チベット・桃源郷への入口
「シャンバラ」から「地球空洞説」まで

ポタラ宮殿
中国侵略前のラサ・ポタラ宮殿(1930年頃)


 世に「桃源郷」のことを「シャングリラ」(Shangri-La)といいますが、この言葉はイギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの小説『失われた地平線』(1933年)に登場する架空の理想郷のことです。
 小説では、イギリス大使コンウェイなど4人の外国人がチベットの秘境に連れていかれます。コンウェイは高山病のため、シャングリラへの道を覚えていないのですが、この地で食べた最初の食事に入っていた薬草のおかげで、高山病はすっかり癒えてしまいます。部屋にはバランスよく壁掛けや漆の小品などが置かれ、とても居心地のよい場所で……とまぁ、意外に控えめな理想郷なわけですが。

ポタラ宮殿
ポタラ宮殿(1993年)


 で、このシャングリラはチベット語の「シャンバラ」から来てるんですね。
 では「シャンバラ」とは何か?
 シャンバラは理想の仏教国のことで、チベット仏教の最高の教えである「カーラチャクラ・タントラ」(時の輪の教義)を信仰する聖なる都です。いつかこの地に英雄が現れ、いずれ来る最終戦争に勝利して、世界を「唯一の法」で統一するとされています。う〜ん、ちょっと難しいので、ダライ・ラマ14世自身に解説してもらいましょう。

《「シャンバラ」には96の地方があり、そのそれぞれに王と眷属(けんぞく)が住んでいます。しかし、もしあなたが地図を広げて、「シャンバラ」を探したとしても見つけることはできません。「シャンバラ」とは業と徳の力が熟した人以外は、訪れることも見ることもできない聖地のようなものなのです。
 7代目のシャンバラの法王はマンジュシュリーキルティと言います。この王は修行者がマンダラに入ることを許し、マンダラに入って精神の成熟した者たちを仏の一族に組み入れていきました。このことから、シャンバラの法王には「一族(クラ)を持つもの」という意味のクリカという称号が付されました》(『ダライ・ラマの密教入門』より省略引用)

 つまり、修行すればいつかは仏の一族になれるというのは、シャンバラの法王が決めたことだったのです。

チベット僧 五体投地
チベット僧と、最高の礼法である五体投地

 
 では地図に載っていないシャンバラはいったいどこにあるのか? 実はチベット人自身は「北の国」、つまりシベリアあたりだと考えていますが、チベット人以外は、チベットにこそシャンバラがあると考えています。

 どういうことかというと、17世紀、イエズス会の布教報告を通じてヨーロッパに「チベット=究極の聖地」という観念が確立するわけです。これにフランス人神秘家ダルベードルがスリランカの地下聖都アガルタ伝説を結びつけ、チベットの地下にシャンバラがあると広まったのです(平凡社百科事典の荒俣宏の解説による)。

シャンバラ
シャンバラはどこにある?


 で、事情はもう少し複雑で、この地下伝説が誕生するには、もう1つの伏線があるのですよ。それが「地球空洞説」です。
 地球の内部が空洞とするこの珍説は、1683年、ハレー彗星に名を残すイギリスの天文学者エドモンド・ハレーが発表したのが最初だとされています。ハレーによれば、地球内部は明るく居住も可能で、そこから漏れてくる発光ガスがオーロラの正体だということです。

 その後、オイラーの定理で有名なスイスの数学者レオンハルト・オイラーも地球空洞説を唱えます。これは地球内部には高度な地下文明があって、それを内部太陽が明るく照らしているというもの。
 1818年、今度はアメリカの軍人シンメスが南極と北極には巨大な穴があって、地表の海はこの穴から内部に流れこんでいるとしました。
 以後、地球の内部には秘密都市があるだのUFO基地があるだの、小人が住んでるだの、オカルト的な説が次々に発表されていきます。

 で、いつしか地球には地下王国シャンバラに通じる7つの入口があるという伝説が誕生したのです。7つの入口は北極、南極、ピラミッド、ペルー、カリフォルニアのシャスタ山など様々に言われていますが、もっとも有名なのが、ダライ・ラマの住居であり墓所でもあるポタラ宮なのです。

