「進ぬ!電波少年」・朋友チューヤン研究
この原稿は、僕が1998年に某週刊誌に書いたもの。チューヤンの秘密を大公開!


「香港の男は軟弱だから、チューヤンは絶対すぐ挫折すると思ったんですけどね」
 と、香港在住のある日本人OL。朋友のヒッチハイクの旅は、現地でも「城市追撃」という番組でオンエア中で、日本同様、大人気を呼んでいる。
 チューヤンの本名は謝昭仁、1972年8月4日生まれ。好きなタレントは稲森いずみで、食べ物はチキンカレー、香港チャーシューそしてポテトチップスがお気に入り。

「チューヤンはとてもエネルギッシュで頑張り屋さんでした。興味があることはどんどん資料を集めて勉強していましたね。
 デザインの方面では豊富なアイデアを持っていて、とても才能がありました」
 と話すのは、彼が専門学校卒業後にバイトしていたデザイン事務所ダブルエックスのスタッフ、ロレーヌさん。
 ダブルエックスは、香港で大人気のDJユニット硬軟天師の一人と、歌手のグラスホッパーが共同で設立した会社だ。
 彼はこの後、職を転々とし1994年に新城ラジオ、1996年に商業ラジオに入局するのだが、どうやらダブルエックス時代にDJに興味を持ったことは間違いない。

 現在でも籍だけは残してあるという商業ラジオでは、毎日「無字頭8910」という番組を担当していた。これは朝8時から10時までオンエアしているといった程度の意味で、番組名に特に深い意味はない。
 この番組で、チューヤンは街頭インタビューや視聴者参加型のゲームをとり仕切っていた。
「そのほか、怪しげなものの真実を暴露する、なんていう企画もあったようです」(ラジオ局関係者)
 怪しげなものとは、「神医」(どんな病気でも治せる医者)や「睇相」(予言者)といったもので、チューヤンは患者を装ってターゲットから診察を受け、その会話を録音してそのまま放送していたようだ。
「でも、メインDJというよりレポーターという感じで、出番は本当に少なかったみたい」(同)

 ある日、彼は雑誌で「電波少年」の出場者募集広告を発見する。「タダで旅行できるなんて、どうせこれも裏があるに違いない」と思い、テープを持ち込んで半信半疑のまま面接を受けたという。
 多くの若者が「有名になりたい」「金がほしい」などと自己アピールする中、彼は
「自分の人生を変えたいんです」
 と話したという。
 この一言が、100人以上の志願者のなかからチューヤンを選ぶ決め手となった。

 だが、採用されても、すんなりと出発できたわけではない。父親はすでに引退しているし、姉3人、妹1人という家庭環境で育った彼は、家族の面倒を見る必要があったのだ。そのうえ、
「船乗りだった彼のお父さんは、昔、何度もアフリカに行ったことがあり、アフリカの貧しい国情を知っていたため、ずいぶん心配したようです」(現地の情報誌「壱本便利」記者の鄭書慧さん)
 親孝行だと評判の彼は、出発を悩んでいたが、結局、旅立ちを決意する。南アフリカの喜望峰に発つ直前、家族は記念写真を撮った。

 このときチューヤンは、当面の生活費として、父親に10万香港ドル(約170万円)を残していったという。
 アフリカ・ヨーロッパのヒッチハイク旅行は、こうして始まったのだ。
 
 チューヤンの実家

 チューヤンの実家を訪ねてみた。
 彼の家は香港・九竜半島の観塘駅から、徒歩15分ほど。騒がしい町並みを抜けると、突然、あたりは静かになり、高層マンションが並び始める。
 そのなかに、チューヤンの住んでいたマンションはポツンと建っていた。60段ほどの急な階段を上ると、現れたのは緑と白のペインティングがされた15階建てビル。チューヤン一家はこの14階に住んでいる。
 ビル自体はひどくオンボロで、エレベーターもガタガタになっている。壁もペンキの剥離が目立つ。

 玄関は厳重な2重扉になっていて、家の中には、神棚が見える。インターホンで呼び出すと、父親が応対に出てきてくれたのだが、
「取材はマネージャーを通してくれないと困るんです。それ以外の取材は契約でできないんです」
 の一点張り。マネージャーも取材には応じてくれなかったため、残念ながら、コメントはいただけなかった。

 そこで、部屋の中の様子を前述の「壱本便利」の記者、鄭さんに聞いてみた。
「チューヤンの部屋は、日本で言えば6畳くらい。部屋は非常にきれいに整頓されていましたね。ベッドが一つある他は、壁一面が全部本棚なんです。そこには日本の漫画がそれこそ数百冊並んでいましたよ」
 お気に入りの漫画は「ドラゴンボール」「H2」「鉄人ガンマ」などらしい。彼はこうした漫画を大量に読むことで、似顔絵やデッサンの勉強に役立てていた。
 漫画の多くは現地語に翻訳されているが、なかには日本語のままのものもある。
 チューヤンの口癖「何だよー」は日本のテレビドラマで覚えたと言うが、漫画も日本語に関心を持つきっかけだっだのは確かだろう。

 チューヤンのビデオを見ながら、父親は鄭さんにこう話したという。
「私たちは、最初、ただ単に息子が数日間、日本で撮影し、すぐに帰ってくると思っていたんです。それが、いつのまにか一年間の旅に行ってしまって……。でも今は、心の底から応援しています」
 チューヤンは、両親の大きな優しさに包まれて、ゴールしたのだった。

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