「戦艦大和」の日常生活

戦艦大和の勇姿
高知県宿毛湾沖を全力公試運転中の大和(1941年10月30日)。最大速力27.46ノット(時速約51km)


 本サイトの管理人はかつて戦艦大和の生き残りの方々数名に話を聞いたことがあります。
 そのときの取材データを元に、戦艦大和の日常生活について再現しておきます。


●大和の新兵はどうするのか?
 言うまでもなく、大和は史上最大の戦艦。いったいどれだけ大きいのかというと、全長は263m、全幅は38.9m。この巨大な船に約3000人の海兵が乗っていました。

 新兵が乗艦するとすぐ「艦内旅行競技」というものが行われます。どこにどんな分隊があるか、あるいは艦内構造を知るため、艦内に50カ所ほどのチェックポイントを設置。各人がそのチェックポイントをたどって確認印をもらって帰ってくるまでのタイムを競うのです。今でいうオリエンテーリングです。
 しかし、道を聞いても反対方向を教える人がいたりして、所定時間が過ぎても帰ってこれない者が続出したそうですよ。

 ちなみに大和の艦橋には当時としては珍しいエレベーターがあり、40mほどの高さを上下していました。「艦内旅行競技」で初めて存在を知るも、これは士官専用。伝令の下っ端は使えないので、その後はいつも走り回ることになりました。

戦艦大和の勇姿
呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日)。就役は3カ月後の12月16日


●船酔い
 巨艦といえども時化には勝てません。時化になるとすさまじいピッチング(上下の揺れ)が起き、何度も船体に叩き付けられるそうです。

 ある兵士が船酔いし、どうしても我慢できず、帽子の中にゲブゲブと吐いてしまったところ、上官は「そんなところで『小間物』広げおって、バカもん、すべて飲み込め」と怒鳴ったそうです。やむを得ずその兵士は目を閉じて一気に胃の中に吐いたものを流しこみました。「どうだ、自家製の雑炊もうまかろうが」と言われましたが、それ以降、兵士は2度と船酔いすることがなくなったそうです。

●食事
 帝国海軍はイギリスの伝統を受け継いでいるため、艦内は完全な階級社会でした。
 信じられないことに、幹部の士官は月1回は洋食のフルコースを楽しんでいたそうです。
 上等水兵は1回の食事で1合のご飯(1日3合)。肉じゃがやカレーライスも普通に食べられました。ちなみに海軍ではけっこう英語を使うので、カレーライスはそのままカレーライスと言います(陸軍は『香辛料色付き汁かけ飯』と呼んでいました)。このほか、たくわん、福神漬け、昆布、佃煮などもありました。
 一方、下っ端は食事もまともには食べられませんでした。1944年6月のマリアナ海戦前後などは特にひどく、1日にパパイヤの漬け物と馬の小便みたいな醤油汁、それに大麦の一膳飯だけ。呉を出港するときには大量の缶詰、酒、嗜好品を積んでいましたが、下っ端の前に出てくることは決してありませんでした。もちろん艦内の売店でも下っ端は何も買えませんでした。


戦艦大和の勇姿
1941年10月30日

●水
 当然ながら、食料以上に貴重なのが水。上官はいくらでも飲めたそうですが、下っ端は飲み水も厳しかったようです。やむなく、露天の甲板で夜露を集めて飲むこともありました。

 意外に知られていませんが、艦の中央片隅にラムネ製造所がありました。ラムネ作りを手伝うときだけはガブ飲みできたそうです。できたラムネは50本ケースに仕分けられ、『各分隊、ラムネ受け取れ』という命令で分配されました。

●風呂
 入浴の回数も階級によって決まっていました。下士官以上は毎日、水兵長は週4回、上等水兵は週3回、一等水兵は週2回。

 入浴時は入口で10円玉くらいの入浴券3枚と紙1枚を受け取ります。紙には陰部を消毒するための消毒液を浸けてもらいます。風呂場には2つの浴槽があり、手前に海水の湯が、奥に真水の湯が張ってありました。
 入浴券1枚で洗面器1杯の水がもらえるので、洗面器3杯の水で全身を洗うことになります。ずいぶんと少なく思えますが、海軍では新兵教育から水を大切にするよう教えられるので、これだけでも十分なんだそうです。


 入浴は時期によってほとんどできないこともあります。この状況で全員が楽しみにしていたのがスコールでした。当直の士官が8倍双眼鏡を片手にスコールの雲を探索。黒雲が迫ってくると、「スコールに備え、手空き総員スコール浴び方」と艦内に響き渡ります。すると甲板へ兵員が上がってきて、手に持ったオスタップ(手桶)やチンケース(石油缶)で大いに水浴びを楽しんだそうですよ。

