日本刀はどれくらい斬れるのか

上野戦争
日本刀が活躍した上野戦争


 日本刀はどれくらい切れるものなのか。日本刀の「スゴい切れ味」を示す有名なエピソードは数多くあります。
 たとえば1567年、常陸の佐竹義重が敵を鉄製の兜もろとも一刀両断したとされますが、まぁちょっと信じられません。実際のエピソードとしては「本庄正宗」あたりでしょうか。こんな感じの話です。

《上杉家の武将・本庄繁長が、最上義光と戦ったとき、総崩れとなった最上軍から単身躍り出たのが東禅寺勝正。東禅寺は繁長を斬りつけるが、手元が狂って兜を削り、鎧の鉄の口金を切った。東禅寺はすぐに斬り捨てられるが、みな、この刀の切れ味に驚いた。本庄繁長はこの名刀を上杉景勝に献上。さらに家康の所有となるが、調べたところ、この刀は正宗の作であったという》

 世には石灯籠を切った、鉄砲を切ったと伝わる名刀がありますが、現実には留め金を切った程度で驚かれるレベルだったとわかります。
 ちなみに、浅野内匠頭が吉良上野介を斬り損じたのは、刀が金具に当たったからだとされます。

吉良上野介を襲撃
吉良上野介を襲撃


 言うまでもなく、日本刀は人を斬るものです。では、どれくらい斬れるものなのか。
 江戸時代、御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田浅右衛門という一族がいました。実際は死刑執行人も兼ねており、さまざまな刀を死体で試し切りしています。5代目・山田浅右衛門吉睦は、特に切れ味のよいものを「最上大業物」として記録しています。時期により違いはありますが、具体的には以下の通り。

 長曽祢興里(虎徹)/長曽祢興正/初代、2代兼元(関の孫六)/初代国包/大坂初代助広(ソホロ助広)/初代忠吉/陸奥守忠吉/多々良長幸/初代長道/長船秀光/三原応永正家/長船元重

試し切り部分の名称
試し切り部分の名称


 江戸時代後期の水心子正秀(すいしんしまさひで)という刀工は、鎌倉時代の名刀を復活させるべく、さまざまな研究を重ねました。彼が遺した『刀剣実用論』には、《慶長以後に作られた大乱刃(刃文がまっすぐでない刀)は折れやすい》とあります。

刃文の名称
刃文の名称


 そこにはこんな実例が書かれています。

・盗賊を棟打ちしたところ、刃が中程から折れてしまった。刀は水田国重の大乱刃である
・犬を棟打ちしたところ、刃が中程から折れてしまった。刀は越後守包貞らしき大乱刃である
・町人と斬り合いをした侍の刀が折れ、侍は腕を斬られてしまった。町人の刀は祐定で、侍の刀は継平だった

 つまり、人を斬る以前に刀が折れてしまうのです。折れない場合は、曲がってしまうのが普通ですが、《関の兼元、長船祐定などは戦国時代でも曲がったりしなかった》とあるので、やはり昔の刀は高品質だったのかもしれません。

 なお、『刀剣実用論』には、いい刀として《直刃(刃文がまっすぐ)なら肥前忠吉、乱刃なら関の兼元。沸(にえ)や匂(におい)の深い助広・真改なら小出来(華美でないもの)がいい》と書かれています。

 では、近代の日本刀はどうか。
 明治時代、日本軍の軍刀は西洋式の片手軍刀でした。斬り殺すより刺し殺す方が多かったと思われますが、満州事変後、日本刀が導入され、騎馬隊以外は両手式になりました。

日露戦争の片手軍刀
日露戦争の片手軍刀
 

 日中戦争初期、陸軍の少尉2人が、南京までに日本刀でどちらが早く100人斬れるかを競った「百人斬り競争」がありました。このエピソードは、当時新聞で大々的に報じられましたが、裁判沙汰になったこともあり、真偽はよくわかりません。

