「地価」の誕生
あるいは有島武郎の情死の真相

 日本の地価が、5年ほどで半額以下になるという衝撃的な予測を読んで、ビックリ仰天。日本の土地総額は現在1500兆円と言われますが、これが500兆円にまで下落する可能性があるんだとか。
 
《アメリカだけでなく、ヨーロッパでもだいたい土地の値段とGDPは等しいのです。日本は島国であり、首都に機能が集中しているといった事情があるものの、どう考えても日本の土地の値段は、世界から見て異常に高いのです。日本のGDPはおよそ500兆円あまり。とすれば、もし今後、日本が欧米並みの基準で資本主義を行っていけば、軽く1000兆円が吹っ飛ぶのです。1500兆円の土地総額から1000兆円吹っ飛んだら、残るのは500兆円。つまり土地は半額以下になるのです》(『地価「最終」暴落』より)

 参考までに、財務省のホームページより、日米の株価&地価の推移グラフを転載しておきましょう。確かに、アメリカの地価はだいたいGDPと等しく、バブル期にGDPの6倍近く、現在でも3.5倍くらいある日本の地価は異常ですな。

 というわけで、日本の土地制度史を振りかえってみることにしました。

土地制度史



 もともと、江戸時代は土地の私有という概念はありませんでした。田畑永代売買禁止令なんてのもありましたが、これは農民を土地に縛り付けるもので、個人の財産権とかいう意味はありませんでした。
 土地は財産であるという概念が発生したのは、やっぱり明治になってからです。明治2年(1869)7月に大蔵省が設立され、明治4年には租税寮という大蔵省の内局ができました。この両者が必死になって考えた税金の仕組みが、明治6年7月の地租改正です。

万代橋(万世橋)の租税寮
万代橋(万世橋)の租税寮(明治8年)

●地租改正

 地租改正というのは、全国バラバラだったコメによる徴税システムを改め、「地租」に統一を図ったものです。つまり、現物から貨幣への転換ですな(円の誕生はこちら)。
 次にあげる「地租改正の詔勅」は全国統一システムの確立を、「太政官布告」は税率の確定(地価の100分の3)を宣言しており、まさにこの2つが地租改正のポイントということです。このあたりのことは受験で覚えたよね。

<地租改正の詔勅>
上諭
 朕惟ふに租税は国の大事人民休戚(きゅうせき)の係る所なり、従前其法一ならず、寛苛(かんか)軽重、率(おうむ)ね其平を得ず、仍(より)て之を改正せんと欲し、乃(すなわ)ち所司の群儀を採り、地方官の衆諭を尽し、更に内閣諸臣ト弁論裁定し、之を公平画一に帰せしめ、地租改正法を頒布す、庶幾(こいねがわ)くば、賦(ふ)に厚薄の弊なく、民に労逸(ろういつ)の偏(へん)なからしめん、主者奉公せよ(原文カタカナ) 
<太政官布告(第272号)、明治6年7月28日>
 今般地租改正に付、旧来田畑貢納の法は悉皆(しっかい)相廃し、更に地券調査相済(すみ)次第、土地の代価に随(したが)ひ、百分の三を以て地租と可相定旨被仰出候條、改定の旨趣(ししゅ)別紙條例之通可相心得、且(かつ)、従前官庁並郡村入費等地所に課し取立来候分は、総(すべ)て地価に賦課可致、尤(もっとも)其金高は本税金の三ケ一より超過すべからず、此旨布告候事(原文カタカナ)

●地券制度
 
 さて、地租改正のために採用されたのが、明治6年(1873)の地券制度です。要は、全国の土地ひとつひとつの所有権を確定させていくという遠大な作業ですな。ちなみに島崎藤村の『夜明け前』には、主人公半蔵が地券調べで忙しいという記述があります。

《この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧庄屋の改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった》(『夜明け前 第二部下』)

地券 地券
これが地券(左が明治6年、右が明治16年)

 ちなみに、上の地券は山口県のものですが、地券発行は明治政府寄りのエリアから開始されたため、最初期のものはほとんど東京とか薩長土肥とかのものです。

●地価の成立

 土地の所有者を確定させたあとは、「地価」を決めねばなりません。地価の3%を税金としたからです。その地価をどうやって決めたかというと、従来のコメの生産高(石高)を基準としました。
 実際に使用された「地価算出表」を見ると、米1斗(18リットル)で4円37銭7厘5毛、1石(180リットル)で43円77銭5毛などと決定されていったのがわかります。

地価算出表
これが実際に使われた地価算出表(明治13年)