ポタラ宮殿 ポタラ宮殿
ポタラ宮殿の内部廊下(1930年頃)。右は宮殿の外から内部を撮影したもの


 つまり、欧米人にとって、チベットは理想社会への入口。
 フランクリン・ルーズベルト大統領は大統領別邸をシャングリラと名付けましたが、このようにシャングリラ=シャンバラ=チベットは欧米人にとって心の聖地となっているのです。だからこそ、人権をたてに中国を批判するのです。
 しかしまぁ、あえてきつい言い方をすれば、文明社会に住んでいる自分たちの贖罪意識を、文明から隔絶されたチベットに押しつけているともいえますね。ここにチベットが豊かになるという視点はありません。欧米人の意識では、チベットは永遠に何もない清貧の地であることが義務づけられているのです。
(余談ながら、ルーズベルト大統領は第2次世界大戦のとき、日本空襲のドゥリットル攻撃隊の航空母艦にもシャングリラと命名しています)

ポタラ宮殿屋上 ポタラ宮殿屋上
ポタラ宮殿屋上からの眺め。よく見るとあまりにも貧困生活

 
 さて、1949年に独立をはたした中国は、翌年、チベットを軍事制圧します。チベットは国連に助けを求めますが、世界はチベットをあっさりと見捨てました。そして1951年、いわゆる「17カ条協定」が締結され、チベット全域が中国の実効支配下に入りました。

チベット兵
チベット兵(1930年頃)

 
 オーストリア人の登山家ハインリッヒ・ハラーは、当時15歳で、まもなく成年宣言をするはずだったダライ・ラマがラサから逃げることを決めた瞬間を『セブン・イヤーズ・イン・チベット』に次のように書いています。おもしろいので、ちょっと長めの引用をしておきます。

《若い支配者(=ダライ・ラマ)の今後の身の振り方も問題になってきた。活仏はラサにとどまるべきか、それとも逃亡すべきかという問題である。
 こういう重大な決定の際には、過去のダライ・ラマの行動を参考にして決めるのが普通である。したがって、第13代ダライ・ラマが40年前に中国軍の攻撃を避けて逃亡し、それによって運命が好転したという過去の実例が、この際重視されるべきである。

 しかし、これほど重大な決定には、政府だけで責任を負うことは不可能で、最後の決断は神々に頼るほかなかった。

 ダライ・ラマと摂政の目の前でツァンパの玉が2つ丸められ、双方が同じ重さになるまで、黄金の天秤の上で量った。2枚の紙片の1枚には手で「諾」と書き、もう1枚には「否」と書き、それぞれを玉の中に丸めこんで、黄金の盃の中に投げこんだ。すでに陶酔状態に陥って舞踏をしている国家お抱えの占い師の手の中に、その盃を持たせた。盃が回され、その速さが次第に加わって行くと、球の1つが跳び出して、床に落ちた。その球には「諾」の紙片が入っていた。これで、ダライ・ラマはラサを去ることに決った》


ラサの人々
中華人民共和国建国3周年を祝うラサの人々=1952年

ダライ・ラマ14世
パンチェン・ラマ10世(左、14歳)とダライ・ラマ14世(18歳)=1953年
パンチェン・ラマ10世はチベットから追放されていたが、中国に擁立されラサに帰国。1989年、中国批判をした直後に急死



 中国の圧力による混乱が続くなか、1959年、ダライ・ラマはついにインドに亡命します。
 こうしてチベットでは、120万人とも言われるチベット人が殺され、6000あった僧院や寺の99%が破壊・略奪されたのでした。

ラマ教寺院 北京路
文化大革命で破壊されたラマ教寺院。町のメインストリートは「北京路」と名付けられています


制作:2008年5月11日

<おまけ>
 中国では、わが地方こそ「シャングリラ」とばかり、2001年に雲南省デチェン・チベット族自治州ジエタン県が「シャングリラ県」と改名しています。続いて四川省ダパ県ローワ郷が「シャングリラ郷」になりました。今後ももっと増えるかもしれません。
 実はチベットは地下資源が豊富です。特に有望なのがウラン。そうか、桃源郷ってウランのことだったのか。
 ちなみに日本では、オウム真理教が阿蘇の波野村に「シャンバラ」を建設しようとしていました。
 いったいホントの理想郷ってどこにあるんですかねぇ。
ラサ市内
ラサ市内に建てられた「民族共和」の看板。日本の「五族共和」と一緒?

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