生物学者としての昭和天皇

昭和天皇
顕微鏡を覗く昭和天皇


 明治44年(1911年)夏。
 当時10歳だった昭和天皇は、1つ年下の弟・雍仁親王(やすひとしんのう)と、毎日毎日、昆虫採集をしていました。
 場所は群馬県の伊香保。

 雍仁親王が「どうしても蝶が2匹欲しい」と言うので、昭和天皇は「珍しいオオムラサキを採ってやろう」と考えます。2人は必死になって野山を駆けまわり、特に「見晴らし山」にいたっては21回も登り、8月10日、ついに2匹捕獲することに成功します。

 その晩は嬉しさのあまり、お付きの者と提灯行列でお祝いしました。

 虫好きの昭和天皇は、虫を捕まえると標本にし、図鑑で名前を調べるのが日課でした。使った図鑑は昆虫学者・松村松年の『原色千種昆虫図譜』です。
 当時、この図鑑は少年たちの心を虜にしていました。
 宝塚市に住んでいたある少年は、この本で「フトオアゲハ」という蝶に魅せられ、後年、漫画家になったとき、名前に「虫」をつけて「手塚治虫」というペンネームにしたほどです。

 松村松年は、養育掛の足立タカと懇意だったため、虫の名前を調べきれないとき、タカが手紙で松村に聞いてくれました。
 こうして、昭和天皇の昆虫知識はどんどん増えていくのです。

オオムラサキ蝶
オオムラサキ(『原色千種昆虫図譜』より)


 伊香保で採ったオオムラサキは、弟と1匹ずつ標本にし、学校の展覧会に出品します。そのため、夏休みに採った昆虫を整理したところ、全部で230点以上ありました。これらを1つのガラス箱に入れ、前年にできた新しい標本室に保存しました。
(その後、この標本は高輪の東宮御所で保存していましたが、1923年の関東大震災で焼失。昭和天皇は、この標本が焼けたことを生涯、残念に思っていました)

 1914年(大正3年)5月4日、東宮御所内に「東宮御学問所」ができ、英才教育が始まります。当時14歳。
 たとえば月曜の時間割は「倫理」「漢文」「国語」の3教科で、「博物(生物)」は水曜の3時限(10時15分から11時)でした。この生物を教えたのが、理学博士の服部広太郎です。昭和天皇は服部を「先生」と呼び、終生、全幅の信頼を置いていました。

昭和天皇の生物ノート
昭和天皇の幼少期の生物ノート


 生物好きの昭和天皇のもとには、ありとあらゆる標本、剥製、そして生きた動植物が集まってきました。たとえば1912年6月26日には、南極探検した白瀬矗からペンギンの剥製が届きました(この剥製は崩御するまで研究室に置かれました)。ほかにもハチドリ、五色鳥、ムササビなど大型なものから、魚、貝、寄生虫まで何でもありでした。

 生きた珍獣も多く、1913年9月26日には、トラック島で捕獲された海亀のタイマイが、1914年5月21日にはワニが献上されています。
 昭和天皇の標本室は、世界のどこよりも珍しい博物館だったのです。

生物学御研究所の貝類標本室
生物学御研究所の貝類標本室(1948年)


 宮中に生物学の研究室ができたのは、1925年(大正14年)9月19日のことです(当時24歳)。

 御用掛の服部広太郎が設計したもので、約45坪の木造平屋建て。赤坂離宮御苑の東の隅に位置していました。
 内部は実験室、図書機械室、準備室、飼育培養室の4部屋。付属建物として、実験材料の貯蔵室と園丁の詰所を兼ねた一棟と、10の区画に分かれた動物飼養舎、そして肥料・用具の物置がありました。
 さらに、実験用の圃場は500〜600坪あり、200坪の花畑も併設されていました。

 昭和天皇は、基本的には土曜日にここに詰め、趣味の研究を続けます。

昭和天皇の研究室
昭和天皇の研究室(1948年)


 1928年(昭和3年)9月15日、昭和天皇の遷御とともに、生物学御研究室も現在の皇居に移転します。
 建物は本家(94坪の鉄筋コンクリート2階建て、135坪の木造平屋建て)2棟、附属家(32坪の木造平屋建て)、温室(31坪)、鶏舎(36坪)と大規模なものになりました(現在も「生物学研究所」として存続)。

生物学御研究所
生物学御研究所

 昭和天皇の初期の研究内容は、たとえば

 ●動物の幼胚から新しく器官が作られるまでの変化
 ●蚕の発育と繭づくりに紫外線が与える影響
 ●稲の雑種の生成
 ●フナと金魚双方の特徴を備えた「鉄魚」の雑種性の確認

 などです。とはいえ、基本的には分類学を主としており、生理学は行いませんでした。その理由を、分類学を勧めた服部広太郎がこう語っています。

《生理学というものは一つのテーマについて仕事を始めたら手があけられない。朝だろうが夜中だろうが、かまわずに観察して行かなければならない。陛下は御身分の関係からそれができない。生理学はいやだからなさらんというわけではありません。
 仮にいまタケノコの生長の速度を計るとしましょう。タケノコは夜半に速く日中は遅いものです。夜半に起きていて夜通し観察していなければわかりません。そんなことは仕事の多い陛下にはできませんよ》(『科学朝日』昭和23年8月号)


