カネと野望のF1パドック
あるいは「ホンダのF1参戦」50年史

小林可夢偉
小林可夢偉(2012年、F1日本グランプリ決勝)


 2012年10月7日、小林可夢偉が鈴鹿サーキットで開かれた「F1日本グランプリ」で初めて3位に入賞しました。
 これは1990年の鈴木亜久里(日本グランプリ)、2004年の佐藤琢磨(アメリカ・グランプリ)に次ぐ、日本人3人目の快挙。
 実は、この瞬間、俺は鈴鹿にいたんで、写真を公開しときます。

小林可夢偉パドック
決勝直前のパドック

小林可夢偉の出走直前
小林可夢偉の出走直前


 日本のF1の歴史は、1964年にホンダがドイツ・グランプリに初参戦したときから始まります。それまでバイクメーカーだったホンダが、1963年に初めて自動車を作り、翌年、レースに参戦するという、今では考えられない「暴挙」から始まりました。

ホンダF1初号機
ホンダがイタリアで初優勝したときのRA300(1967)


 ホンダは1964〜1968年に単独チームで参戦しますが、あとは1983〜1992年、2000〜2008年にエンジン供給でのみ参加しています。

 2008年にF1撤退を表明した当時の社長は、記者会見で「サブプライム問題に端を発した経済危機で、ビジネス環境が急速に悪化した。経営資源の効率的な再配分が必要になった」と説明しています。本業の自動車事業が低迷するなか、年間500億円を越えるF1経費が経営を圧迫したわけです。
 翌年には、満を持して参戦したトヨタも撤退を表明しています。

マクラーレン・ホンダ
16戦中15勝と圧勝したマクラーレン・ホンダ(1988)


 実は、ホンダの鈴鹿サーキットが老朽化するなか、トヨタも2年ほど自社系列の富士スピードウェイで日本グランプリを開催しています。トヨタはサーキットの改修に200億円をかけましたが、これを捨て去ってでも、F1から撤退したかったと。それだけF1には巨額のカネがかかるわけですね。

 では、いったいF1ってどれくらいカネがかかるのか?
『F1速報』(2011年1月13日号)がカネの特集をしているので、そこからざっとまとめておきましょう。

 F1は関連産業すべてを含めると1兆円産業といわれますが、核心部だけで見ると、2009年、F1は1200億円の売り上げがありました。
 この内訳は、まず開催権料が総額450億円。たとえば日本グランプリを開催するため、鈴鹿サーキットは18億円払っています。この開催国がだいたい20カ国分。
 つづいて、テレビの放送権料が総額500億円。フジテレビは30億円払ったそうです。
 ほかにコースサイドの広告とパドッククラブの入場料等で稼ぎます。現在、パドッククラブに入るには、だいたい50万円くらいかかります。バブル期は200万円とかしたらしいです。
 で、これらを合計した1200億円から経費の200億円を引いた1000億円が利益になります。

F1日本グランプリ
シャッタースピードを落とすと、タイヤがゆがんだ写真に


 利益1000億円のうち、半分の500億円をF1チーム側が取ります。
 各チームでこの500億円を分配し、ここから車代やドライバーのギャラを負担するわけです。ドライバーのギャラは、現在の最高額がアロンソの20億円。かつてはミハエル・シューマッハの50億円が最高でした。

 では、残りの500億円は誰が取るのか? これはF1の商業権を持つFOA(フォーミュラ・ワン・アドミニストレーション)とコンテンツ販売のFOM(フォーミュラ・ワン・マネージメント)を中心としたFOH(フォーミュラ・ワン・ホールディングス)に入ります。この会社は、F1を巨大な商売に育て上げた「帝王」バーニー・エクレストンのもの。F1は、最終的にこの男を儲けさせるために存在してるのですな。

 なお、コースの広告もパドックハウスの入場料もすべて召し上げられるということは、サーキットの収入は「入場料」しかありません。だからF1の入場料は高いし、それでも赤字が続くわけです。

 そんなわけで、さっそくパドックに行ってみたよ。なかには高級レストランがあり、超間近でレースが見られました。時間によってはピットを歩くこともできます。至れり尽くせりで、ホントとっても幸せな気分に浸れます。あぁそうか、これがヨーロッパの「階級社会」なんだと納得するのでした。

