「飛行場」のはじまり
あるいは「電探」の誕生

シンガポールの空港を攻撃する日本軍機(藤田嗣治)
シンガポールの空港を攻撃する日本軍機(藤田嗣治)


 1916年(大正5年)、アメリカの曲技飛行士アート・スミスが日本にやってきました。
 スミスは、4月8日(土)の午後2時と4時、東京・青山練兵場で2回飛行したのですが、ものめずらしい飛行機の宙返りを見るため、当日、午前8時には観客が山のようになっていたといいます。

 当時の様子をスミスは日記にこう記しています。

《埃(ほこり)といえば、余は青山ほど恐ろしい埃のたつところを見たことはない。聞くところによれば1年前まではここは一面美しき草の野原であったそうだが、5000円余を投じてその草を抜き去ったとのことだ。余は何故に美しき青草を引き抜いて埃立つ裸の野原としたかを了解するに苦しんだ。(中略)
(4月10日は)埃の中を大骨折りで歩いて機械に近づいてみると、埃が発動機の上に山の如く積もっている。この埃を揮発油で洗い去らなければ発動(スタート)ができぬ。しかし、いかにして発動機を洗うかが問題である。洗い清めた瞬間、またもや埃が積もる始末である》(『日記から』)


 空港をほとんど作ったことのない日本人にとって、草は邪魔ものでしかなく、すべて抜き去った結果、青山飛行場はホコリまみれのひどい場所となったのです。

アート・スミスの曲技飛行
アート・スミスの曲技飛行


 この青山飛行場は、1914年、国民に飛行機の知識を与え、航空技術を進歩させるため、陸軍によって旧青山練兵場に設置されたものです。
 一方、海軍も、同年、芝浦に一般人が見学できる飛行場を作っています。ともに、東京大正博覧会向けにお披露目されたもの。しかし、間の悪いことに、博覧会の期間中に飛行機が墜落してしまいました。まだ飛行機の安全性は確保されていなかったのです。

東京大正博覧会で墜落した飛行機
東京大正博覧会で墜落した飛行機


 それにしても、陸軍と海軍が同調して、国民に飛行機知識を植え付けようとしたのはなぜか。
 実は、この前年の1913年3月28日、青山練兵場で開催された軍のデモンストレーションで、日本初の墜落事故死が起きていたのです。飛行機の恐怖が国民に伝わる前に、啓蒙活動をはじめようと考えたのかもしれません。 

 わが国で最初に動力飛行機が飛んだのは、1910年(明治43年)12月14日のことです。場所は現在NHKや代々木公園がある代々木練兵場。まだ簡易滑走路しかありません。
 その翌年1911年の2月、日本初の飛行場が埼玉県の所沢に完成しました。

 なぜこの場所になったのか。所沢と決めた東大の田中舘愛橘博士が後にこう回顧しています。

《飛行場を探してるなんていうと、地主なんかが値を上げたり、いろんな運動したりするといかんから、極秘でやろうというんで、徳永(熊雄)少佐が言いつかって探すことになった。場所はなるべく宇都宮方面がよかろう。それに人家からあまり遠くないところ。病人でも出た場合に医者がいないようなところでも困るし、水もいいのが出なきゃ困る。いろんな場所を調べて報告を持ってくる。それから会議を開いたところが、所沢がもっともよかろう、一度行ってみようというんでね、長岡(外史)さんと井上仁郎と私と3人で所沢に出かけた》(『航空朝日』1940年11月号)

 こうして、本来は気球研究のため、総面積23万坪の土地を8万円で買い入れたのです。

所沢空撮
右上がすべて所沢飛行場(1929年)


 所沢飛行場の設備について、朝日新聞が報じています。

《この広漠たる飛行場の地均しは、既に3万円を費して去月中出来上がり、間口20間、奥行き9間半の飛行機格納庫も既に出来上がって、目下気象観測所(3階建て約100坪)の建造中である。気球格納庫は総計24万円を費し、飛行機格納庫と反対の方面へ、来年度に跨(またが)って建築さるるはずであるが、瓦斯(ガス)発生所及び機関庫は、本年中に建築される事になって居る。
 しかして飛行機のスタート、気象観測所の前から気球格納庫の前まで、一直線にコークスで堅めて造られるはずである。
 なおこの外修理工場、廠舎、その他の附属建物は、本年度から来年度の終わりまでに建造される予定で、本年度の予算の中にも、これらの設備に要する費目だけで過半を占めて居る》(「朝日新聞」1911年2月24日)


 基本は舗装でしたが、滑走路は砂地のまま。車輪が動かないのが問題となりますが、「そのうち芝生になって問題なくなる」という意見も書かれていました。

所沢飛行場
所沢飛行場(1929年)