●登記システムの登場

 地券制度は明治23年(1889)3月に廃止され、以後、登記による土地台帳制度に変わりました。これが現在まで続くシステムです。
 登記法が施行されるにあたって、当然、さまざまなマニュアルが発行されたんですが、その1例を公開しておきます。『登記事務質疑録』という当時の裁判所の内部資料には、こんなQ&Aが書かれています。

Q 土地売買が外国人の場合どうしたらいいのですか?
A 内国人から外国人に売る場合は、登記簿の取り消し欄にその内容を記入して、物件を朱で消してください。逆の場合は、契約書と翻訳文の綴じ目に印鑑を捺して、登記物件の番号を書くこと
Q 地面の木や石の登記はできるのですか?
A 「樹木附」「庭石附」などと記載すること


 現場の苦労が忍ばれますな。

●寄生地主の登場

 このように、土地の売買が自由にできるようになると、貧乏人は結局土地を売り払い、わずかな大地主と、搾取される大多数の小作人という関係が強固になってしまいます。地代の60%近くを収奪される搾取ぶりは、寄生地主制と言われるほどです。

土地売買の契約書
これが土地売買の契約書(明治17年)
「永代地所売渡」が可能になった点に注目です


 寄生地主とはどのようなものだったのか。このあたりのことを、作家の有島武郎の文章で見てみましょう。彼は北海道のニセコに親から引き継いだ広大な農場450ヘクタールを持っていましたが、1922年7月に土地共有という形で小作人に無償で解放しています。こんなことをする人間は当時誰もいなかったので、大いに世間の耳目を集めました。
 
《今の世の中では、土地は役に立つようなところは大部分個人によって私有されているありさまです。そこから人類に大害をなすような事柄が数えきれないほど生まれています。それゆえこの農場も、諸君全体の共有にして、諸君全体がこの土地に責任を感じ、助け合って、その生産を計るよう仕向けていってもらいたいと願うのです》(『小作人への告別』)
 
 昭和に入っても地主の寡占化は止まりませんでした。1941年で日本の全耕地の46%が小作地で、全農家の28%が耕地をまったく持っていない純小作農でした。多少とも地主から耕地を借りている小規模自作農を加えると、実に69%が搾取される側だったのです。

●農地改革

 で、こうした悲惨な状況を一掃したのが、敗戦後に行われたGHQの農地改革です。政府が地主から強制的に土地を買い上げるわけで、その代価はなんと向こう24年払いの「農地証券」でした。結局、戦後の大インフレで、この農地証券は紙くずになるのですが、逆に言えば小作人はタダ同然で土地を手に入れることができました。

農地証券
これが紙くずとなった農地証券


 農地改革を数字で見ると、小作地は田で14%、畑で12%に激減しました。また、純小作農は8%、小規模自作農を含めても43%に減りました。
 1952年7月には、さらに進んだ農地法が施行され、農民は自分の土地で創意工夫をもって農業に従事できるようになりました。これが成功を収め、1955年には、1200万tを超える史上最高の米豊作が実現したのでした。
 
 こうして、土地を基本とする徴税システムは現在まで生き延びてきたわけですが、バブルを経て、冒頭のように土地の価値は大幅下落傾向。このことを冒頭の『地価「最終」暴落』では「クズ土地資本主義の崩壊」と表現しています。いずれにせよ税金の減収は続くわけで、さて、

Q 財務省はどうするんでしょうか? 
A どうせ国債を乱発して、問題先送りですね。
 

制作:2004年11月1日


<おまけ>

 有島武郎は450ヘクタールの土地を70戸の小作人に譲り渡しました。時価50万円ともいわれた巨大な資産ですが、実はその1年後の1923年6月9日未明、「婦人公論」の記者で人妻の波多野秋子と軽井沢で情死しています。
 つまり、色恋沙汰のために土地を処分したんじゃないかという説が根強かったんですが、実はそうではなく、土地解放という「危険思想」に官憲が圧力をかけ、それを苦に自殺した可能性があるのです(有島記念館の名誉館長の説です)。

 有島の農場では、1921年秋、小作農の自立のために農地改良工事を行ったんですが、その補助金がらみで農場管理人が詐欺罪で捕まっています。有島の自殺は、その有罪判決から29日目のことでした。もしこれが事実なら、当時、国家の根幹である土地制度を“批判”することは、相当大変だったことがわかります。

 自殺した時、有島は45歳、秋子は29歳。遺書には、「私達は最も自由に歓喜して死を迎える……恐らく私達の死骸は腐乱して発見されるだろう」とありました。

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