栄養学の誕生

食糧展覧会の展示
食糧展覧会」のビタミンの展示(1929年)


 江戸時代中期の名医・香月牛山が出版した『牛山活套』(安永8年=1779年)に、「江戸煩(えどわずらい)」という謎の奇病について書かれています。

《今時仕官の人、或商人も、東武に至りて鬱気し、足膝痿軟(いなん)にして、面目虚浮し、飲食進まざるものを、俗に江戸煩といふ。是皆水土に服せざるの類也。故郷に帰るとて、箱根山を越ゆれば、多くは其症治せずして自ら平服す》
 
 倦怠感や食欲不振から始まり、次第にしびれや麻痺が起こり、最後は寝たきりとなる病気です。
 江戸でしか流行しなかったため「江戸煩」と呼ばれました。不思議なことに、江戸を出て箱根山を越えると、病気は自然に治癒したというのです。

 この病気は、長らく奇病とされましたが、後に「脚気(かっけ)」と命名されます。

幕末から明治の医者
幕末は、自称すれば医者(薬師)になれた


 脚気は、1700年頃(元禄・享保の頃)、初めて江戸で患者が出たとされています。その後、長く江戸だけで流行しましたが、1800年頃(寛政の末)から、京都でも確認されるようになりました。
 そして、1850年頃(嘉永年間)から、五畿七道、つまり日本中の大街道沿いで頻繁に患者が出るようになったのです(『日本医学史綱要』による)。

 明治になると、脚気による死者は年間2万人にも達し、大きな社会問題になってきました。

 特に問題となったのは軍隊で、明治のはじめ、陸・海軍の病死の最大の原因が脚気でした。政府は1877年(明治10年)から、脚気の原因究明に注力します。
 しかし、1882年(明治15年)には海軍の脚気罹病者が1000人あたり400人に達するなど、事態は悪化する一方でした。

 脚気の原因には諸説ありました。
 陸軍は、軍医・森林太郎が中心となって細菌感染説をとっていました。森林太郎は、細菌学の権威・コッホに面会するなど、東京帝国大学で近代西洋医学を学んだ陸軍軍医の1期生です(後に作家の森鴎外として文学史に名を残します)。脚気が夏に多く、冬に少ないことから、季節性の伝染病と考えたのです。

白米病の鳩
白米だけを食べ、脚気のような症状(鳥類白米病)になった鳩


 一方、海軍では、パンを食べる士官に患者が少なく、米を主食とする下級兵に患者が多かったことから、軍医の高木兼寛(たかきかねひろ)が食事原因説をとっていました。
 海軍は、1882〜84年(明治15〜17年)にかけて、遠洋航海中の軍艦でパンと米による食事の比較試験を行い、パン食では脚気患者が出ないことを突き止めます。

 こうして、脚気は白米摂取との関係が深いことがわかってきます。
 しかし、1885年(明治18年)には、緒方正規(おがたまさのり)が脚気の原因となる細菌「バチルレン」を発見したと公表し、原因の特定は進みません(『衛生通報』第16号)。

東京慈恵医院への行啓を迎える高木兼寛
東京慈恵医院への行啓を迎える高木兼寛
(後ろ向きで会釈している黒服)


 いったい脚気の原因は何だったのか。
 1910年(明治43年)、鈴木梅太郎は米ぬかから「オリザニン」を抽出、これが脚気の決定的な薬となりました。オリザニンは後にビタミンと命名され、ビタミンB1の欠乏によって脚気になることが確定したのです。

オリザニンの製造工場
オリザニン(ビタミンB1)の製造工場


 江戸時代中期まで、日本人はみな玄米を食べていました。
 しかし、玄米は外皮が厚いため、消化はきわめて悪く、江戸時代後期になるにつれ、白米が流行。これが脚気の原因となっていたのです。

 明治政府は、脚気の研究のため、お雇い外国人として、何人もの医者を招聘していました、そのうちの一人が、1871年(明治4年)に来日したホフマンで、このホフマンが日本に「栄養」という概念をもたらしました。
 しかし、当時は学問と呼べるレベルではありませんでした。

ビタミンB1欠乏のネズミ
通常のネズミと、ビタミンB1を与えないで育てたネズミ(右)


