江戸時代のファッション革命
北海道・昆布とニシンの経済史

アイヌの昆布漁
アイヌの昆布漁


 北海道・利尻島の鴛泊(おしどまり)に船が入港すると、最初に目につくのは、標高93mの巨大なペシ岬です。さっそく登ってみると、案の定、眺めは最高!

利尻島ペシ岬 利尻島ペシ岬からの眺望
利尻島ペシ岬と、頂上からの眺望(雲の向こうには利尻富士)


 で、このペシ岬を登る途中に、会津藩士の墓がありました。なぜ北海道に会津藩士がいたのか。実は、1807年、江戸幕府は北方警備のため、会津藩に樺太出兵を命じてるんですね。

利尻島の会津藩士の墓
利尻島の会津藩士の墓


 これは、当時、ロシア兵が樺太や北海道で略奪行為を行っていたからです。ロシア兵は、ナポレオン戦争のため撤退しましたが、このとき多くの日本兵が寒さと野菜不足のせいで、体がむくみ、腹がふくれ、呼吸困難に陥りました。これを水腫病(すいしゅびょう)といいます。

 1809年、探検家・間宮林蔵は樺太に渡り、ここが島であることを確認します。間宮林蔵は、伊能忠敬が測量しきれなかった蝦夷地を、代わりに測量するほど北海道で動き回るんですが、やはり水腫病にかかってしまいます。そのとき、「アイヌは魚と昆布を食べているから、病気にならずに冬を越せるのだ」と教えられ、実際に食べてみると、たしかに体調は回復したのです。

 幕府は、1856年、北方警備兵の水腫病防止のため、クワヒル(オランダ語)と呼ばれる日本初の石炭ストーブを作らせます。
 また、薬としてコーヒーを配布しました。コーヒーのビタミンが病気を防いだんですが、ペリー来航が1854年なので、北海道のコーヒーの歴史は意外に古いことがわかります。とはいえ、一般人はコーヒーなんて手に入りません。やはり、魚と昆布こそ、冬の北海道で生き抜くための最大の“薬”だったのです。

 そんなわけで、今回は魚、特に鰊(にしん)と昆布の歴史から、壮大な文化史&経済史をまとめておきます。

ニシン
北海道経済を支えたニシン



 まず、東北・北海道のアイヌにとって、昆布は昔から重要な産品でした。西暦715年、蝦夷から「私たちを他の人たちと同じように扱ってくれるなら、今後も永久に昆布を貢納します」と奏上があったと『続日本紀』に記載されているほどです。

 昔の輸送路は日本海で、北海道から福井の敦賀や小浜に陸揚げされました。ここで加工されると若狭昆布と名付けられ、京都で加工されると京昆布と呼ばれました。京昆布は、圧倒的に味がよいので有名でした。

 江戸時代になると、北前船で大阪に荷揚げされるようになり、このため今でも昆布の加工業者は大阪に多いのです。
 礼文町の厳島神社には、航海の安全を祈願する船絵馬も伝わっています。ちなみに礼文島は、金沢出身の「海の豪商」銭屋五兵衛がロシアとの密貿易の拠点にしていたため、島の北端にあるスコトン岬近くには「銭屋五兵衛貿易の地」の石碑が立っています。

礼文島スコトン岬
礼文島スコトン岬


 昆布といえば主産地は利尻島・礼文島で、1807年に両島にやってきた幕府の役人、草川伝次郎の『西蝦夷地日記』にも、主要産物として昆布があげられています。礼文島で採れても稚内で採れても、ブランドは「利尻昆布」なのが面白いところです。

稚内港
稚内港(1930年代)

 
 幕末の1850年代には北海道で昆布の人工繁殖が成立し(『大日本産業事蹟』による)、生産量は格段に上がります。
 とはいえ、昆布は貿易額としてはそれほど大きくありませんでした。北海道の水産業を代表するのは、ずっとニシンでした。ちなみに、ソーラン節はニシン漁で歌われる歌のことです。
 
