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生命保険の歴史

戦前の「出世保険」
戦前の「出世保険」


 2008年のリーマンショックが生保業界に与えた影響は大きく、2009年3月期の決算で、朝日生命が1841億円、三井生命が1798億円、大同生命が520億円、太陽生命が155億円の最終赤字を出すなど、大混乱が続きました。また、トップの日本生命も安泰ではなく、株などの有価証券評価損が5279億円にもなり、1000億円の増資が決定しました。評価損は当時の上位12社合計で約2兆4400億円にものぼり、生命保険業界全体で大きな再編が起こりました。

大同生命 太陽生命
大同生命と太陽生命


 実は、かつてこれとまったく同じような事態がありました。それが1929年10月24日の「暗黒の木曜日」で有名な大恐慌時代です。

 昭和2年、支払い猶予令などで多くの銀行が破綻し、同時に多くの弱小生保が破綻しました。この傷が癒えぬまま、昭和5年(1930)に金解禁が行われ、日本経済はどん底に落ちました。
 当時、生保は、運用資産のなかで有価証券の割合が51%と高く、株安の影響は甚大でした。結局、大手33社のうち24社が配当を中止しています。

 まさに1930年と2009年は双子の関係で、リーマンショック以降の不況が「100年に1度」と言われるのも納得できる話なのです。

 しかし、日本における生保は基本的には順風満帆ななかで過ごしてきました。どちらかと言えば「楽勝」経営の時代が長く続きました。今回はそんな生保の誕生物語です。


 日本最初の生保は明治12年(1879)9月、大蔵省の官僚だった若山儀一が認可申請した「日東保生会社」です。この会社は翌年認可を受けましたが、結局開業できず、明治14年6月には「解社願」を出しています。

 なぜ開業できなかったかというと、「医師の診断によって生命の伸縮がおきる」ことをいやがる人が多く、社員が100人も集まらなかったから。生保は「生命表」(人口統計学による年齢別・男女別の生存率・死亡率一覧)を使って保険料を決めますが、「人の死を予測する表」が社会には受け入れられず、また受け入れられたとしても「真の保生術」に背いてしまう、ということでした。

 明治12年暮れ、三菱グループの忘年会で「日東保生会社」申請のニュースが話題になりました。参加していたのは

 ・荘田平五郎(慶応義塾の教師から三菱へ。日本で初めて複式簿記を採用し、三菱を近代化させた)
 ・中上川彦次郎(福澤諭吉の甥。後に三井財閥に入り、中興の祖とされる)
 ・小泉信吉(慶應義塾から大蔵省に。後に横浜正金銀行支配人)

 らで、会社設立の話はすぐに具体化し、明治14年6月には「明治生命」の申請を行っています。ちなみに発起人は小幡篤次郎、阿部泰蔵、物集女清久らで、いずれも慶應義塾の関係者。事実上、日本初の生保は、福沢諭吉の人脈で誕生したのでした。

日本初の生保・明治生命
日本初の生保・明治生命


 当時は西南戦争後の不景気が続き、さすがに契約を取るのは困難だったようです。「生保に入ると寿命が縮む」「生保の営業マンは寿命を当てられる」などの噂が飛び交ったと言われています。
 この後、明治21年に帝国生命、明治22年に日本生命が設立されました。

帝国生命 日本生命
帝国生命と日本生命



 余談ながら、日本初の生命表は帝国理科大学教授の藤沢利喜太郎が作成し、日本生命がこれを採用。明治と帝国は旧来の「イギリス17会社表」を採用しました。
 すでにこのころになると保険は当たり前になり、客が向こうから勝手に大量加入してくれるような状態でした。
 問題はこのあとで、インチキ生保が乱立する時代を迎えます。明治26年に9社、27年に12社、28年に4社、29年に6社……といった具合で、その多くが数カ月で倒産、数年で解散といった状況でした。

 では、どうしてこの時期に生保が乱立したかというと、明治27年の日清戦争が最大の原因です。もちろん、戦死者が増えると保険金の支払いも増えるわけですが、当然のことながら加入者は激増、しかも戦後の好景気でさらに加入者が増える好循環でした。
 もう一つ、当時は保険会社が宗教団体と組んで、信者を大量に加入させていました。有名なのが明治28年の「真宗信徒生命」(後の野村生命)です。この会社はもうけの一部を本願寺に回し、本山の保護をうたい文句に加入者を集めていました。坊主は生命保険でもうけ、生保は戦争でもうける。さらに戦死者の供養で坊主が儲かるという……すばらしいシステムが構築されたわけです。

 明治33年、保険業法が制定され、悪徳業者は消滅しますが、ここで登場するのが「相互会社」です。営利企業ではなく、非営利の助け合い組合を目指したものです。
 明治35年に第一生命保険相互会社、明治37年に千代田生命保険相互会社が設立され、明治生命、帝国生命、日本生命と並ぶ戦前の5大生保がそろったのです。