 前出の田中舘愛橘は、その後、ロシアやドイツなど外国の飛行場の視察に出かけます。なにぶん初めてのことで、飛行場に必要な設備を誰も知らなかったのです。
 実際、所沢では「格納庫を飛行場の真ん中に置けば、どの方向から風が吹いても問題ない」という意見が出たほど。田中舘らは、あわてて「格納庫は山の下に作れ」などと電報を送っています。 

 では、現実問題として、飛行場にはどんな設備が必要なのか。羽田空港の例で見てみましょう。
 羽田空港は、1917年にできた飛行訓練校「日本飛行大学校」が始まり。1931年8月、面積53haの土地に長さ300m、幅15mの滑走路1本で開港しました。当時の名前は東京飛行場です。

羽田空港
右上に「トウキヤウ」と書かれた東京飛行場(=羽田空港、1932年)


 上が開港直後の空撮写真。滑走路が舗装されておらず、地面が露出しています。この段階では、飛行機が滑走をはじめる場所だけコンクリートでいいとされていました。しかし、まもなく滑走路は完全舗装となりました。それが下の写真。

羽田空港
東京飛行場(1937年)

 
 空港内には、飛行場の名称と「北」の方向が明示されていました。
 当時の飛行機は向かい風でなくては飛べず、そのため、常に風向標示器でパイロットに風向きを教える必要がありました。

 飛行機には羅針盤がついていますが、それがちゃんと北を指すとは限りません。そのため、「羅針盤修正台」が設置され、この上に飛行機を移動し、正確に修正する必要がありました。
 
羅針盤修正台
羅針盤修正台(羽田空港)


 さらに、当時の飛行機はパワーが小さいため、積載量に大きな縛りがありました。そのため、飛行前に「飛行機計量台」に乗るのが必須でした。

飛行機計量台
13トンまで測量できた羽田空港の「飛行機計量台」


 夜間飛行に備え、滑走路を照らすサーチライトも完備されました。空港内外にある高い建物や高塔には、赤色の危険信号ランプが取り付けられます。もちろん、空港内の標識や風向標示器には電気照明。飛行機の発着を知らせるサイレン、天候の変化を知らせる「天候告知板」などが準備されました。

 日本の航空輸送は、1919年、東京—大阪間の郵便飛行が始まりです。
 夜間航空のために、「航空灯台」の設置もスタートしました。航空灯台には「航空路標識灯」「方向表示灯」「障害灯」「標示灯」の4つが必ずつきました。大型のものは300万ルクス、アーク灯とネオン灯を併用したもので、晴天の日は100キロ先まで光が届きました。

航空灯台
航空灯台(羽田空港、1937年)


 さらに重要なのが、無線電信局の設置です。
 東京—大連間でいえば、この間に東京、大阪、京城(ソウル)、大連の4大無線局があり、さらに箱根、亀山、福岡、厳原(対馬)、富江(福江島)、蔚山(朝鮮半島)の6つの航空専用無線局がありました(1932年の段階)。
 
 飛行機にはラジオビーコンが設置されています。これは無線局から出る特殊電波(一定の角度を保った2方向への電波)を受け、方向を知ることができる装置です。これさえあれば、地面を見なくても、正しい方向に飛べました。
 
 飛行場が誕生し、すぐに問題となったのは、空襲への対策、つまり防空でした。
 飛行機は相手への攻撃にはとても有効ですが、逆に、敵からの攻撃で滑走路が破壊されれば、まったく役に立たなくなります。飛行場は、敵襲にはきわめて脆弱だったのです。

聴音機
ラッパ型聴音機

聴音機
蜂の巣型聴音機


 そこで、飛行機の探知技術として登場したのが、聴音機です。これは敵飛行機の爆音を探知して、方向を判断するものです。
 敵の方向がわかれば、夜間であれば照空灯で闇夜を照らし、高射砲で迎撃することができました。
 しかし、飛行機の速度が音速を超えると、まったく意味をなさなくなりました。

照明灯
開放型照明灯


 1935年、無線通信の研究家だったイギリスのワトソン=ワット(蒸気機関を発明したワットの子孫)は、テレビの実験中、映像がたびたび二重にずれることに気づきました。
 調査の結果、近くで飛行機が飛んでいるときに限って像が乱れることがわかりました。これは、直接来る電波と飛行機に反射してくる電波が交じるため起きた現象です。

 1万分の1秒程度のごく短時間だけ電波を発射し、その電波の反射を測定することを繰り返せば、飛行機を探知することができる。こうして、世界初の防空レーダーが誕生しました。
 その後、イギリスの海岸にはレーダーがずらりと並び、1941年の段階で、ドイツの飛行場を飛び立つ航空機を1台残らず探知していたといわれます。