 もともとニシン漁は、アイヌが細々と営んでいましたが、和人によるニシン漁が始まったのは、室町時代の1447年のことでした。1677年には、函館で大型定置網漁が始まります。江戸時代に入ると、北海道各地でニシン漁は盛んになり、千石場所と呼ばれる漁場が各地に開かれました。

 ニシンは東北地方の方言で「カド」と呼ばれ、「カドの子供」が「カズノコ」となりました。産卵のため浅瀬にはニシンが大量に押し寄せるので、捕まえるのは簡単。それが高く売れるので、ニシン漁は多くの金持ちを生みました。
 年によっては、タマゴにオスがかける精液で海が真っ白に染まることもありました。これを「群来」と書いて「くき」と呼びます。

北海道のニシン漁
北海道のニシン漁(1930年代)


 地理学者・古川古松軒の『東遊雑記』には、「松前の漁民は春の3カ月働き、残りは遊んで暮らす」と書かれています。

《鰊(かど)をニシンとも土人は称して、子をカヅノコという。
 この魚2月の末より来て、3月4月を最中とせり。当年は鰊多しという年は、海上へ一段高くなり真白く見ゆるほど集るなり。何国より来るとも知れず。およそ蝦夷の地より松前の海浜数百里の大海、皆みな鰊魚となることにて、なかなか取り尽くされぬことなり。
 蝦夷及び松前の諸人は、鰊を以て1年中の諸用、万事の価とせることゆえに、鰊の来れるころは、武家・町家・漁家のへだてもなく、医家・社人に至るまで我が住家は明家(あきや)とし、おのおの海浜に仮の家を建て、我劣らじと鰊魚を取ることにて、男子は海上を働き、婦人・小童は鰊をわりて数の子を製することなり》


 漁場が拡大し、笊網(ざるあみ)、建網といった大きな網を使うようになると、ニシンの漁獲量は一挙に拡大します。
 その結果、これまで食用のみだったニシンが、ニシン粕という肥料になり、従来のイワシ粕に取って代わり、爆発的に売れるのです。

 なぜニシン粕はバカ売れしたのか。実は、ほとんどが綿(わた)の栽培に使われました。もともと日本になかった綿は、戦国時代、ようやく一部の武士に軍需用品として使われ始めました。それが、江戸時代になって、徐々に栽培量が増えていきます。

 しかし、綿の栽培には大量の肥料(金肥)が必要でした。その肥料こそ、北海道からやってくるニシンだったのです。大量のニシンを畑にぶち込んで、大量の綿を生産する。当時、綿は米の5倍儲かるといわれ、多くの農民が綿を作ったのです。こうして、これまで麻しか着たことのない庶民が、暖かい綿を着るようになりました。まさに、ファッションの大革命が起きたのです。

北海道の鰊番屋
北海道の鰊番屋(留萌郡小平町)


 ニシンの生産は、「場所請負人」によって独占的に行われました。そのあたりの事情を司馬遼太郎が書いています。

《藩士には知行地のかわりに「場所」(アイヌとの交易場)というものをあたえた。室町から江戸草創期までは、ごく素朴な形態で、松前から船を出してそれぞれ酋長領へゆき、交易するだけであったが、16、17世紀から本土の商業資本が進出し、やがて「場所」を商人が請負(うけおい)するようになった。
「手前があなた様の“場所”をとりしきって利潤をあげます。その利潤の何割かをあなた様に差し上げます」
 という制度である。「場所」は1つのそれの広さが本土一郡ときに一国ほどあり、数は85個所であった》(『街道をゆく』15)


 大規模なニシン生産が進むと、場所請負人は、アイヌを交易相手でなく、漁夫として見るようになりました。市場経済の流入で、アイヌは奴隷的な賃金労働者に転落していきます。
 当時、アイヌが強いられた労働は、春がニシン・タラ・ノリ漁、夏が昆布・アワビ漁、秋がサケ漁、冬が山の猟でした。しかもほとんど食べ物は与えられず、無理矢理働かされたのです。

