製紙産業のはじまり
王子製紙の誕生

王子製紙の米子工場
王子製紙の米子工場


 日本の探偵小説の3大奇書の1つとされている夢野久作の『ドグラ・マグラ』に、次のような記述があります。

《泣いているのか、笑っているのか判然(わか)らないまま……洋紙のように蒼褪(あおざ)めた顔色の中で、左右の赤い眼が代る代る開いたり閉じたりし初めました》

「洋紙のように青ざめる」って不思議な表現だと思いません? 普通、紙って白いですもんね。

 紙は言うまでもなく木から作られており、石灰や塩素でキチンと漂白しないと、薄青や薄茶が残ってしまいます。それで「青い紙」という表現が成り立つのです。
 かつて中国では竹の繊維から紙を作りましたが、青い竹皮を処理することから製紙のことを「殺青」「汗青」と呼びました(『天工開物』による)

 さて、日本最古の製紙の記録はいつまでさかのぼるんでしょうか?
『古語拾遺』の「天の岩戸」の項目に穀木から白い和幣(にぎて)を作ったという記録があります。和幣とは神前にささげる布のことですが、穀木が楮(こうぞ)だとすれば、まさに神話時代から製紙が行われていたことになります。
 ただ、一般的には最古の記録は推古18年(610)とされています。高句麗の僧曇徴が墨と一緒に製紙技術を伝えました(日本書紀による)。この紙は破れやすく、その後、聖徳太子が紙の改良を進めたとされています。

 紙はこれ以降、日本全国で生産が始まり、各地で名産品が登場します。もちろんこれは和紙の話。



 では、洋紙生産はいつ始まったんでしょうか?
 日本初の洋紙メーカーは、明治5年(1872)年、東京・日本橋蠣殻町で創業した「有恒社」です(操業開始は明治7年)。有恒社は広島藩の最後の藩主・浅野長勲(あさのながこと)が大蔵省雇いの英国人オードルスから製紙法を聞いて設立しました。そのため製紙機械はイギリス製です。

 続いて、明治6年(1874)、渋沢栄一が主導して「抄紙会社」が王子に設立されました。こちらも機械はイギリス製。操業開始は明治8年で、明治26年(1893)、社名を王子製紙に変更しています。

王子に完成した製紙工場
王子に完成した製紙工場
『内国旅行日本名所図会』(明治22年)より

 
 このほか、東京の三田製紙(薩摩藩士による)、大阪の蓬莱社(蓬来社?、後藤象二郎による)、神戸製紙(現在の三菱製紙)、京都梅津製紙(梅津パピール・ファブリック、京都府による)など、この時期多くの製紙会社が設立されました。

三田製紙
三田製紙

 多くの製紙企業が誕生した背景には、明治4年(1871)、大蔵省紙幣司(すぐに紙幣寮と改称。現在の国立印刷局)が創設され、紙幣国産化、証券・郵便切手の製造などが一気に進められたことがありました。洋紙の輸入超過で、国産化が急がれたわけです。

大蔵省紙幣寮 国産初の抄紙機
大蔵省紙幣寮。右は印刷局抄紙部が使用した国産初の抄紙機(明治12年)


 当初、需要がなく産業として立ちゆかなくなりそうだった製紙業界は、その後、日清戦争や日露戦争の報道合戦で、部数を伸ばした新聞と雑誌によって支えられました。ちなみに日本初の洋紙による新聞は明治3年12月に創刊された横浜毎日新聞。

横浜毎日新聞
横浜毎日新聞

 参考までに洋紙生産量を見ておくと

・明治10年……120万ポンド
・明治20年……675万ポンド
・明治30年……3892万ポンド
・明治40年……1億4728万ポンド

 と拡大の一途をたどりました。

 ここで注目すべきは明治40年の激増ぶりですな。これは、国内の山林資源が減少する中で、日露戦争後に獲得した樺太(サハリン)に製紙メーカーが大移動していったからです。本来、樺太には大きい川がないので製紙業には不向きですが、その不利をはるかに超えるだけの大メリット、つまり豊富な原料があったのでした。

 その後、第1次世界大戦後の不況と乱売合戦で企業再編が進み、最終的に製紙メーカーは王子製紙、富士製紙、樺太工業の3大企業に統合されます。


樺太工業の樺太恵須取工場 富士製紙の樺太知取工場
(左)樺太工業の樺太恵須取工場 (右)富士製紙の樺太知取工場

樺太最古の大泊工場
大正3年に建てられた樺太最古の大泊工場(王子製紙)

日満パルプ郭化工場 王子製紙の新義州工場
(左)王子子会社の日満パルプ郭化工場(満州、昭和11年)
(右)王子製紙の新義州工場(朝鮮、大正8年)


 それでも各社の業績は改善せず、カルテルによる生産量調整が何度も行われますが、業界は相変わらず大不況に苦しみ、ついに昭和8年(1933)、3社が合併し、王子製紙が誕生します。
 王子製紙は国産洋紙の85%、新聞用紙の95%を生産する大企業となりましたが、戦後の昭和24年(1949)、過度経済力集中排除法により苫小牧製紙、本州製紙、十條製紙に3分割されました。

 苫小牧製紙は後に王子製紙と社名を変更、本州製紙と合併し、現在の王子製紙となりました。十條製紙は後に日本製紙となっています。

 なお、ここで再度、洋紙生産量の推移を見ておきましょう。

・大正10年…… 5億3400万ポンド
・昭和10年……16億4500万ポンド
・昭和16年……20億6300万ポンド

 そして、敗戦した昭和20年には、なんと4億6500万ポンドまで激減しているのでした。



王子製紙米子工場 木材チップを分解する蒸解釜
王子製紙米子工場の煙。右は原料の木材チップを分解する蒸解釜


 そんなわけで、王子製紙の米子工場へ見学に行ってみました。外観の巨大ぶりともうもうと上がる煙がすごいです。ここは塗工紙などの高級紙を製造しており、たとえばユニクロのビラはすべてここで作られているんだとか。
 工場内部は撮影禁止なんで写真はありませんが、一歩入るとものすごい騒音。耳が聞こえなくなるくらいの重低音が響きます。

王子製紙苫小牧工場の抄紙機
王子製紙苫小牧工場の抄紙機(戦前)

 紙をすく抄紙機はとにかく長大。だいたい端から端まで200mくらいあり、旧型機で時速70km、最新鋭機で時速108kmのスピードで紙が通過していきます。完成した紙は直径3m、幅10mの大きさで巻き上げられます。この巨大ロールは一見の価値ありでした(写真撮りたかったぁ!)。

 工場はかなり自動化されており、従業員はほとんどいませんでした。で、一番感心したのは工場への出入りに二重扉を通ること。これって虫対策なんだそうです。


制作:2008年1月20日


<おまけ>
 大正中期、人絹という新しい産業が誕生します。人絹とはレーヨンのことで、絹に似せて作った人工繊維のこと。大正7年、帝国人造絹糸(現在の帝人)が発足して以降、日本の人絹生産は拡大し、昭和11年にはアメリカを抜いて世界最大の生産国となります。
 この人絹の原料がレーヨンパルプで、王子製紙ももちろん生産していました。
 日本の人絹パルプ生産高は、昭和16年の29万1000トンが、昭和20年には1万4900トンに激減しました。日本の産業がいかに外地に依存していたかがわかりますね。逆に言えば、日本は外地にそれだけの産業インフラを残してきたわけです。
人造絹糸の紡糸機
人造絹糸の紡糸機

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