 とはいえ、スコールを浴びられるのは基本的に停泊中だけ。どうしてかというと、いったん港を出ると、潜水艦の攻撃を警戒するため、そんな余裕は一切なくなるからです。

戦艦大和
呉空襲で、敵機の攻撃を回避する湾内の大和(1945年3月19日)


●戦闘になるとどうなるのか?
 大和は1944年10月、レイテ沖海戦で米護衛空母艦隊と戦いました。
 このとき二番主砲で通信員を務めた元兵士によれば、

「『左対空戦闘300度、高角20度、旋回中のグラマン艦攻』『3式対空弾用意』と次々に砲戦号令が下ります。主砲を撃つときはとてつもない轟音と振動がするので、高角砲や機銃の兵員は待避しなくてはなりません。われわれは防音された砲塔の中にいて、護耳器という耳栓をしているのですが、それでも失神寸前でした」

 この戦いで大和は30名あまりの死者を出しました。戦死者はとりあえず浴室に放り込んでおきます。戦闘終了後、遺体を2人一組にして毛布で巻いて、真ん中に重りのための訓練弾を入れて水葬するのです。
 水葬時は全員が甲板に集まり、遺体を形ばかり湯灌します。本来なら第一種軍装といって冬服を着せるんですが、実際の遺体はかなり傷んでいるため、上にかぶせるだけ。そして左舷の後部から吊し、海の中に一気に落とすのです。

戦艦大和
レイテ沖海戦での大和を真上から見たところ

●大和の最期
 1945年4月、大和に沖縄特攻命令が下りました。最後の食事は「戦闘配食」といって、海苔の巻いていないゴマ塩味の大きな握り飯、中には梅干しが2つ入っていました。
 当時の日本のレーダーはレベルが低く、主砲を撃つには測距儀という光学器械を使う必要がありました。しかし、この日は曇天だったため、敵機が襲来するも主砲は一発も撃てませんでした。

 このとき高角砲にいた元兵士によれば、
「そもそも主砲の砲身は60度しか上がらないため、近づいてきた敵には無力でした。自分らの高角砲はほとんど直角にまで上がるんで、上の方ばっかり撃ってました。高射機(指揮装置)で照準して撃つと6つの高角砲が1つの方向へ玉を撃つからより正確なんですが、このときは高射機も故障して、それぞれの高角砲が勝手に撃つようになって、もうバラバラでした」

 敵の攻撃で大和は徐々に左に傾きはじめました。大和には船のバランスを戻すため、反対側に注水する仕組みがあり、まもなく艦底への注水が開始されます。ところが浸水防止のため、艦底は1700もの小部屋に分かれているため、ほとんどの兵員は逃げられず水死しました。

 ついに「総員、最上甲板へ」という命令が下ります。甲板にいた兵士は海に飛び込みますが、沈みゆく大和の煙突に吸い込まれる人間も多かったそうです。
 まもなく火薬庫が引火、海の底で火の玉が光り、大爆発となりました。空から真っ赤に焼けた大和の鋼鉄の破片が大量に降ってきて、泳いでいる多くの兵士に直撃しました。

炎上する戦艦大和
炎上する大和


 1937年11月4日に起工し、1940年8月8日に進水した大和は、1945年4月7日、鹿児島南西の東シナ海で沈没しました(沈没地点は北緯30度43分、東経128度04分)。
 吉田満の『戦艦大和ノ最期』には次のように書かれています。

《大和巨体四裂シテ轟沈ス 水深四百三十米 今猶埋没スル三千の骸 彼等終焉の胸中 果シテ如何》

 乗組員3332名のうち生存者は276名。大和は今も多くの英霊の魂とともに、水深345mの海底に眠っているのです。


制作:2010年9月5日

<おまけ>

 2005年、映画『男たちの大和/YAMATO』の撮影に使われた原寸大セットが、広島県尾道市で公開されたので、見てきました。
 セット自体は、尾道の対岸向島の日立造船の工場内に作られていました。大和は全長263mですが、セットはその一部190mほどが再現されていました。

 戦艦大和の勇姿 戦艦大和の勇姿
かっこよすぎる戦艦大和の勇姿

戦艦大和の勇姿
この長さはスゴい!(左上は尾道城)

戦艦大和の勇姿 戦艦大和の勇姿
横から見た46cm主砲(左)と対岸から見た船尾側

 実際に見て驚きました。ホントに巨大なんだもん。恐るべし大和。
 その昔、大蔵省主計官が戦艦大和を「青函トンネル」と「整備新幹線」に並ぶ「昭和の3大バカ査定」の1つに数えてましたが、こりゃホントに凄いです(ちなみに建造費は当時の価格で1億3780万円)。
 まったくもって大和の中心で「でっけ〜」と叫ぶしかないよ。
 
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