北海道の鰊番屋
北海道の鰊番屋の内部


 アイヌ搾取のひどい実情が、「北海道」という地名を作った松浦武四郎によって記録されています。請負人の石橋屋松兵衛は、《土人を使うこと犬馬の如く》であり、

《1日の飯米と云(いえ)ば僅(わずか)1合8勺ばかりの椀に玄米1杯を与え、其(それ)も運上屋に残り飯のある時は其飯を粥にのばし、是(これ)を1日に3椀宛(ずつ)遣(よこ)して責(せめ)遣(つか)うまま、幼なき者やまた老たるものは何も喰することもなり難く、1枚の古着といえども何の手立あるや、唯(ただ)他所(よそ)より出稼といえるものの来り、漁業等の者等が其(その)飢寒を憐れみて時々古きものの1枚をも遣し侯にて漸々(ぜんぜん)凌ぎ居りしが、左有る故50余歳まで生きる者なく、皆30歳より40歳前後にて病を受けて死し、子供も7、8歳まで内(うち)必らず飢と寒との為めに死し》(『近世蝦夷人物誌』)

 ほかにも、女・子供まで含めた強制労働、男の強制移住、そして婦女子への暴行行為が数多くあったことが書き記されています。

松浦武四郎
松浦武四郎


 北海道経済を支えたニシン漁は、1897年(明治30年)、約100万トンという史上最高記録をうち立てたてます。しかし、回遊魚のニシンは次第に北海道から姿を消していき、漁場はどんどん北上していきます。戦後の漁獲量はジリ貧となり、1955年を最後にニシンはほとんど採れなくなりました。

 ニシン漁が衰退すると、結果的に利尻島、礼文島のコンブ漁の比重が高まりました。そんな貴重な昆布ですが、大正時代、生産危機に瀕します。最大の原因は、ウニによる食害でした。このため、当時はウニの駆除が急務とされたのです。

 海産物としてウニの価値が見出されるのは、昭和10年代に入ってからのことです。利尻、礼文のウニは、最高級の昆布を食べてるわけで、そりゃう まいに決まってます。しかし、もともとは単なる厄介者だったのです。

 
 1878年(明治11年)に北海道を旅行したイザベラ・バードは、北海道の昆布干し風景が、日本で一番美しかったと書いています。

《森の茂っている丘、岩肌を見せている丘にはアイヌの小屋が見え、有珠岳の朱色の火山口は落日の光を浴びてさらに赤色に染まっていた。数人のアイヌは網を修理しており、さらに食用の海藻(昆布)を乾すために広げているものもいた。一隻の丸木舟は黄金の鏡のような入江の水面を音もなく辷(すべ)っていた。いく人かのアイヌ人が海岸をぶらぶら歩いていたが、その温和な眼と憂いを湛えた顔、もの静かな動作は、静かな夕暮の景色によく似合っていた。寺から響いてくる鐘の音のこの世のものとも思えぬ美しさ——景色はこれだけであったが、それでも私が日本で見た中で最も美しい絵のような景色であった》(『日本奥地紀行』)
 
 日本で最も美しい風景の陰には、アイヌ弾圧の歴史が隠されていたのです。その搾取のうえに、日本の木綿文化が花開いたのでした。

アイヌ人の女性
アイヌ人の女性たち(1930年代)


制作:2013年5月9日


<おまけ>
 今では、ウニは最高の海産物のため、ウニ漁には細かい操業規則が決められています。礼文島ではキタムラサキウニをノナと呼んでるんですが、たとえば2013年の規則はこんな感じ。

・(時間)4月1日から4月20日の操業は、午前7時半から正午までと、午後1時から3時まで
・(量)採集できる量は殻付きで31kgまで
・(サイズ)殻の長さ5cm未満は採ってはいけない
・(器具)操業には漁船を使用し、漁具はタモしか使ってはいけない

 ちなみに拾い昆布漁も「使用器具は木または竹のカギのみ」「救命チョッキを着ること」など、さまざまな規定が決まっています。こうして水産資源は守られているんですね。

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