東洋一の大金鉱へ行く
知られざる台湾のゴールドラッシュ

黄金博物館
黄金の塊(黄金博物館)


 台湾北部の新北市・金瓜石には「黄金博物館」があり、ここに世界で2番目に大きい220.3kgの金塊が展示されています。静岡県の土肥金山の金塊(250kg)に抜かれるまで、もちろん世界一の大きさでした。この博物館がどうして世界一にこだわったかというと、この地にかつて「東洋一」と呼ばれた大鉱山があったからです。

 基隆山の東側のふもとに「金瓜石鉱山」、西側のふもと九份に「瑞芳鉱山」、金瓜石の5kmほど南には「牡丹坑」がありました。

基隆山
基隆山


 1890年の夏、近郊の七堵に鉄橋を架設するにあたり、偶然、基隆河から砂金が見つかります。1カ月後には数千人が集まり、突如としてゴールドラッシュが始まりました。1896年、瑞芳鉱山は、石見銀山を持っていた日本の藤田組(現DOWAホールディングス)が経営に乗り出します。

 当時はまだ日本の統治が始まったばかりで、治安の悪さもあり、藤田組は台湾人を保安要員として採用します。そのなかにいたのが顔雲年。藤田組は、後に経営権を手放しますが、雲年はそれを引き継ぎ、小さな請負業者に歩合制で自由に掘らせました。その結果、生産量は飛躍的に拡大、最盛期は155本の坑道に6000人が働いたとされます。

 ゴールドラッシュは長く続きました。当時、労働者が集まった九份の町では、一攫千金の夢が「夜中には貧乏でも、夜明け前には金持ちになり、朝には立派な家が建つ」と語られました。顔家は、台湾の5大財閥に数えられるほど成長します。ちなみに、雲年の孫が顔恵民で、その娘が歌手の一青窈です。

大粗坑山の「小金瓜」露頭
大粗坑山の「小金瓜」露頭


 金瓜石鉱山も同じように発展します。こちらは大粗坑に金鉱の露頭が発見され、釜石の製鉄所で成功した田中組の田中長兵衛が経営に乗り出します。

大粗坑集落跡
長い階段を抜けてたどりつく大粗坑集落跡
1 大徳宮(不法占拠中)2 小学校跡 3 洋館跡

大粗坑集落跡
小学校跡


 田中は、1922年、当時皇太子だった昭和天皇が台湾を行啓するのに合わせ「太子賓館」を建造します。残念ながら、昭和天皇が寄ることはありませんでしたが、釘を1本も使わない優雅な日本家屋で、敷地面積360坪、建築面積141.5坪。戦後は、国民党の高官などが別荘として利用しました。

太子賓館
太子賓館


 1925年、共同経営者だった後宮信太郎が田中組の株を譲り受け、金瓜石鉱山株式会社を設立。こちらも最盛期には6000人が採掘を行いました。
 1933年、日本鉱業が経営権を取得。当時は鉱石1トンあたり2〜4グラムの金が取れたため、日本鉱業は現在の金額で10兆円ともいわれる巨費を投じて買収しました。

 日本鉱業は、藤田組・藤田伝三郎の甥である久原房之助が創業しました。
 秋田県の小坂鉱山で働いていた久原は、藤田組から独立するとともに日立鉱山を買収。経営が安定すると、次々に鉱山の経営権を手に入れます。国内だけでなく、朝鮮や中国、東南アジアなどでも鉱山経営に乗り出します。集まった鉱石を日立や佐賀関(大分県)の製錬所で貴金属に変えるのです。

佐賀関製錬所
台湾の鉱石の多くを製錬した佐賀関製錬所


 久原は後に政治家に転身しますが、その後、2代目社長になったのが、久原の義兄である鮎川義介です。鮎川は日本初の持ち株会社「日本産業」を作り、日産コンツェルンを形成しました。日立製作所、日産自動車、日本水産などはすべてこのグループです。

 日本鉱業は、最新の技術を導入し、機械化も推進。年間1.2トンだった金の産出量は、1941年には約7トンまで拡大しました。従業員数も1万人以上に。

金瓜石鉱山
往時の金瓜石鉱山


 1910年頃、日本の金のほとんどが台湾の鉱山から出ていました。日本最大の金山が金瓜石で、第2位が牡丹坑(別府を開発した木村久太郎の所有)、第3位が佐渡金山、第4位が瑞芳鉱山です。佐渡金山以外、すべて台湾北部に集中しています。
 その後、金瓜石を有する日本鉱業は圧倒的に力をつけ、1936年頃には、日本の金の全生産量の35%、銀の32%、銅の31%を占める大企業になりました。

