日本の潜水艦の歴史

日本の潜水艦
鉄鯨部隊と称された潜水艦部隊


 1942年(昭和17年)、海軍の潜水艦に同乗した作家・山岡荘八は、艦内の様子をこう書いてます。

《まだ潜行してから30分余りしか経っていないのにもう狭い艦内の空気は吸いつくされたような気がして来る。殆(ほとん)ど夢中で部屋から部屋を見歩いていたのだが私はまだ一度も5尺6寸の自分の体を真直ぐに立てて歩いてはいなかった。頭上に低く張りつめられた無数のバルブと把手、部屋と部屋との間にある厚い鋼鉄の防水扉、しかもその防水扉を開くと、そこは直径3尺ほどの円穴になっていて、床を舐めるようにして通るのだ。

 私の息苦しさはいよいよ増したと同時に居住を犠牲にして、すべてを対敵装備に振りかえた日本海軍伝統の必勝精神が、はじめてひしひしと私の胸を 打って来るのだ》(『海軍戦記1』所収「潜水艦の索敵行」)


日本の潜水艦
潜水艦の内部

 
 潜水艦の中はとにかく狭く、移動は腰をかがめるので、かなり苦労します。
 そして、それ以上に大変なのが、いったん港から離れれば24時間態勢で潜望鏡を覗きつづける点です。
 潜行中は時間の感覚がなくなるため、夜は赤いランプが灯されます。さらに、曜日の感覚を忘れないように、金曜日はカレーが出ることになっています。

潜水艦の潜望鏡
潜水艦の潜望鏡


 さて、日本の潜水艦の歴史は、日露戦争までさかのぼります(日本海海戦には間に合わず、実戦配備はされず)。
 当時、日本はアメリカからホランド級潜水艦5隻を購入しました。その後、川崎造船(現在の川崎重工)がホランド級を参考に2隻国産化します。
 1905年(明治38年)9月に進水したのが「第6潜水艇」、明治40年11月に進水したのが「第7潜水艇」と呼ばれる潜水艦です。

第6潜水艇
第6潜水艇(ウィキペディアによる)


 1910年(明治43年)4月15日、この「第6号」は岩国沖で浮上できなくなり、佐久間勉艇長以下14名の乗組員が全員死亡します。
 ところが、潜水艇を引き上げてみると、全員が持ち場を離れずに絶命していました。そして、佐久間艇長は沈没時の様子などをギリギリまで遺書に残しており、日本軍人の「潜水艦魂」に世界中から賞賛の声が集まりました。

 遺書には《小官の不注意により 陛下の艇を沈め 部下を殺す 誠に申し訳なし されど艇員一同 死に至るまで 皆よくその職を守り 沈着に事をしょせり》などと書かれています。

佐久間勉艇長の遺書
佐久間勉艇長の遺書(ウィキペディアによる)


 1941年に日米が開戦すると、日本海軍は潜水艦をアメリカの西海岸に展開し、沿岸部でタンカーや貨物船を撃沈します。その後、アメリカの複数の都市を砲撃する作戦を立案しますが、実現には至りませんでした。

 さて、ここまでは存在意義があった潜水艦ですが、その後、まったく活躍しなくなります。実は太平洋戦争中、もっとも役立たずだったのが日本海軍の潜水艦との説もあるのです。

 戦時中、日本の潜水艦が沈めた敵船舶は100隻程度。片や、日本が失った輸送船は約2400隻。これでは、戦場に物資を運べるはずがありません。

 本サイトが全面的に画像提供した『太平洋に消えた勝機』によれば、

《海上輸送をめぐる戦闘を、世界の軍事用語では「通商破壊戦」という。だが、わが国の海軍筋が主導する戦史や戦争物語にこの言葉は出てこない。海軍の作戦構成要素に、「輸送」とか「後方兵站(へいたん)」という概念は存在しないのである……帝国海軍は、アメリカから日本までの長い海上輸送路をフリーパス同然に放置し、敵輸送船団は護衛艦もつけずに自由な航海ができた》

 さらに、一時期、インド洋の制海権を握った日本が《インド洋で英軍の補給路を断てば、カイロに武器、弾薬は届かない。また、ソ連軍の兵站も失われる》から、ドイツ軍はもっと優勢に戦えたのでは? とのことです。

日本の潜水艦
まるで活躍しなかった日本軍の潜水艦


 1944年(昭和19年)には、潜水艦乗りの応援歌ともいえる『轟沈』が発売されます。歌詞には「曇る夕日の印度洋」などとあるんですが、実際にはほとんど活躍しませんでした。

 アメリカ太平洋艦隊司令長官ニミッツはこう言ってます。

「古今の戦史において、主要な武器がその真の潜在力を少しも把握されずに使用されていたという稀有の例を求めるとすれば、それはまさに第2次大戦における日本潜水艦の場合である」

 この言葉は、通商破壊をしなかった運用上のミスを指していますが、実は、戦艦大和同様、巨大化という方向に向かってしまったのも大きな問題でした。

イ400
世界最大の潜水艦だったイ400(ウィキペディアによる)

 
 2012年12月、オアフ島沖の深さ約700mの海底で、旧日本軍の大型潜水艦「伊400」が発見されました。折りたたみ式の3機の攻撃機「晴嵐」を搭載することができる122mの巨体。原潜ができるまでは世界最大で、「潜水空母」と呼ばれます。
 一方、潜水艦の支援艦が「潜水母艦」と呼ばれる船舶です。日本では「迅鯨」「長鯨」「大鯨」などが有名です。

潜水母艦「大鯨」
潜水母艦「大鯨」


 戦後、1954年に海上自衛隊が誕生し、1955年にはアメリカ海軍から潜水艦が貸与されました。日本で「くろしお」と命名されています。
 その後、1957年に国産1番艦「おやしお」が建造され、1960年に就役しました。これも製造したのは川崎重工です。

浦賀水道を行くアメリカの潜水艦
浦賀水道を通って横須賀へ向かう米軍の潜水艦


 現在、日本で潜水艦を建造できるのは、この川崎重工業と三菱重工業のみです。両方とも造船所は神戸にあります。
 潜水艦は、まず船体を輪切りにして作業し、電子機器を詰め込んだ後、結合して造ります。いったん各防水区画が形成されると、作業は戻せないので、細心の注意が必要だそうですよ。
 
 そんなわけで、超望遠レンズで、三菱重工の潜水艦建造現場を撮影してみたよ。

建造中の潜水艦
建造中の潜水艦(神戸の三菱重工)


 なお、2011年の防衛大綱で、潜水艦は22隻体制で運用されることが決まりました。海は広いのに、たった22隻というのも、ずいぶん少ない感じですね。


制作:2014年4月29日


<おまけ>

 潜水艦は、海面に吸気口を出して空気を吸い込み、海中に排ガスを放出するディーゼルエンジンで動いています。
 その音が敵に見つかるリスクを高めるんですが、この問題を解決したのが原子力潜水艦。日本は原潜がないので、なかなか無音の艦が作れなかったといわれます。
 1998年に就役した「おやしお」型潜水艦もかなり静粛ですが、現在はAIPというほとんど無音に近い動力機関が開発されています。液体酸素によって、海中でも大気に依存せずエンジンを回すことが可能になりました。2009年就役の「そうりゅう」型潜水艦から使われています。

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