「昭和」改元
新元号をめぐる「誤報」と「捏造」

新元号「昭和」を報じる東京日日新聞
新元号は「昭和」(東京日日新聞)


 大正15年11月中旬、天皇陛下の体調が悪いとの発表がなされます。
 12月に入ると危篤に近いとの報道がなされ、各新聞社は病状の真相を伝えるべく、大規模な専従チームを編成し、熾烈な報道合戦が始まりました。

 当時、大正天皇は神奈川県の葉山御用邸におり、たとえば東京日日新聞(現在の毎日新聞)は100人もの記者を投入しています。さらに、写真などを大阪に送るため、40km以上離れた酒匂に臨時飛行場を設置して自社機を待機させるなどしました(『東日七十年史』)。

 大正天皇が崩御したのは1926年12月25日午前1時25分。
 25日の朝刊で崩御自体は報じられましたが、東京日日新聞はここで空前の大誤報をしてしまいました。「新元号は『光文』」と書いたのです。もちろん、発表された新元号は「昭和」です。

新元号「昭和」を報じる朝日新聞
「昭和」を報じる朝日新聞号外(12月25日)


 東京日日新聞の本山彦一社長は辞任せず、編集主幹だった城戸元亮の辞任で事態は収拾します。
 では、いったい、元号「昭和」はどのように決まったのか。今回は『昭和天皇実録』に書かれた「昭和」誕生の瞬間です。

 12月24日、危篤の報を受け、各皇族や若槻礼次郎首相、東郷平八郎、西園寺公望などが葉山に招集されます。
 25日午前1時25分、大正天皇が心臓麻痺で崩御。午前2時40分、宮内大臣と首相の連署によって、崩御が公表されました。

大正天皇崩御で悲嘆に暮れる葉山の御用邸と市街
悲嘆に暮れる葉山の御用邸と市街(東京日日新聞)

 
 「皇室典範」第10条により、ただちに皇太子裕仁親王が践祚(せんそ)しますが、「剣璽渡御の儀」など一連の儀式が行われたのが午前3時15分。
 午前3時30分、若槻首相以下の閣僚は葉山から東京に戻り、直ちに緊急閣議に入ります。以下、『昭和天皇実録』の記述のまま流れを書いておきます。

○登極令に基づき元号建定の件を上程

○元号建定の詔書案、大喪使官制(「大喪の礼」の事務係の設置)、東宮武官(陸軍からの派遣員)廃止などを閣議決定

○元号建定の詔書案を枢密院へ諮詢

○枢密院は諮詢をもとに、午前6時45分から平沼騏一郎を委員長とした審査委員会を開く

○元号案は全会一致をもって可決。ただし、詔書案の文言は一部修正が決まる

○枢密院は修正案を作成し、首相の同意を得て午前9時15分に本会議を開催、元号案と詔書修正案が全会一致で可決

○枢密院議長が奉答

○奉答書が内閣に下付され、内閣は再度の閣議を開き、元号建定の詔書案を枢密院の奉答どおり公布することを閣議決定

○午前9時45分から10時過ぎまで、天皇は首相に謁を賜い(面会)、元号建定について上奏を受け、裁可

○午前10時20分、天皇が詔書に署名、再び若槻首相に謁を賜う。

○官報号外をもって公布、ここに元号が「昭和」と改められる
昭和改元の官報
官報号外(国会図書館)


 なお、詔書の文面は以下のとおりです(原文を現代語表記し、句読点を入れてあります)。

《朕、皇祖皇宗の威霊に頼り、大統を承(う)け、万機を総(す)ぶ。茲(ここ)に定制に遵(したが)い、元号を建て、大正15年12月25日以後を改めて昭和元年と為(な)す。
 御名 御璽
  大正15年12月25日》

 昭和は『尚書』の「克明俊徳、以親九族、九族既睦、平章百姓、百姓昭明、協和万邦、黎民於変時雍」が典拠となっています。

葉山から東京駅に到着した大正天皇の遺骸
葉山から東京駅に到着した大正天皇の遺骸


 大正天皇崩御の段階で、ほぼ「昭和」に決まっていたことがわかりますが、ではどのようにこの言葉が作られたのか。実は、政府内では2ルートありました。

 まず、崩御を見越して、宮内省で準備が始まっています。
 宮内大臣の一木喜徳郎は、図書寮編修官の吉田増蔵に元号を勧進するよう、命じます。その際の条件は以下の5つです。

○元号は、日本だけでなく支那・朝鮮・南詔・交趾などの年号、帝王・后妃・人臣の謐号や名字、宮殿・土地の名称と重複してはいけない
○元号は、国家の一大理想を表徴しなければならない
○元号は、古典に出処を求め、その字面は「雅馴(がじゅん=品があって洗練)」で意義が深長なもの
○元号は、称呼するうえで「音調諧和」が必要である
○元号は、字画が簡明で平易なものにすること