金瓜石鉱山
金鉱石(黄金博物館)


 日本鉱業の鉱山はどうして成功を収めたのか。
 久原房之助は日立鉱山の経営を軌道に乗せるため、従業員への福利厚生や生活支援を重視しました。これが「一山一家」と呼ばれる理念です。

 日本鉱業は、この考え方をアメリカの鉄鋼王エルバート・ゲイリーから学びました。ゲイリーの鉄鋼メーカーは、1901年、カーネギーの会社と合併してUSスチールになりました。カーネギーは儲けた富でカーネギー・ホール、カーネギーメロン大学などを設立し、引退後は慈善事業に尽力したことでも有名です。ゲイリーも似たような考えを持っていたのです。

USスチールの溶鉱炉
USスチールの溶鉱炉(ピッツバーグ)


 1918年、久原房之助と鮎川義介がゲイリーを訪問し、そこで聞いた話を鮎川が記録しています。以下、ざっくりとまとめます(『日産コンツェルン読本』より)。

「USスチールを作ったころは、ベッセマー法の普及により猫も杓子も製鉄業に参入し、生産過剰による乱売合戦が起きていた。私は倒産企業などを買い集めたが、その際、労働者の悲惨な状況を目のあたりにした。不況による殺人的な過重労働、古すぎる設備でケガ人が続出していた。
 そこで私は理想的な工場を作るべく、作業工程が流れるような機械配置をした。圧延機と圧延機の間にトンネルを作り、直接、機械を跨がなくてもすむようにした。構内を明るくし、安全標識を立て、英語がわからない労働者向けに10数カ国語で案内を入れた。
 さらに、工場外の福祉として、農園つきの社宅、病院、学校を整え、水道やガスも完備した。
 確かにそれでコストはかかったが、熟練工は不要になり、安全も確保され、ほかの工場よりはるかにいい成績を収めた」

 この理想工場のあった町がインディアナ州ゲーリーです。黒人人口が多く、全米最初の黒人市長を生み出した市でもあります(マイケル・ジャクソンの出身地で、製鉄業の衰退とともに犯罪都市として有名に)。

 日本鉱業は、このゲーリーの理想工場を参考に、日本各地で、またアジア一帯で大工場を作ったのです。

金瓜石の日本式宿舎
金瓜石の日本式宿舎


 金瓜石にも、木造や赤レンガ造りの日本式宿舎、病院、学校、教会、貴賓館、さらに道路や水道などが整備されました。
 工場の精神的支柱は山の中腹に建てられた「黄金神社(金瓜石神社)」です。冶金の守護神として大国主命、金山彦命、猿田彦命の三神を祀りましたが、それだけではありません。地元民の信仰が篤かった「媽祖(航海の女神)」も祀り、従業員や周辺住民と毎年盛大な「山神祭」を開きました。

黄金神社(山神社)
社殿の柱や鳥居が今も残る黄金神社


 しかし、この工場の崇高な理念は、戦火の拡大とともに影を潜めます。旧日本軍は戦時中、台湾に16カ所の捕虜収容所を設置しますが、1942年8月以降、4000人を超える捕虜が収容されました。特に金瓜石は北部最大の施設で、多いときは1100人を超える捕虜がいたとされます。戦争末期には、捕虜が次々に鉱山労働で命を落としました。

黄金神社
黄金神社から見た収容所跡


 戦後、鉱山の経営権は台湾政府系の企業に譲渡され、瑞芳は1971年、金瓜石は1987年に閉山します。
 1989年、九份を舞台にした映画『悲情城市』がベネチア国際映画祭グランプリを獲得し、九份は大観光地となりました。映画『千と千尋の神隠し』の舞台ともされています。
 そして、この年、日本鉱業は現地法人の台湾日本鉱業を設立。現在も台湾日鉱金属として、半導体や液晶パネルの材料を製造し、大規模なリサイクルセンターも操業しています。


制作:2017年5月15日


<おまけ>
 
 廃鉱となった金瓜石は、かつて地下の浅い部分しか採掘されなかったため、深いところにはまだ金鉱脈があるとされます。台湾の鉱務局が調査したところ、地下400メートルあたりを中心に、60トンの金(約9000億円相当)が眠っている可能性があることがわかりました。
 そして、金瓜石ではいまでも盗掘が盛んだと、たびたび報道されています。ただし、旧坑道には多くの縦穴があり、落ちれば絶対に出てこられず、まさに命懸けの盗掘なのです。

台湾の金鉱
坑道の警告看板

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