無人島でサバイバル体験!


不思議な光景


 2010年2月28日、南米のチリで大地震が起き、小笠原諸島に津波警報が発令されました。小笠原村は父島、母島両島の住人2400人と観光客400人に避難勧告を出しました。
 今でこそ小笠原は大観光地ですが、江戸時代は「無人島」の代名詞でした。当時は外国からボニン・アイランズ(Bonin Islands)と呼ばれていましたが、これは「無人」のなまりです。

 小笠原は1593年、豊臣秀吉の命を受けて南方航海した小笠原貞頼が発見したと言われていますが、これはおそらく伝説。実際に発見したのは長崎の探検家・嶋谷(島谷)市左衛門で、1675年のこととされています。八丈島を出た20日後に小笠原を発見、日本領を示す標識を建てました。
 しかしながら江戸から約1000キロも離れており、島の開発は難航、長らく無人島として放置されてきたのです。

 1827年、イギリスの軍艦ブロッサム号が島を訪れ、領有を宣言。
 1830年にはサンドイッチ諸島(ハワイ)から移住者がやってきて、米英の領有権争いが起きるなか、1853年にペリーが寄港して風景を記録しています。
 小笠原の領有権問題で出遅れた日本は、その後、嶋谷の探検記録や林子平の小笠原地図(『三国通覧図説』)などを根拠に領有権を主張、1876年(明治9年)、日本領として明確になりました。


ペリー『日本遠征記図譜』の小笠原。左はハワイのカナカ人


 ところで、日本にはいったいどれくらい無人島があるんでしょうか?
 日本離島センターのサイトによれば、日本には6852の島があり、そのうち本土5島(北海道、本州、四国、九州、沖縄本島)を除く6847が離島扱い。そのうち住民登録のある島は314なので、実に6500あまりが無人島ということになります。
 
 しかし、人は住まなくても利用価値があれば島の争奪戦は激しくなります。また、小笠原とは逆に、かつて繁栄したけれど今は無人島の島もたくさんあります。
 今回は、そんな島の1つに行ってみることにしたよ。



 愛媛県松山市の沖合15キロに由利島(ゆりじま)という無人島があります。地の利がよく、弥生時代からすでに瀬戸内海の中継ポイントになっていたといわれます。古くからイワシの好漁場として知られ、鎌倉時代には「由利千軒」と呼ばれるほど多くの人が住んでいたようです。

 しかしながら弘安年間(1278−1288)に地震(津波?)により水没し、その後は小さな島ながら、長らく漁業権争いの舞台となってきました。
 好漁が続いた昭和初期には数百人が暮らしており、また戦時中には海軍の監視台も置かれていました。
 ところが昭和30年代に不漁となり、タコ壷漁などが細々と続くものの、結局、1965年に無人島となりました。

 
いたるところに廃屋が。右は1993年まで使われていた公衆電話


 かつて人が住んでいたこともあり、この島は「マニア」の間ではけっこう有名。実は、日本テレビの『進ぬ!電波少年』という番組で、R(ろっこつ)マニアが「無人島脱出」に挑戦した場所でもあるんですな。
 俺はその後、Rマニアのスワンボートを追跡したことがあり、個人的な思い入れも強いのです。


Rマニアのスワンボート


 話が脱線しましたが、2009年8月26日から3日間、この島で日清食品グループのサバイバル研修が行われました。対象は管理職になったばかりの社員17名。
 いったいなぜサバイバルなのか?  答えは簡単。食品メーカーとして食の大切さを再認識し、“骨太の管理職”を作るためだそうです。
 日清食品のサバイバル研修は2003年から始まっており、ここ3年は山のなかで行っていたそうですが、やはりもっと厳しくないとダメだ、ということでまた無人島に戻ったのです。
 そんなわけで、楽しそうなので、俺も一緒に同行させてもらうことにしたよ!


これが由利島 。大小2つの島が砂州でつながっている


 この無人島研修のすごいところは、新人管理職だけでなく、人事部長はもちろん、役員1人も同じ条件で参加すること。信じられないことに、第1回の無人島研修では、社長自ら参加したそうですよ。それってすごい話。

 さて、快晴の空の下、一行はチャーター船に乗って松山港を出発。昼過ぎに上陸すると、あたりには打ち上げられた大量のゴミ以外めぼしいものは特になし。砂浜はなく、海岸は大きな丸石で覆われていました。

 その場で参加者は時計も携帯も没収され、サバイバル開始。
 初日の昼食は1人チキンラーメン1袋と水のみ。あとは見たこともない火起こし棒とノコギリが与えられました。食器も鍋もないので、大きな竹を切って一から作らないといけないわけです。