 吉田は、幅広い古典からまず30あまりの元号を選び、
「神化」「元化」「昭和」「神和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」
 を選び、勘進第1案を作成します。

 大臣はここから半分にしろと命じ、吉田は勘進第2案として
「昭和」「神和」「神化」「元化」「同和」
 を選び、さらに、第1候補「昭和」、第2候補「神化」、第3候補「元化」の3つとしました。

 宮内大臣がこの3案を内大臣・牧野伸顕、公爵・西国寺公望の賛同を得た上で、若槻首相に提示しました。

 一方、若槻首相もこれとは別に、内閣官房総務課事務嘱託だった国府種徳に元号の勘進を命じていました。
 国府は「立成」「定業」「光文」「章明」「協中」の5案を作成、これを内閣書記官長・塚本清治を経由して若槻首相に提出しています。

 若槻首相は、一木宮内大臣、塚本書記官長にさらなる精査を命じ、「昭和」を選定、参考として「元化」「同和」を添付することになりました。そして、元号建定の詔書案は吉田編修官に起草させています。

大正天皇の葬列
大正天皇の葬列


 前述のとおり、詔書は枢密院に諮詢されましたが、当時の枢密院議長・倉富勇三郎の日記(12月8日)には以下のように記載されています。

《(一木が倉富に対し)全体は内閣にて準備を為すことなれども、内閣にて之(これ)を為せば直に漏るる憂あるに付、筋違にはあれども、宮内省にて吉田(増蔵)に命じ、之を選ばしめ3種を選み、若槻(礼次郎)に之を云い、若(も)し意見ありとて内閣より改選する様のことを為せば漏洩するに付、意見あらば宮内省に通知することに約し置たり》

倉富勇三郎日記
倉富勇三郎日記(大正15年12月8日、国会図書館)


 要は、内閣で作業すると外に漏れる恐れがあるので、宮内省で決めると述べているわけです。案の定、元号案は外部に漏れ、選外だった「光文」が報道されることになりました。東京日日新聞は「光文」以外に「大治」「弘文」などの候補があったとしていますが、実際にはいずれも候補にはありません。

 一般に、東京日日新聞のスクープによって、「光文」が急遽「昭和」に差し替えられたと言われますが、「昭和」「元化」「同和」は12月8日の時点で決定しており、報道によって元号が差し替わったわけではありません。

 こうして、新元号が決まったものの、さらなる報道事故が起きました。

 朝鮮の『京城日報』が「改元の詔書」を捏造したのです。『京城日報』はもともと伊藤博文が機密費で創刊した朝鮮総督府の機関紙で、日韓併合後に徳富蘇峰が経営していました。理由は不明ですが、なぜか「大正の改元詔書」を日付だけ変えて「昭和の改元詔書」として報道したのです。詔書というのは天皇のお言葉なので、それを捏造するというのはちょっとありえない話です。

改元詔書偽造
改元詔書偽造に関する文書(国立公文書館)


 参考までに、大正の改元詔書は以下の通り。

《朕菲徳ヲ以テ大統ヲ承ケ祖宗ノ霊ニ誥ケテ万機ノ政ヲ行フ
 茲ニ先帝ノ定制ニ遵ヒ明治四十五年七月三十日以後ヲ改メテ大正元年ト為ス
 主者施行セヨ

 御名御璽
 明治四十五年七月三十日》

 国立公文書館に残された資料では、この捏造を「大胆にして不逞を極め」と断罪しています。結局、『京城日報』は発売禁止処分となり、責任者が刑事訴追されました。

大正天皇崩御翌日の東京日日新聞
崩御翌日の新聞(東京日日新聞)


 東京日日新聞は、12月26日に「元号は昭和」という記事を出していますが、その紙面には、改元で造幣局が困惑だの、年賀状が少なくて郵便局が困っただの、さまざまな記事が掲載されています。
 こうして、昭和元年は、12月25日から31日のわずか1週間で幕を閉じたのでした。


制作:2019年2月11日


<おまけ>
 元号「明治」の典拠は『易経』の「聖人南面而聴天下、嚮明而治」です。「明治」以外にどんな候補があったのかは不明ですが、実は明治天皇がくじ引きで決めました(維新史料編纂事務局『維新史 第5巻』による)。

明治改元詔書
明治改元詔書

「大正」の典拠は『易経』の「大亨以正、天之道也」です。
「大正」「天興」「興化」「永安」「乾徳」「昭徳」の案から、「大正」「天興」「興化」に絞られ、「大正」になりました。

「平成」の典拠は、『史記』の「内平外成」と『書経』の「地平天成」で、このときの最終候補は「修文」と「正化」だったと記録されています。なお、2019年2月16日、朝日新聞が元号考案者の目加田誠メモの存在をスクープし、「普徳」「敬治」「恭明」「天昌」などの別案があったことが判明しました。

平成の紙
平成(国立公文書館)
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