日本の海賊1800年史

船を襲う海賊
船を襲う海賊たち
(たぶん右が倭寇だと思いますが……)


 マラッカ海峡で日本人が海賊に拉致されました。その昔、僕は海賊で有名なフィリピン・スールー海へ行って、財宝を奪ってこよう……などと考えたこともありましたが(笑)、「本当に危ないからやめろ」と言われて断念した覚えがあります。若気の至りとはいえ、やっぱ、シャレにならないんですよ、海賊は。

 で、悔しい?ので、今回は、アジアを席巻した日本の海賊1800年!の歴史です。


渋谷家に伝来する鉄砲
渋谷家に伝来する鉄砲

 まずは上の写真を見てくださいな。
 中学生でもわかる日本史の知識ですが、日本に鉄砲が伝来したのは1543年、種子島にポルトガル船が漂着したときだとされています。領主の種子島時堯(たねがしまときたか)が鉄砲を購入、それを島津義久に献上した、と。
 
 しかし、尾道の船商人・渋谷与右衛門の家に、この種子島型より古い鉄砲が伝わっているのです。銅製で長さは65cmくらい。正確な渡来年は不明ですが、もしかしたら歴史が書き換わっていたかと思うと、なかなかおもしろい話です。

 で、なんで渋谷家に古い鉄砲が伝わったかというと、このころ、瀬戸内海で猛威をふるっていた海賊から入手したと推測されます。もともと瀬戸内海は海賊の巣窟だったんですが、次第に海賊に金を払い、乗船してもらうことで安全を買うシステムができあがりました。これを「上乗(うわのり)」というのですが、要は海賊がいつしか海の治安を守るようになったわけです。これが有名な村上水軍ですな。


村上水軍の車輪船
村上水軍の車輪船
 


 さて、ではいったい日本の海賊はいつから登場したのか?
 これだ、という答えを出したいんですが、残念ながら「海賊」の範囲が広すぎて、明確な答えを出すのは難しい!

 なにせ『古事記』によれば、「天の羅摩船」に乗って世界中を旅した少名毘古那神(スクナビコナノカミ)が、大国主神と出会い、それで国家作りが始まったとされています。建国の最初から船が出てくる民族だけに、どこから海賊行為が始まったのか、断定しにくいのです。

 まぁ、紀元前200年頃、神功皇后が三韓征伐してるので、そのくらい昔から海賊はいたんでしょう。紀元前50年頃には、新羅に倭人が侵攻してきたものの、開祖・朴赫居世に諭されたという記録が『三国史記』にあります。
 
 ちなみに「倭寇」という文字が初めて登場するのは、404年の高句麗広開土王碑文ですが、まぁこのころの海賊はそれほど大規模ではなかったみたいです。
 
 時代は下って、紀貫之の『土佐日記』には、任地土佐から京都へ戻る途中、海賊におびえる様子が書かれています。
 
《(935年1月)廿三日、日てりて曇りぬ。此のわたり、海賊のおそりありといへば神仏を祈る。三十日、雨風ふかず。海賊は夜あるきせざなりと聞きて、夜中ばかりに船を出して阿波のみとを渡る。夜中なれば西ひんがしも見えず、男女辛く神仏を祈りてこのみとを渡りぬ。……今は和泉の国に来ぬれば海賊ものならず》

 実はこのころ、瀬戸内海の海賊は非常に活発化していて、朝廷も手を焼いていました。その鎮圧に向かったのが藤原純友。ところが939年、平将門の乱が起こると同時に反乱を起こします。これが有名な藤原純友の乱。ちなみに『今昔物語』は、純友についてこう書いてます。
 
《純友、伊予の国に有りて、多くの猛き兵を集めて眷属として、弓箭を帯して船に乗りて 、常に海に出でて、西の国々より上る船の物を移し取りて、人を殺す事を業としけり》

 13世紀になると、次第に朝鮮・中国への海賊行為が目立ってきます。朝鮮の文献に初めて「倭寇」の文字が出るのは、『高麗史』の1223年。1232年には、『吾妻鏡』に肥前(唐津)の人が高麗で海賊をしたことが記録されています。

倭寇の侵攻ルート
これが倭寇の侵攻ルート
(最上部中央の「日本」から下部の中国へ)


 倭寇の被害が大きくなったのは、1350年以後のことです。足利義満が明と勘合貿易を開始すると倭寇は減少しますが、16世紀中頃になると、再び活発化。ただし、このときの倭寇は、日本人より中国人が主でした。
 
 ちなみに戦国時代から安土桃山時代にかけて、国内の海賊は八幡船(ばはんせん)と呼ばれていました。その語源は、

《我国の賊船各々八幡宮の幟(のぼり)を立て、洋中に出でて西蕃の市舶を侵し掠めて、其の財産を奪ふ。故に其の賊船を称して八幡船と呼ぶ也》(『南海通記』)

 要は八幡宮の幟が海賊(倭寇)の旗だったわけです。
 当時の海賊船は木造船でしたが、これを初めて鉄製にしたのは織田信長。伊勢の海賊・九鬼嘉隆(九鬼水軍)とともに、村上水軍を中心とする毛利軍を撃破するのでした(1578年の木津川海戦)。
 
 さて、豊臣秀吉は天下統一に当たって海賊を制圧していきますが、この恭順していった海賊が朝鮮出兵(1592、1597)で大活躍したのは当然といえば当然の話です。
 
 1601年、徳川家康は朱印船貿易を確立、船舶保護のため海賊船の取り締まりを始めますが、なかなか成果は上がりません。しかし、時代は鎖国へと突っ走るなか、1635年、徳川家光は、日本人の海外渡航禁止と在留邦人の帰国禁止を打ち出します。

 一、異国え日本の船遣候儀、堅く停止の事(日本船の海外渡航禁止)
 一、日本人異国え不可遣候條、忍候て乗渡者於有之は、其身は死罪、其船、共船主留置可言上事(日本人の海外渡航禁止)
 一、異国え渡り住宅仕日本え来候はゞ、死罪可申付事(在留邦人の帰国禁止)

 
 かくて、アジアの海を制覇した日本の海賊は、以後完全に衰退していくのでした。

制作:2005年3月22日

<おまけ>
 村上水軍は、なんと潜水艦も持っていたそうです。
 能島の村上水軍に伝わる奥義で、海底を進み、敵の近くで龍の頭を出して奇襲するんだそうです。おそるべし!!

村上水軍潜水艦

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