消された大地震
〜写真で見る日本の大震災〜


フランスの雑誌が伝えた関東大震災


 真珠湾攻撃からちょうど3年経った1944年12月8日、新聞を見たアメリカ人は「ざまみろジャップ」と大喜びしたといわれています。どうしてかというと、日本で起きた大地震が大きく報道されていたからです。
 これは12月7日午後1時36分、三重県志摩半島南南東沖約20kmを震源として発生した「東南海地震」を指しています。マグニチュードは7.9、愛知、三重、静岡を中心に1223人が命を落としました。

「ワシントン・ポスト」は「観測史上最大規模の大地震」と書き、「ニューヨーク・タイムズ」は「大阪から名古屋にわたる軍需工業地帯に大損害」と大々的に書いた一方、日本ではこの地震はほとんど報じられませんでした。
 理由は戦時下なので、人心が動揺しないように、銃後の士気を低めないように、また外国に知られぬように……ということです。
 そもそも12月8日は「大詔奉戴日」(たいしょうほうたいび)で、戦意を高揚させる記念日でした。そんな日に震災の記事を書くことはありえず、地元の「中部日本新聞」でも写真なしのわずか2段のベタ記事でした。

 この地震の記録はその後の混乱でほとんど散逸しており、近年まで詳細は不明でした。
 しかしながら、本サイトでは、当時の中央気象台の内部資料を入手、そのマル秘文書にはこう書かれています。


当初は「遠州灘地震」と呼ばれていました。
冒頭に「人心を不安にさせないように」との注意書き


《渥美半島、知多半島、志摩半島等にも定めし相当の地変はあったことと思われる。……遠州灘に面しては地震後約20分たって波打際から15mくらい寄せ引きする津波があった。然して浪害の最も甚だしかったのは志摩半島南岸と思われるが、この方面では波高8mないし10mに及び、全滅に近い村落も見受けられた。》(12月15日)
 
 全滅に近いというのは尾鷲市などですが、問題は地震から1週間たっても被害状況がはっきりしないことでした。県知事の指示で尾鷲に調査に出かけた人間が憲兵に拉致されるなど、完全に軍事機密として隠蔽されていたからです。
 また、アメリカで報じられたとおり、三菱重工、安立電気、中島飛行機などの工場が壊滅的な打撃を受けました。

 震災の被害に追い打ちをかけるように、12月13日からB-29爆撃機による名古屋への空襲が本格化しました。市内に三菱重工の大工場があり、ここを標的に何度も空襲がありました。

 そして人々が恐怖の中で迎えた昭和20年。正月気分もまだ残っていた1月13日午前3時38分、愛知県で直下型の「三河地震」が発生しました。マグニチュード6.8、死者2306人という大地震。
 しかしながら、こちらも新聞ではほとんど報じられませんでした。地元の「中部日本新聞」では写真なしの記事になったものの、見出しは「再度の震災も何ぞ 試煉に固む特攻魂」でした。


三河地震の有感地震報告

 防衛省に保存されている「大本営機密戦争日誌」には、戦争と地震で航空機製造が激減した様子が記録されています。
《1月中の飛行機生産実績(陸軍)は877機(9月策定せる1月の予定は2260)、納入809機なり。空爆及地震の影響は否定し得ざる原因と雖(いえど)も、予定の3分の1程度の生産を以(もっ)てしては航空必勝の目途なし》(『恐怖のM8』)

 8月15日、終戦。
 人々は安堵したものの、翌年の暮れの12月21日、マグニチュード8.0の「南海地震」が東海〜四国を襲います。犠牲者は1443人。
 空襲と地震……東海地方の終戦時期は、まさに地獄の日々だったのです。


1946年の南海地震


 さて、これら終戦直前の震災画像を掲載しようと思いましたが、前述の通り、当時の新聞には写真が載っていません。その後、中日新聞などの調査で写真はいろいろ発見されていますが、著作権もあり掲載できないので、以下、近代日本を襲った大地震を写真で振り返ります。



安政2年(1855)、安政の大地震


明治24年(1891)、濃尾地震(左が名古屋城、右が尾張紡績)


明治34年(1901)、青森県東方沖地震


明治37年(1904)、日本領だった台湾嘉義地震


明治42年(1909)滋賀〜岐阜県の姉川地震(江濃地震)


大正12年(1923)関東大震災(品川〜上野の人力バス)


大正12年(1923)関東大震災(上野動物園パニック)


大正14年(1925)、北但馬地震


制作:2010年1月17日