タイタニック号沈没の新聞記事

タイタニック号
タイタニック号


 イギリスのホワイト・スターライン社が1912年に建造した世界最大の豪華客船タイタニック号。ギリシャ神話の巨大神「タイタン」に由来した名前ですが、まさに巨大で、全長 269.1メートル、幅28.2メートル。総トン数は4万6329トン。
 ライバルのキュナード汽船「モーレタニア」に対抗すべく、姉妹船「オリンピック」とともに建造されました。

 1912年4月10日、サザンプトンからニューヨークに向け処女航海に出発。
 二重底と緻密な防水区画を採用したことで、「不沈船」と呼ばれていたにもかかわらず、4月14日の23時40分、航行中に氷山に接触し、あっけなく沈没してしまいました。沈没時間は15日午前2時20分。
 厳寒の中、世界で初めて救難信号SOSを発信しましたが、助けはなかなか来ず、被害が拡大しました。2224人の乗客・乗員を乗せていたものの、救命艇は総計1178人分しかなく、結局、1513人(1490 名説も)の犠牲者を出しました。

 現在でも世界最大の海難事故であり、この事故をきっかけに「海上人命安全条約」(SOLAS条約)という国際条約が締結されています。内容は、流氷の監視、船舶の構造強化、無線や救助設備の充実、救難信号(SOS)の24時間聴取などです。

 そんなわけで、今回は当時の長〜い新聞記事を、まるまる転載しときます。出典は明治45年(1912)4月21日の時事新報で、「生還者の語るタイタニック号の最期」です。



沈没の顛末〔倫敦(ロンドン)20日発ロイテル(ロイター通信)〕
 倫敦の人にして、生還者の1人なるピスレー氏の談に曰く。

 タイタニック号は、クインスタンを発してより平穏なる航海を続け、なんらの事故なく、天候静穏にて好く晴れ、寒気極めて強く、最後の若干日に於いて殊にしかりき。

 遭難の当夜、余は寝所に退きて約10分、時計あたかも10時15分の辺を指せる時、軽微なる震動を感じ、間もなく第2の震動を感ぜしが、極めて微かにしていささかの不安を惹起するにも足らざりき。しかも機関はハタと止まれり。余は初め、船が推進機を失いしものと思いしが、取り敢えずドレッシング・ガウンを纏いて甲板に昇りしに、そこには同じく何故に停まりしかを尋ねんと来たりし若干の人々を見たるが、なんら不安の点なかりき。

 次いで余は喫咽室にて骨牌(カルタ)を闘わし居るものあることを見て、何事の起りやを尋ねんとこの室に入りたり。居合わせたる人々は、余よりも震動を感ぜしものと見え、窓外を眺めつつありしが、船間近に巨大の氷山通過するを見たり。余等は軽く氷山に触れたるものと思い、何人も氷山の下部が船体に孔(あな)を穿ちしとは露思わず、災厄には気付かず、骨牌戯は依然として続けられたり。

 余は船室に退き読書をなし居りしに、船は再び前進せしが、次いで人々が甲板に昇り行く足音を聞き、再び室を出でしに、人々は何故に機関の止まりしかを怪しみ居たり。船が突然停まりたると震動せしとにより、眠りより覚まされしもの多かりしこと疑いなし。

 余はこの時、船が艫(とも)より船首にかけて傾斜せるを感ぜしが、前部の艙(そう)に積み込まれしものありて、重りを来たせしものならんと想像し、寒き故衣服を重ねんと、いったん室に下り服を着し居たるに、「乗客は救命帯を携えてことごとく甲板へ上がれ」との命令を耳にしたり。

 ここに於いて衣服の上に救命帯を付け、総員静かに甲板に上れり。この時に及びても船長が万全の策を取れるものと思い、やがては居室に退きて、再び寝所に入ることを得ることとのみ思い居たり。

 従って更に慌てたる様子なかりき。けだし夜は静かにして、なんらの変事も起れる徴候なく、船は更に動かず、ただ緩やかに下に傾けるも、これとても気付けるものは10人の内に1人あるかなしかのようにして、災厄の迫れるの状なかりき。されども数分の後に端艇の覆い(ボートカバー)取り除かれ、船員傍らに立ちて引き下ろしの準備をなすを見て、初めて何かは知らず、事の重大なるものあるを知り、人々は潮のごとく甲板に上り釆たれり。

 次いで再度の命令は出でたり。「男子はすべて端艇の傍らを退き、婦人は下の甲板に下るべし」と。男子は極めて静粛に身を退け、欄杆に倚(よ)りまたは甲板を歩み廻れり。その間に端艇は舷外に吊り出され、下の甲板に下ろされ、ここにて婦人は静かにこれに乗り移れり。もっとも中には夫の傍らを離るるを拒み、取り槌(すが)りしものもありしが、端艇内に押し入れられたり。この間終始不秩序なく、また端艇に突進するものもなく、婦人にも躁狂的に欷歔(ききょ=すすり泣き)するものもなかりき。

 瞬時の後には救命帯の外(ほか)頼むものなき身の海中に陥ることを知りたるこの時に及んでも、各人がよく克己の精神を示したるは、異常のことと云うべし。婦人、児童を載せたる端艇の姿暗黒の裡に見えずなるに及び、男子をして端艇に入らしむるの令出で、これまた静穏に行われ、これらの端艇また本船を離れたり。

 時に午前1時、月なけれど星清く、海上は池のごとく平穏、ただ寒気烈しく、遠く距りて眺むるに、タイタニック号は黒き輪廓を以って、星輝ける空に山のごとき姿を現わせるが、窓口は一ツ一ツに光線を放ち、なんら変わりたる状を示さず、ただ船首少しく傾けるのみなるが、この辺は既に下部の窓口の辺まで水に沈み居たり。

 午前2時頃、船は沈むことようやく速やかにして、船首、船橋は全く水中に没し、徐々に傾斜し、次いで船尾を空に逆立ちとなり、数哩(マイル)の外に聴こゆる雑然たる機関の響きを発せしが、逆立てること約5分時、少なくとも150呎(フィート)の船体は、塔のごとき黒き影を空に画き居たるが、やがて静かに沈み行きて影を没せり。

 この時余等の耳は、人類がかつて聴きたることなき騒音を以って聾せんばかりなりき。これ数百の同胞が氷水の内に争いつつ救助を求むる叫びにして、余等の答うる所を知らざりし叫び声なりと。


制作:2008年4月21日

<おまけ>
 タイタニックに唯一乗船していた日本人が、鉄道院副参事の細野正文。音楽家・細野晴臣の祖父ですね。生き残った細野は「人を押しのけて救助ボートに乗った」と終生批判されていましたが、現在では汚名はそそがれています。

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