昭和天皇の標本
「裕仁」と書かれた標本


 1929年(昭和4年)6月1日、昭和天皇は、御召艦「長門」で、初めて和歌山県の沿岸部に出かけます。生物が多様なことから、一番楽しみにしていた場所でした。

 午前中、京都帝大の附属臨海研究所に到着し、南紀の地質、動物、貝、海藻などについて講義を受けます。この日の午後の様子は、『昭和天皇実録』から引用しておきます。

《午後、駒井所長等と共に研究所の和船に御乗船になる。
 四双島・塔島付近において地元潜水夫が海中より採集したウミトサカ・テヅルモヅルほかを御観察になり、海藻に付着したヒドロゾアを御手ずから切り取られる。
 ついで神島に御上陸になり、南方熊楠より神島についての説明を御聴取の後、繁茂する樹陰に入られ、粘菌の採集を試みられるも成果なし。
 ついで畠島に向かわれ、御上陸になる。磯にてドラベラ・ウミウシ・珊瑚等を御採集になり、続いて石川講師より漣岩等についての説明をお聴きになる。
 午後5時45分、御召艦に御帰艦になる。艦内において南方熊桶より約30分にわたり粘菌・地衣類・海蜘蛛・ヤドカリ等に関する講話をお聴きになり、日本産粘菌類の献上を受けられる》


 これだけでも、ずいぶん楽しんだことがうかがえますね。

 余談ながら、南方熊楠は献上した粘菌類をキャラメルの箱に入れていました。のちに昭和天皇は渋沢敬三に「普通は桐の箱かなんか、立派な箱に入れてくるのだが」と、とても驚いたと語っています。

 この話には後日談があります。1962年5月23日、33年ぶりにこの地を再訪した昭和天皇は、南方熊楠と散策した神島を望んでこう詠みました。

《雨にけぶる神島を見て紀伊(き)の国の生みし南方熊楠をおもふ》

 奇人と呼ばれた南方熊楠との出会いも、生涯のいい思い出になったのです。

昭和天皇が見つけた新種ショウジョウエビ
昭和天皇が見つけた新種ショウジョウエビ


 昭和天皇は、数多くの新種も発見しています。貝だけで110、全部で200以上の新種を発見したと言われますが、特に有名なのが、16歳のとき(1918年3月12日)、沼津の海岸で発見したエビで、ショウジョウエビと命名しています(ただし、1982年に新種ではなかったと判明)。
 また、1941年1月15日には、江ノ島の海底から新種のクラゲを発見、コトクラゲと命名しています。

 コトクラゲは、後に「いちばん面白かった」と語るほど大きな発見ですが、当時は戦時下でもあり、発見者は学者の駒井卓名義になっています。

 しかし、こうした生物学研究は、軍部から非常に睨まれていました。皇居内の生物学御研究所にも軍人が常駐し、かなりの圧力が掛けられました。後に、昭和天皇自身が会見でこう語っています。

《あの頃は、もう非常にやかましくって、ええ、私の名前で発見した新種を出さない方がいい、という説が出たくらいで。相当あの時は、やかましかった》(1976年8月23日)


昭和天皇が見つけた新種
昭和天皇が見つけた新種(左がネダケシャジク、右がヒグルマガイ)


 コトクラゲの発見は1941年1月。この年の12月には、南方熊楠の訃報が届きます。
 侍従だった入江相政の日記には、《南方熊楠のお話など出て大変お賑やかだった》(12月30日)とありますが、『昭和天皇実録』には一切その記録がありません。

 公式記録に書かれているのは、陸軍人事の話や海軍戦果の上奏、戦争映画の鑑賞などキナ臭いものばかり。12月8日の真珠湾攻撃で日米が開戦しているので、生物学の話など表だってすることは不可能だったのです。

 弟の雍仁親王と一緒にやった伊香保のオオムラサキ取りは、幼少期で最も印象に残る出来事でした。実はこのとき、昭和天皇は歩兵第15聯隊の演習を見学しています(1911年8月27日)。これが、生まれて初めて見た軍の演習でした。
 この日の日記には《私は前から(演習を)一ぺんみたいと思ってゐた所へ今日はじめて見られたからうれしかった》と書きました。

 しかし、それから30年後、昭和天皇の生物学研究は、軍に軽蔑され、肩身の狭い思いをしながら細々と続けられていくのです。

昭和天皇の愛用した筆箱
昭和天皇の愛用した筆箱


 1945年8月15日、終戦。
 しばらく敗戦処理が続き、9月21日、中秋の名月を見て、初めて一息つくことができました。
 そして、9月24日、軽井沢の皇太后(母)から送られてきた野草を吹上御所に移植します。久しぶりに生物に触れ、このとき詠んだ歌は、こんな感じです。

《夕ぐれのさびしき庭に草をうゑてうれしとぞおもふ母のめぐみを》


制作:2014年12月15日


<おまけ>
 戦争が始まると、昭和天皇は軍部に遠慮して、好きだったゴルフも自粛するようになりました。御所には9ホールのゴルフ場がありましたが、これも昭和12年から使われなくなりました。
 終戦後、吹上御苑は天皇の意向で、なるべく自然のまま管理する方針が採られています。その結果、最新の調査で、植物711種、動物2737種の存在が確認されました。このうち少なくとも3種は新種だと断定されています。

 なお、昭和天皇が長年にわたって収集した標本は、現在、昭和記念筑波研究資料館に保存されています。標本は、変形菌類約3000点、ヒドロ虫類約4000点、貝類などの軟体動物約2万点、甲殻類約4000点、魚類約2000点、維管束植物約1万7000点で、計63000点となっています。
昭和天皇の標本
昭和天皇の標本

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