第一生命 千代田生命
第一生命と千代田生命


 明治37年、日露戦争が起こると、生保各社の支払いは巨額なものになりました。兵隊に関しては「戦時特別保険料」を徴収していましたが、それでも補いきれないほどの額となりました。たしかに経営に影響はありましたが、戦後になると、やはり生保契約は一気に拡大しました。日露戦後の明治38年に2億3400万円だった契約高は明治41年には4億3800万と倍増しました。まさにウハウハの日々が続いたわけです。

 明治44年、好調な生保を見て、国が「小口保険調査委員会」を創設します。要は官営保険を作って儲けようということで、その調査を始めたわけです。この調査はしばらく停滞した後、ついに大正5年、簡易保険として結実します。これが現在の「かんぽ生命」です。はっきり言って民業圧迫ですが、当時の生保は政治力が弱く、結局法案が通ってしまいました。

簡易保険の証書
簡易保険の証書
(担当の役所は逓信省→厚生省保険院→逓信省→通信院→郵政省と変わりました)


 大正3年、第一次世界大戦が始まると、やはり業界は活況を呈します。前年の大正2年に総契約高10億円を突破しますが、大正8年末には21億円と倍増します。大正8年には日本生命2億5000万円、帝国1億8000万円、明治1億5000万円、千代田1億2000万円と、契約高1億円を突破する生保が4社も登場していました。

 大正12年、関東大震災が起きると業界に衝撃が走りました。10万人以上の被災者の保険金をどう支払うのか?
 このとき生保は保険金の即時払いを決定し、資産を担保に日銀から5000万円までの貸し出し許可を受けます。
 で、実際に払ったのは死亡保険金706万円、解約払戻金172万円、保険証券担保貸付600万円……といった具合で、ほとんど影響はなかったそうです。
 しかも、この地震を機にさらに生保は拡大を続けるのです。

 さて、ここまで財閥系の生保がほとんど登場しないのを疑問に思った人はいないでしょうか?
 もちろんこの時点で三菱系(明治生命)、安田系(共済生命のちに安田生命)など財閥系は存在しているんですが、実は大して目立っていないんですね。それは重工業とかに精力を傾けていたため、保険業への参入が遅れていたからです。

安田生命
安田生命


 しかし、震災後にようやく財閥系が参入します。
 大正14年、住友が日ノ出生命を買収し住友生命が、翌15年に三井が高砂生命を買収し三井生命が成立します。

住友生命 三井生命
住友生命と三井生命

 以後、生保市場は

  5大生命(明治、帝国、日本、第一、千代田)
  3大財閥系(安田、住友、三井)

 の8社が押さえることになります。昭和初期は契約高は増えるし、株価は大高騰するしでスーパー黄金時代となりました。
 そしてやってくるのが冒頭で触れた昭和恐慌。ここで多くの生保はつぶれますが、逆に大手8社に契約が集中します。数字で言うと、昭和2年に8社合計で52%だった比率が、昭和11年には77%に増加したのです。


 戦後、帝国生命は朝日生命に改称し、明治生命と安田生命は合併し、千代田生命は外資に買収されました。
 大同は宗教系の真宗生命の系譜で、太陽は名古屋生命の系譜。両者ともなんとか戦争を生き抜いてきました。アリコ、アフラック、ソニー等は1970〜1980年代に規制緩和の流れを受けて誕生した生保です。

富国徴兵保険
富国徴兵保険


 富国生命は、関東大震災後に創立した富国徴兵保険がもとになっています。AIGエジソンも元は第一徴兵保険です。「徴兵保険」とは、文字通り、徴兵されたら受け取る保険金です。戦死で受け取るのではなく、徴兵で受け取る保険。親が老後の面倒を見てもらう子供にかけた保険で、入隊だけでなく入学でも受け取れました。つまり今でいう学資保険みたいなもので、これが空前のヒット商品になりました。戦前からあった保険会社は、ほとんどがこの保険で大もうけしたのでした。
(冒頭の出世保険も似たようなものです。戦後は「こども保険」などと改名されました)

徴兵保険
徴兵保険の証書


 ちなみに保険業界は合併なども多いんですが、たとえば日本生命には愛国生命、富士生命、東華生命、万寿生命、琉球生命などが吸収されています。第一生命には日本医師共済生命、国光生命、東海生命、蓬莱生命、中央生命などが吸収されています。比較的安泰な業界といえど、やっぱり無風ではないのですな。

愛国生命 富士生命
愛国生命、富士生命

生命保険会社 生命保険会社 生命保険会社 生命保険会社
日本医師共済生命、国光生命、東海生命、蓬莱生命

制作:2009年6月20日

<おまけ>
 日比谷にある有名な第一生命ビルは、1938年に建設されたものです。1945年に連合国軍総司令部(GHQ)庁舎として接収されました(1952年に接収解除)
 建築家は和光や東京国立博物館本館などを作った渡辺仁ですね。どう見ても蓬莱生命館のマネっこですな。
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