ダンス天国・鹿鳴館

鹿鳴館
これが鹿鳴館だ!

「ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々(バカバカ)しさを噛みしめながら、だんだん踊ってこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな」
「一寸(ちょっと)の我慢でございますね。いつわりの微笑も、いつわりの夜会も、そんなに永つづきはいたしません」
「隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を」
三島由紀夫『鹿鳴館』より


 明治16年(1883)11月28日、東京日比谷、現在の帝国ホテルの隣に、鹿鳴館がオープンしました。

 従来、日本にはまともな迎賓館がなく、芝離宮の旧海軍奉行所を改築した延遼館くらいしかありませんでした。
「これではまずい、不平等条約解消に向け、外国人にもっと日本が素晴らしい文明国だとアピールしないと!」
 こう思った外務卿(現在の外務大臣)井上馨が熱心に建設に動き、建築期間3年をかけてようやく完成したのです。

延遼館
こちら旧迎賓館の延遼館


 鹿鳴館は建坪400坪あまりで、煉瓦造2階建てでした。
 1階東側に大食堂、西側の北にビリヤード場、このほか談話室やら図書室、寝室、応接所など全部で40あまりの部屋がありました。

 そして2階中央が巨大な舞踏室で、その両隣に客間が配置されていました。この3部屋は仕切りを取り払って1間にすると、かなり広いスペースになったようです。
 装飾は素晴らしく、当初10万円を予定した建築費は、結局14万円以上になったといいます。

鹿鳴館
鹿鳴館


 鹿鳴館の開館式はものすごく気合いが入っていました。
 そのときの様子を、明治16年11月29日の東京日日新聞より引用しておきましょう。

《玄関の正面には菊御紋の紫幕を張り、その上に鹿鳴館なる3字の花瓦斯(はながす)を点火し、庭の内外には藍赤の中白に鹿を書きたる数千の毬燈を掛け、表門には青葉の円形飾りに菊の花を挿みて国旗を交差し、その装飾厳然たり。

 さて外務卿の招待に応じ、皇族、大臣、参議を始めとして、各省の勅奏任官並びに各外国公使、在野の紳士等、午后6時頃より前後相継ぎて参館し、やがて坐席も定まりたる頃、庭の左右に整列したる海陸軍楽隊楽を奏し、終わりて更に晩餐の饗応あり。

 また同館下の日比谷練兵場にて昼花火30本、夜花火77本を打ち揚げ、かつ同館御用達方の花火23本をも打ち揚げて余興を添えられ、実に近頃珍らしき盛式にてありし》

 
 鹿の書いてある数千の電灯って、かなり不思議ですが……。

 さて、この日の祝宴会は井上外務卿夫妻がホスト役となって、諸親王やら大臣、参議、各国公使、東京府知事、警視総監、駅逓総官などなどのお歴々が、夫婦揃って総勢約80人。

 豪華な食事会が終わると、夜の8時半から、1200人(!)の招待客を集めた大踏舞会が開催されました。

 そして、午前1時、横浜から来た来賓が新橋発の臨時汽車で帰りますが、東京在住の人々は午前2時くらいまで大騒ぎしていたんだとか。

 すげーな、鹿鳴館。なお、下の写真は鹿鳴館で仮装やダンスに興じた人たちです。

鹿鳴館
左:矢田部良吉の大黒、右:穂積陳重の恵比寿

鹿鳴館
左:秋月左都の妻その子、右:牧野伸顕の妻みね子、ともに三島通庸の娘


 さて、調子に乗った(笑)明治の高官たちは、その後もダンス三昧の日々。数年もたつとものすごくダンスが上手になったそうで、これには来日したイギリス人がビックリしています。

 そのイギリス人、日本のダンス文化にこんなしょうもない文句を付けています。

「日本の舞踏会には老婦人が多すぎる! ヨーロッパでは舞踏は若い婦人しかしないのに!」(郵便報知、明治18年7月12日)

