江戸城「焼失」の歴史

江戸城二重橋
二重橋正門


 東京が皇居を中心に、多くの同心円の道路でできてるのは、言うまでもなく江戸城の構造にあります。
 江戸城は幾重にも広がるお堀と石垣で囲まれた巨大な城でした。この構造を「総構え」とか「総曲輪(そうぐるわ)」といいます。

江戸城本丸 天守台
本丸と天守台
 
 簡単に言うと、

 城の核心部は「本丸(大奥)」「天守」で、その外に二の丸、さらに外に三の丸、西側に西の丸があります。西の丸は将軍の子供や、引退後の将軍が住む場所ですな。
 本丸内に富士見三重櫓、書院二重櫓、乾二重櫓などがあります。これに北の丸、吹上などを加えて「内曲輪(うちくるわ)」と呼びました。

二の丸
西丸大手(二重橋)


二の丸
西丸大手より北を見る。中央左手の三重櫓は富士見櫓、その右下の城門は坂下門、右遠景は和田倉門


本丸乾二重櫓 二の丸巽二重櫓
本丸乾二重櫓、二の丸蓮池巽三重櫓 


 一方、外界と接してるのが二重橋、坂下門、桜田門、大手門、竹橋門など。
 この外側を「外曲輪」と呼び、大名屋敷や奉行所がありました。ここには、四谷見附、赤坂見附、日比谷見附、浅草橋見附など、36の見附(監視所)も設置しています。

 幕府は寛文2年(1662)に、百姓などが馬を下りる(下馬)場所を浅草橋見附などに決定し、さらに延宝8年(1680)には、江戸城に出仕する人物の下馬門を馬場先門、和田倉門などに限定し、城の周辺部の管理を強めていきます。元禄5年(1692)には、「外曲輪」への酔っぱらいの立ち入りも禁止しています(『江戸城が消えていく』による)。

日比谷見附 浅草橋見附
日比谷見附、浅草橋見附


 さて、江戸に最初に出来た繁華街は、現在の内神田1丁目にあった「鎌倉河岸」とされています。
 家康が江戸城に入城した天正18年(1590)頃から、この地に材木や石材が運び込まれるようになり、多くの人が集まりました。木材は伊豆半島から、石材は小田原〜湯河原の海岸から輸送する場合が多く、鎌倉から来た商人たちが取り仕切っていたため、「鎌倉河岸」と名付けられたのです。

 もともと江戸城は太田道灌が作った小さな城で、これを徳川家はひたすら時間をかけて拡張させていきました。
 ある程度完成した後も、火事で焼失することが多く、修繕には非常に時間と金がかかりました。なにせ、本丸でさえ、5回も焼失してるんですから、予算的には相当苦しかったはずです。

吹上御苑
吹上御苑


 参考までに、文久3年(1863)の大火で本丸(大奥)が炎上したときの様子を書いておきます。以下、明治25年(1892)刊行の『千代田城大奥』を意訳したものです。

《「うろたえなさるな、火元は御番衆の詰め所です」と、御使番の金切り声が混乱のなか繰り返されるけれど、黒い煙は廊下伝いに逆巻いて、各部屋に充満していく。
「さては隣座敷まで焼けている」と女中たちは慌てふためいた。
 その間に御用人、御広敷番頭、伊賀、添番などが備え付けの大槌を手にして非常口を打ち破り、「ここから逃げろ」と叫んで回り、女中を助けようとする。
 非常口の鍵はそれぞれ番号が付けられていて、しかも二重扉になっている。だから、片方の戸を打ち破っても、もう片方を開けないと出られない。非常口は銅張りの板塀に28カ所あり、数は多いのだが、大奥に住む者がみな殺到するので、ひどい混雑ぶりである。
 ある者は手を合わせ念仏を唱え、ある者は主人の安否を気にして舞い戻り、またある者はなるべく多くの物を持ち出そうとする。それを、男たちが煙の中を潜り抜けては、叱って逃がすのだ》

中ノ渡門、重箱櫓、多門
右から中ノ渡門、重箱櫓、多門


 というわけで、以下、江戸城の「焼失」年表を掲載しときます。

江戸城年表・焼失編
●康正2年(1456)  太田道灌による築城開始
●長禄元年(1457) 江戸城落成
●天正18年(1590) 徳川家康、江戸城入城
●慶長8年(1603)  家康、征夷大将軍になり、江戸幕府を開く
●慶長10年(1605) 秀忠、2代将軍になる
●慶長11年(1606) 本丸完成
●慶長12年(1607) 天守台、5重天守が完成
●元和2年(1616)  家康、死去
●元和9年(1623)  家光、3代将軍になる。天守櫓と天守台の修築終了
●寛永11年(1634) 西の丸御殿、焼失
●寛永16年(1639) 本丸御殿、焼失
●明暦3年(1657)  振袖火事(明暦の大火)で天守・本丸・二の丸、三の丸御殿が焼失。以後、天守は再建されず
●元文3年(1738)  三の丸御殿撤去
●延享4年(1747)  二の丸焼失
●弘化元年(1844) 本丸御殿、大奥など焼失
●嘉永5年(1852)  西の丸御殿、焼失
●安政6年(1859)  本丸御殿、焼失
●文久3年(1863)  本丸・二の丸・西の丸御殿を焼失。以後、本丸御殿は再建されず
●慶応3年(1867)  大政奉還。二の丸御殿が焼失。以後、二の丸御殿は再建されず
●明治元年(1868) 江戸城、無血開城。江戸が東京になり、明治天皇、東京に行幸。江戸城が皇居に
●明治5年(1872)  城内の建物、門など取り壊しへ
●明治6年(1873)  旧西の丸御殿(皇居)焼失
●明治21年(1888) 明治宮殿が旧西の丸に建造される
●大正12年(1923) 関東大震災で大手門、半蔵門など焼失
●昭和20年(1945) 空襲で宮城が焼失

江戸城/呉服橋門
呉服橋門

制作:2012年10月28日
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