この竹が鍋と食器に変わります


 まずは5グループに分かれ、火を起こすところからスタート。ところが火起こし棒で種火を作るのってすごく難しいんですよ。煙は出るんだけど、いっこうに種火にならない。
 実は酸素をうまく供給しないと種火にならないんですが、都会育ちなもんで、そのあたりが難しい。ようやく45分後に1チームめが成功し、お湯を沸かし始めることに成功。ところが火力は弱く、実際にお湯が沸いてラーメンを食べるまでさらに50分ほどかかりました。
 この時点ではまだ3チームで火がついておらず、全員が食べ終わったのは開始から3時間後のことでした。いや〜この段階で全員へろへろ。すごい研修っす……。
 
 これでグループ活動は終了し、あとは最終日まで個人行動。水だけは自由に飲めるけれど、配布された食料はチキンラーメンとわずかな米、小麦粉のみ。道具はマッチ10本と小型ナイフ、新聞紙、そしてビニールシート2枚だけ。これで自分の家をつくって暮らさないといけない。
 釣り竿を自作して海から食料を調達してもいいし、体力を温存するため、寝て暮らしてもかまわない。どう過ごすかは各人の自由だけれど、これは研修だから、「過ごし方」が人事考査に影響を与えることはないそうです。
 
 時計がないので、「翌朝は明るくなったら本部に集まってください」と言われ一同解散。各自自分の好きな場所に移動し、ビニールハウスを建て始めました。


最も完成度の高いビニールハウス


 その夜は疲れ果てて夜8時すぎには全員が就寝しましたが、ところがですね、実はまともに寝られた人はほとんどいなかったんですよ。
 まず床が石ころなので、痛くて寝返りも打てない。蚊をはじめとする虫が多く、かゆくて眠れない。昼間とはうって変わってかなり気温が下がったうえ、誰もが想定外だったのが、異常な数のフナムシ。ゴキブリのような巨大なフナムシがぞわぞわと襲ってくる……。
 いや〜これは強烈。俺はビニールシートではなく、テントで過ごしたんですが、フナムシは平気でテントの中まで入ってくるんだもん。しかも、ノートも何もかも全部フナムシにかじられてしまったんです。
 満天の星の下、島のあちこちで小さな悲鳴が上がっておりました(涙)。


驚異的なフナムシの数。右は食いちぎられた航空タグ


 さて2日め。
 この日は太陽の照り返しがきつく、40度を超える灼熱の地獄。暑い…熱すぎる…日陰がどこにもないのでみんなゆでダコ状態のまま、動くこともままならない。

 しかし、そんななかでも各自、さまざまな創意工夫を始めていました。
 あたりに生えている笹の葉を切ってビニールシートの下に敷き、柔らかいベッドにする人。フナムシ対策のために寝床を高床式にする人。東西南北を確認してまず日陰を最優先に考える人。拾ったゴミで銛やワナを作って魚を捕ろうとする人。潮の満ち引きを利用してカニを捕る人。早くお湯が沸くようにジュースのアルミ缶を拾う人…それはもう本当に十人十色の工夫でした。
 ちなみにタコ壷を拾ってタコ漁を試みた人がいましたが、これは失敗でした。そもそも魚がほとんどおらず、17名のうち、魚を捕ったのはたった一人。それもすごい小魚。

 結局、ほとんどの参加者が小麦粉で作った「チキンラーメン饅頭」を食べて3日間を過ごしたのでした。
 恐るべき無人島研修。しかし、ほかにすることもなく時間はたっぷりあるおかげで、参加者はさまざまな知恵を出し、終了時にはみんな自信に満ちた顔をしていたのでした。


制作:2010年2月28日

<おまけ>

 松山市に儀光寺という寺があるんですが、この寺はもともと由利島にあったと伝わっています。それが13世紀の津波で、島民一同、島を出たというんですね。
 ところが、この津波はほかに記録がないんで、伝説だといわれています。ではどうしてそんな伝説ができたのか? 実は弘安年間(1278−1288)には日本史上の大事件が起きています。1281年の弘安の役(元寇)です。
 瀬戸内海上の要衝だけに、なんらかの軍事的な圧力があった可能性は高いと思われます。小さな島なので1000軒の家があったとは考えられませんが、1000人の兵士が休憩に使うくらいは可能です。いきなり現れた兵士集団、それは漁民からすれば津波のような大騒動だったはずです。
 もちろん根拠はありませんが、けっこう埋もれた歴史を、この島は語ってくれるのでした。