 なんじゃそりゃ? まぁ、いくらダンスが盛んになっても、妻に何を着せていいかわからないから同伴はイヤだとか、燕尾服なんて着られないとかで、日本の紳士はエチケットがなっとらんと、ずいぶん後まで批判されるんですけどね。

 さて、明治20年(1887)4月20日、ダンス大好きの伊藤博文が首相官邸で仮装パーティを開きました。

伊藤博文の仮装パーティ
政治問題となった伊藤博文の仮装パーティ(小林清親・画)


 このとき伊藤博文がベニスの貴族に、山県有朋が甲冑姿に変身して、そのあまりの脱線ぶりに天下騒然となりました。世論は「亡国だ」と沸騰し、結局、「外交の不手際」ということで、井上が外務大臣を辞任しています。

 明治人は偉大だったなんて言いますが、本当にそうなのか、ちと疑問に思う展開です(笑)。

 なお、その後、鹿鳴館は宮内省に払い下げられ、一部が華族会館となりました。
 その建物は1940年に取り壊されています。

華族会館
華族会館(大正元年頃)


制作:2006年5月9日


<おまけ>

 鹿鳴館の名前は、井上が『詩経』から取って命名しました。開館式のスピーチで、井上はそのことを誇らしげに語っています。
 というわけで、その演説を全文公開しておきます(東京日日新聞、明治16年12月1日より)。

 殿下閣下貴女及び紳士諸君

 それ我が日本国と西洋諸国との間に、初めて交際を開きしより以来(このかた)今日に至るまで、わずかに1世紀の4分の1に過ぎず。しかりといえどもその僅少の歳月間我が外人に対する友情好意は漸次(しだい)に進歩してほとんど今日に至りては、至る処としてますます西洋諸国と交際を親密にし、以って今日の友情好意をますます鞏固(きょうこ)ならしめんとするの意を表せざるはなし。

 今や我が国の浜(ひん)に臨まるる外国貴賓は、皆その近隣諸国に至りて厚待を受くべきの信認と同一の信を抱きて、以って我が国に臨まれざるはなし。しかるに我が帝都の中、未だかかる貴賓を請すべき適当の場所なきは、皆人の知る所なり。

 さればこの要に充てんがために、この館を建築せんとせしは、最初の目論見(もくろみ)なりき。

 さて工事も追々捗取(はかど)るに従いて、ここにまた1つの事実ありて、絶えず我輩をしてかく不期邂逅(たまさか)の外資のために、その招請の処を設くるといえども、我が国居留の外国紳士のためには、未だその備えなしとの思考を起さしめたり。この思考によりて、我輩をして最初に目論見し規模をいっそう拡張せしめ、しかしてついにその建築の竣工を告ぐに至れり。

 さればこの鹿鳴館は、向後内外縉紳(しんしん=身分ある人)のともに相会し相交際し、以ってかつて経緯度の存することを知らず、また国境のために限られざるの交誼友情を結ばしむるの場となさんと決定せり。

 もし吾が詞以って吾が意を尽すあたわざらしむるも、我輩がこの館に命ずる処の名によりて、以って我が意を表するに足るべしと信ず。我輩が詩経の句に仮りて、この館に命(なづ)くるに鹿鳴の名を以ってしたるは、各国人の調和の交際を表草するの意にして、この館に於いてもまた同じく調和の交際を得ん事は、我輩の期してかつ望む処なり。

 本館の規則は既に用意中なれば、我輩は本館の会員たるを望み得べき諸君のために、本会の開会を告ぐるの期近きにあらんことを望むなり。

 我輩はこの企ての目的にして成功を奏せんことを信じて疑わず。しかれどもたといいかなる事あるとも、この事業たる我輩が世界文明進歩に最も重要の元素なりと、何国にても認められたる好意と友情を、ますます親密にし、ますます永存せしめんと欲するの証拠となりて存すべきなり。

 終わりに臨みて、余は本館建築の工師たるコンデル氏に対いて、この工事のために尽されたるその勉励能力、及び実際上の智識によりて、この満足の落成に与りて、大いに力ありし事を、厚く謝せんと欲するなり。

     
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