管制塔のモニター
管制塔のモニター(『航空朝日』1942年11月号)


 日本では、陸軍が1939年に最初の実用レーダーである「超短波警戒機甲」の開発に成功。その後、パルス波を使った「超短波警戒機乙」の開発に成功しました。

 海軍では、1941年春、技術大佐が視察先のドイツで初めてレーダーを見て、そこから技術開発が始まりました。開発は半年で完了しますが、真珠湾攻撃によってアメリカとの戦端が開かれたとき、日本海軍には対空見張り用レーダーがただ1基あるだけでした。

日本海軍のレーダー
日本海軍のレーダー初号機

 
 レーダーは日本語では「電波探知機」と訳され、略して「電探(でんたん)」として一般化していきます。

 当然ですが、この電波(レーダー)が、飛行場の基本設備として使われていきます。
 現代では、さまざまなレーダーが存在しています。

ASR/SSR用アンテナ
ASR/SSR用アンテナ


 例えば上の写真の右は、羽田空港にあるASR/SSR用アンテナ。
 ASRは、空港から150km以内の航空機の位置を探知し、機の誘導や間隔調整に使われます。
 SSRは、各機固有の応答信号を受信し、地上のモニター画面に航空機の識別表示をおこないます。
 左は、VHF/UHF帯無線電話のアンテナで、空港の管制官と航空機のパイロットを直接結ぶ通信手段となります。

VOR/DME
中央のアンテナがDME、周りを囲むのはVOR
(宇部山口空港)
 

 上の写真は宇部山口空港のVOR/DME。
 VORは、標識局から航空機までの方向を知ることができます。
 DMEは、航空機との距離を測定する装置。

 着陸する飛行機に対しては、ILS(計器着陸装置)が活躍します。
 ILSとは、指向性のある電波で滑走路への進入コースを指示する無線着陸支援装置で、左右のずれを示すローカライザー、上下のずれ(進入角)を示すグライドパス(グライドスロープ)、距離を示すT-DMEで構成されています。

ローカライザー
ローカライザー(女満別空港)

グライドパスとT-DME
グライドパスとT-DME(宇部山口空港)


 羽田や成田など大規模な空港にはASDEという空港面探知レーダーもあり、夜間や目視が困難な場合でも、地上の航空機が画面に映し出されます。

ASDE
ASDE(羽田空港、右上の白い球型)


 そのほか、飛行場には、滑走路を目視できる距離を測る気象観測用のRVR、夜間進入用の進入灯などがあります。こうしたさまざまな空港保安施設が活躍してるわけですな。

羽田空港の進入灯
進入灯(羽田空港、下方のオレンジ)


 ついでながら、飛行場に記されたナンバーについても書いておきます。

 上の写真は羽田空港B滑走路ですが、入口に22の数字が書かれています。この反対側は04。
 これは滑走路がどちらの方角に向かっているかを示したもので、真北に延びていれば360の上2桁をとって「36」。その反対側は真南なので180の上2桁から「18」と書いてあります。

 空港内の表示は、指示サイン(許可のない立ち入り禁止)は赤地に白、位置サイン(現在位置する誘導路)は黒地に黄色、方向サイン(誘導路の交差地点で名称と方向を表示)は黄色地に黒の文字で書かれています。

空港の番号サイン
指示サイン、位置サイン、方向サイン(千歳空港)


 停止線は、滑走路の手前に赤字に白で描かれています。

広島空港の消防
28-10の滑走路の停止線(左下)と消防施設(広島空港)


 さて羽田空港ですが。
 1931年、東京飛行場が立川から移転し、1939年、羽田の滑走路は拡張(800m×80m、800m×80m)されました。1945年、米軍がさらに羽田の拡張工事をおこない、1952年、米軍から返還され、「東京国際空港」となりました。
 予算難で誘導路やエプロン(駐機場)しか舗装できない時代が続きましたが、1955年、ターミナルが供用開始され、国際飛行場としての地位がかたまっていくのです。

羽田空港のターミナル
オープン直後の羽田の空港ターミナル(『科学朝日』1955年7月号)


制作:2015年12月28日


<おまけ>

 ジェット機が誕生する前は、燃料を大量に積めなかったため、長距離飛行用の「海上空港」構想もありました。下のその予想図。

海上空港

<おまけ2>

 北海道の女満別空港は、もともと冷害をもたらす流氷を空から観測するため設置されました。その後、日食観測で活躍します。
 戦時中は、空襲から飛行機を守る掩体壕(えんたいごう)や防空壕が設置されました。戦時においては、これがもっとも重要な空港設備かもしれませんね。 

女満別空港の掩体壕跡
女満別空港の掩体壕跡

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