが綴られていました。

《当月廿四日(9月24日)午前第四時ヨリ大進撃ニテ大勝利、魁首(かいしゅ)西郷隆盛・桐野利秋ヲ獲斃(とらえたお)シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ》
  
 津田の一族は、代々、津藩に仕える医師の家系でした。津田は明治4年頃まで藩の学校で学問をしており、最も多感な時期に明治維新を経験しました。おそらく、新しい時代に過度の期待を持っていたはずです。
「国家」や「国民」という概念は江戸時代にはなく、明治以降、初めて誕生しました。ペリーが江戸湾に再来した安政元年(1854)生まれの津田三蔵は、人生そのものが「日本の近代化」と軌を一にしています。その意味では過渡期の犠牲者ともいえますね。

 そして、事件から約4カ月後の9月29日、津田は北海道・空知で獄死しました。享年37。

 過渡期の犠牲者と言えば、津田を取り押さえた車夫も悲惨な末路を送りました。
 向畑治三郎と北賀市市太郎は、事件後、ロシア軍艦に招待され、勲章と2500円の報奨金、1000円の終身年金を受け取りました。日本政府からも勲章と年金が与えられたものの、日露戦争が起きると年金は停止してしまいます。
 結局、向畑は放蕩の限りを尽くし、最後は犯罪者に転落。北賀市は郷里で郡会議員になったものの、露探(ロシアのスパイ)扱いされ、村八分に遭いました。

大津事件
大津事件で津田三蔵を押さえた車夫。左が向畑治三郎、右が北賀市市太郎


 きっと2人とも日露戦争さえなければと思っていたでしょうが、もちろんその日露戦争は、大津で被害にあった皇太子が3年後に皇帝ニコライ2世となって指揮したものです。そして、ニコライ2世自身、1917年のロシア革命で失脚、翌年処刑されています。


制作:2011年10月17日


<おまけ1>
 西郷隆盛の遺体は首がありませんでしたが、確実に西郷と断定できたと言われます。どうしてかというと、実は西郷はフィラリアに感染し、陰嚢が巨大な大きさになっていたからです。西南戦争のさなかは馬にも乗れなかったと言われています。
 でもまぁ、こういう話は表には出てこないんですよね。もちろん、後年作られたウソかもしれないけど。

フィラリア(象皮病) フィラリア(象皮病)
フィラリア(象皮病)で拡大した陰部


<おまけ2>
 事件を受けて大混乱の政府でしたが、外交上のトラブルだけに、もし内部のやりとりがばれたら、さらに大変なことになります。そこで、機密文書には暗号が使われていました。単純な1文字ずつの変換暗号で、こんな感じです。
明治政府の暗号
大津事件の翌年に改訂された暗号表(アジア歴史資料センターのサイトより)


<おまけ3>
 参考までに、大津事件に対する政府の対応を詳細に書いておきます。

大津地裁の車寄せ
大津事件当時の大津地裁の車寄せ


 大津事件の夜、明治天皇は、「亟(すみや)かに暴行者を処罰し、善隣の好誼を毀傷することなく、以って朕が意を休せしめよ」と詔勅を出し、翌朝6時に東京を発ち、京都で皇太子を見舞いました。

 神戸には、皇太子が乗ってきたロシアの軍艦が停泊しています。政府内では、西郷隆盛の弟・西郷従道(内務大臣)が「軍艦が東京に来る」と叫んで、津田三蔵の死刑を主張しました。ほかにも伊藤博文、松方正義(首相)、山田顕義(法務大臣)らほとんどの閣僚が死刑を訴えています。
 なかには後藤象二郎(逓信大臣)や陸奥宗光のように、「津田をとっとと殺しちまえ」という乱暴な政治家もいました。また、青木周蔵(外務大臣)は、もし皇太子に何かあったら極刑にするという密約をロシアと結んでいたとされ、何が何でも死刑にするつもりでした。

 国民が固唾を呑んで事態を見守っていると、15日に大阪毎日新聞が「津田に死刑は適用できない」という記事を書きました。天皇や皇太子に対する危害は、当時の刑法116条で「死刑」となっていましたが、これは外国人に適用できないからです。まして、津田に精神疾患があれば、死刑にはできません。
 この記事に怒った政府は、翌日すぐさま「外交記事の検閲」法を施行し、大阪毎日新聞を発行停止にしました。
 明治の元勲と持ち上げられる人たちも、実際は普通の人間で、大事件に狼狽してる姿が伺えますな。

 裁判所も、本来、大津地裁で一審から審判するところを、いきなり大津地裁を大審院(現在の最高裁)扱いとし、約2週間後の27日にすばやく判決を下しました。
 判決は死刑ではなく、無期懲役。法治国家である以上、法を曲げるわけにはいかないという判断でした。

児島惟謙
児島惟謙

 大審院長の児島惟謙(こじまこれかた)が政府に提出した意見書によれば、
《法律を曲ぐるの端を開かば、忽(たちま)ち国家の威信を失墜し、時運の推移は国勢の衰耗を来たし、締盟列国は益軽蔑侮慢の念を増長し……》
 
ということです。
 
 こうして、教科書的に言えば、以後、三権分立の意識が高まり、司法の独立が確立したわけです。

 大津事件が一件落着すると、政府は検閲を撤廃します。
 しかし、日清戦争の前に再び検閲を強化し、それは昭和まで続くのでした。

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