パドックトンネル パドックトンネル
パドックトンネル

パドックトンネル パドックトンネル
パドックトンネル内にはこんなポスターが

パドック パドック
トンネルを出るとチェックポイント。そして豪勢な部屋に


制作:2012年10月10日


<おまけ>
 チームには、車のボディーに張られたロゴの広告費も収入となります。かつて「少年ジャンプ」が1億円払ってマクラーレンのスポンサーになったとき、絆創膏くらいの面積しかもらえなかったそうです。
 もともとF1のスポンサーは煙草メーカーが多かったんですが、タバコの広告が禁止されたことで、マールボロを除くすべてのタバコメーカーが撤退してしまいました。大金払っても車体にロゴを貼って宣伝できないんだから、当たり前の話ですな。F1の火を消さないためにも、マールボロには頑張ってほしいところです。

<おまけ2>
 なんかカネの話ばかりでつまらないので、極限のスピードのために導入されている技術の話を少し。0.001秒を競うF1では、サーキットの路面の凹凸がかなり速さに影響します。当たり前ですが、凸凹が小さいほど、タイヤへの抵抗も小さくなり、速く走れるわけです。実は鈴鹿のアスファルトは抵抗が大きくて有名なんですが、富士はかなり精密に作られています。路面の凹凸は、F1の開催基準で3mで3mm。ところが、富士では最大2mm、平均で0.7mm以下なんだそうですよ。
鈴鹿サーキット
鈴鹿サーキットのスタート地点

<おまけ3>

 以下、F1とホンダの50年史をまとめときます。主語がないのはすべてホンダの話です。薄い文字はバイク関連。赤字はホンダ以外の話

1946 本田宗一郎、静岡県浜松市に本田技術研究所を設立し、自転車に取り付けるエンジンの製造開始
1950 イギリスのシルバーストン・サーキットでF1が誕生
1951 新開発4サイクルエンジンを搭載した「ドリーム号」ヒット
1958 スーパーカブが大ヒット
1959 マン島TTレース125ccクラスに初参戦して完走
1961 マン島TTレース完全優勝

1962 四輪レースに進出、鈴鹿サーキット開設
1963 外資との競合上、自動車メーカーの数を絞り込みたい通産省の反対を押し切り、四輪車に参入
    鈴鹿で日本初の本格的な自動車レース「日本グランプリ自動車レース大会」開始
1964 ドイツ・グランプリでF1デビュー
1965 F1メキシコ・グランプリで優勝。暴走族に加担する企業として批判浴びる
1966 河野洋平が中心となって富士スピードウェイ開設。二輪車世界グランプリで11連勝
1967 F1イタリア・グランプリで優勝
1968 F1フランス・グランプリでドライバーが焼死、1969年から1982年までF1から撤退
1973 本田宗一郎引退
1976 日本初のF1レースが富士スピードウェイで開催
1977 初の「F1日本グランプリ」が開催されるも、観客死亡事故でF1から撤退
1982 日本車メーカーで初めてアメリカで現地生産開始
1983 エンジン供給の形でF1へ復帰。その後1992年までの10年間で69勝
1987 鈴鹿サーキットで「F1日本グランプリ」が再び開催
1988 マクラーレン・ホンダが16戦中15勝と圧勝。そのうち8勝がアイルトン・セナ
1992 F1から撤退
1999 トヨタ、F1参戦を発表
2000 エンジン供給の形でF1へ復帰。トヨタ、静岡県の富士スピードウェイを買収し、200億円かけて改修
2002 トヨタ、オーストラリア・メルボルンでF1デビュー、6位入賞
2007 鈴鹿の老朽化で、富士スピードウェイで30年ぶりに「F1日本グランプリ」
2008 リーマンショックによる経済状況悪化でF1撤退
2009 トヨタ、F1撤退。大改修を経て「F1日本グランプリ」が鈴鹿に復帰
トヨタ最後のF1カー
トヨタ最後のF1カー。奥はウィリアムズ・ホンダ(1987)
© 探検コム メール