門司駅前の凱旋門
日露戦争の凱旋の拠点となった福岡県門司市(現在は北九州市)では、どのように帰還兵を迎えたのか。『門司郷土叢書 第11冊』に詳細が書かれているので、簡単にまとめておきます。
門司市では、5922円の軍隊歓迎費を計上、市の職員と地区の代表者など58名による歓迎委員会を組織しました。
まず門司駅前に巨大な凱旋門と休憩所を作り、鎮西橋の西側に壮大な仮灯台と大鳥居を建設しました。会社や商店はそれぞれ装飾し、道路は「花の天井」「国旗のトンネル」となりました。
帰還兵を歓迎する場所は門司駅前です。各町から毎回3名以上の代表者が駆けつけ、それぞれが手に歓迎旗を持ち、凱旋門を通過する兵士に向かって万歳三唱をおこないました。
門司駅から鉄道で各地に帰還する兵士に向かっては、プラットフォームで見送りし、花火を次々と打ち上げて景気づけ。船で本土や四国に帰還する兵士は、海岸沿いにある和布刈神社を中心に万国旗を大規模に飾って見送りました。この海峡の幅は500数十メートルしかなく、対岸の山口県下関市の装飾と相まって、「一大壮観」だったと記録されています。
将官クラスの帰還にあたっては、「汽艇歓迎会」なるものを設け、満艦飾にした小さい船数十隻を巌流島付近に浮かべ、花火数百発を上げて歓迎しました。海峡の両岸に人が大挙して並び、手に持った造花や小旗を振り、海と陸でいっせいに万歳が連呼されました。
こうしたイベントは明治38年10月に始まり、同39年4月に、ひとまず終了となりました。
凱旋門とは関係ありませんが、日露戦争の英雄となった東郷平八郎は、明治39年、門司市に立ち寄って、「奮励」と「一致」という書を残しました。「奮励」は、日本海海戦で掲げたZ旗(「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」)の言葉です。
「一致」は、「挙国一致」または当時門司にあった議員会「一致会」から取ったのではないかと考えられています(『それからの門司の歴史ものがたり』による)。
なお、「奮励」は門司小学校、「一致」は門司区役所に額となって残されているそうです。
以下、地方の凱旋門の写真をあげておきます。
弘前
盛岡
静岡
名古屋広小路本町
佐賀と長崎の合同凱旋門(設置場所不明)