南京大虐殺紀年館(南京)の「百人斬り競争」展示
南京大虐殺紀年館(南京)の「百人斬り競争」展示


 実際に記録に残る資料としては、以下の2つが有名です。

・小泉久雄海軍大佐『日本刀の近代的研究』(1933年)
・成瀬関次『戦ふ日本刀』(1940年) 『実戦刀譚』(1941年)

『日本刀の近代的研究』によれば、26振りのうち8振りが、110数回の試し切りに耐えました。その内訳は古刀13のうち6、新刀9のうち2で、新村田刀(軍刀)は全滅でした。

日本軍の軍装
日本軍の軍装

 1939年(昭和13年)、軍刀修理のため北支、蒙疆で従軍した成瀬関次は、さまざまな記録を残しています。敵18人を斬り、さらに鉄条網を切って突破した例もありますが、やはり切れば切るほど、刀にはダメージが現れます。具体的には、

・祐定 13人斬り、大きな刃こぼれ1
・祐定 敵兵を若干斬り、大きな刃こぼれ2
・元武 敵兵を若干斬り、大きな刃こぼれ1
・清麿 敵兵を若干斬り、中くらいの刃こぼれ3
・信秀(明治3年製) 敵兵を3名斬り、切先が3分折れ
・古刀の無銘刀 10数人を斬り異常なし
・古刀の無銘刀 4人斬り、刀身が左に少々曲がるも刃こぼれなし
・古刀の無銘刀 32人斬り、小さな刃のまくれ2、刀身がわずかに左に曲がるも異常なし


 などとあり、古刀は弾力があって刃こぼれも少ないことがわかります。成瀬氏によれば、実戦で使える刀は
「刀を押さえてみて、盤石のような感じでなく、何となくしなっとした、微妙な弾力のある刀、鎬(しのぎ)のかっきりと小高い、焼刃のせまい、匂 (におい)出来の刀、中心(なかご=柄になる部分)に反りのない、重ねは厚いの」
 だそうです。鎬が高いのは重要で、これは「くさび」の原理同様、より切れ味が増すからです。

日本刀の名称

日本刀の名称
日本刀の名称

 
 実は斬れるかどうかは、本人の技量に大きく左右されます。『戦ふ日本刀』には、剣道をかじった少尉が居合いを学んだことで、47人を斬ったという話が出てきます。一方、未熟な人間は日本刀による失敗も多かったのです。以下、いくつか戦闘のエピソードを書いておきます(『新武道』1941年8月号、成瀬関次「刀即武道」による)。

●ある少尉が満身の力を込めて敵を斬ったところ、敵の首は吹っ飛んだものの、勢い余って自分の左足を深く切ってしまった
●馬に乗りつつ抜刀して突撃したところ、馬が暴れ出し、自分の頬や馬を傷つけた
●ある少尉が逃げる兵を抜刀して追ったところ、敵が転び、自分も転んで敵に覆いかぶさってしまった。倒れるとき、少尉は左の手の平を刀の棟に置いていたため、まな板の上でものを切るように、敵をざっくりと斬り殺していた

 また、血がついた日本刀はかなり切れ味が悪くなります。さらにはこんな失敗も。

●ある将校は、敵を斬った軍刀の血をぬぐわずに納刀し、そのまま行軍を続けた。突如、敵襲にあったが、軍刀が抜けずに不覚を取った

 兵器としての刀は、やはり素人には扱いづらかったのです。実際、戦地で敵を殺すのは、古くは弓、やりが多く、近代も鉄砲や爆弾がほとんどとなり、日本刀で殺したのはかなり少なかったのではないかとされています。

 なお、前述した家康所有の名刀「本庄正宗」は、敗戦で連合軍に接収され、以後、所在不明となっています。


日本刀の歴史
甲冑の歴史と着用法

制作:2017年7月23日


<おまけ>
 古来、日本刀には鬼から巨大グモまでさまざまなものを斬った伝説がありますが、幽霊を斬った名刀もあります。現在、丸亀市立資料館に所蔵されている「にっかり青江」で、にっかり笑う女の幽霊を斬ったところ、翌朝確認したら石塔だったとされます。柴田勝家や豊臣秀吉が所有した名刀です。

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