 栄養学を創始したのは、北里柴三郎に師事し、アメリカのエール大で博士号をとった佐伯矩(さえきただす)です。
 佐伯は、1914年(大正3年)、個人で栄養研究所を創設、1920年には、内務省に栄養研究所が設けられ、所長となりました。
 なお、「栄養」はもともと親孝行の意味で、「体の滋養」という意味では、長らく「営養」と表記されてきました。これを佐伯が「栄養」と表記するようになり、一般的に使われるようになりました。

 佐伯は、たびたび講演し、栄養について解説しています。

《吾々(われわれ)の身体の中には何か知らんいろいろの成分のものがあって、吾々の働くことに因(よ)ってその成分のものが使い果されて了(しま)うからひもじくなる、疲れる。而(そ)してそのときに飲食を摂(と)ると精神並(ならび)に肉体が恢復(かいふく)するということは、その欠乏したところのものを補って行くからである》(『栄養料理講習録』、1922年)

 さて、脚気が解決した後の栄養学では、玄米と白米の優位性についての議論が主でした。
 単純に言えば、玄米は栄養があるが消化に悪い、白米は低栄養だが消化にいい。ではどこまで精米すべきか、という議論です。

 栄養研究所の調査では、消化吸収率について以下のような調査が出ています。
 
 白米   97.4%
 七分搗き 95.1%
 半搗き米 93.7%
 玄米   88.2%

 つまり、玄米では、1割以上もの栄養素が吸収されません。
 こうした流れの中で、玄米から一番栄養のある芽が出る部分(胚芽)だけを残して精米した「胚芽米」なども登場してくるのです。

白米と胚芽米の断面図
白米(左)と胚芽米の断面図
(「食糧展覧会」の展示)


 佐伯は、七分搗き米を推薦していました。
 一方、胚芽米を勧め、普及に尽力したのは「糧友会」や香川綾です。
 玄米を勧めたのは、陸軍の軍人だった石塚左玄が創設した「食養会」でした。
 
 佐伯が1924年、私費を投じて作った栄養学校は、現在の佐伯栄養学校になりました。ここで学んだ生徒が、初めて「栄養士」と呼ばれるようになったのです。
 糧友会は、1925年、農林省、内務省、陸・海軍省などの支援の下に創設され、現在は食糧学院となり、専門学校を経営しています。
 香川綾は、1933年、自宅に家庭食養研究会を創設、これが現在の女子栄養大です。
 このように米から栄養研究が始まり、研究が進む過程で、1934年(昭和9年)、日本医学会の分科会として栄養学会が正式に独立するのです。

戦争未亡人に勧められた栄養士の資格
戦争未亡人には栄養士の資格が勧められた(1943年)


 さて、このなかで独自の境地を進むのが、1907年(明治40年)に設立された食養会です。
 創設者の石塚左玄は「玄米菜食」を勧めるのですが、その根底にある理論は「夫婦アルカリ論」というものでした。
 世の食材をナトリウムの多いものから順番に並べると、ナトリウムが少なくなるほどカリウムが増える。ナトリウムは漢方で陽性とされ、カリウムは陰性とされることから、この2つを「夫婦」に見立てたのです。
 すごいのが、この陽と陰の量によって、人間も皮膚の色から性質まで分かれるとした点です。

石塚左玄『通俗食物養生法』
南方はナトリウムが多いため、肌の色が黒くなると主張
(石塚左玄『通俗食物養生法』より)

石塚左玄『通俗食物養生法』
カリウムが多いと主観的になり、ナトリウムが多いと客観的になる


 1937年(昭和12年)、桜沢如一が食養会の会長となると、多数の華族などの信頼も得て、大きな勢力となります。
 桜沢は、ナトリウムとカリウムだけでなく、すべての元素を陰と陽に分けることで、宇宙すべてを体系的に説明する壮大な理論を発展させます。

 しかし、食に関してはシンプルで、「正しい食物」として以下のものをあげています。

 ①近いところにできる食べ物ほどよい(芋しかできないところなら芋だけでいい)
 ②季節のものがよい(冷蔵庫や缶詰はいけないが、自然に貯蔵できるものは構わない)
 ③昔からある食べ物ほどよい(トマト、ジャガイモなど最近輸入され始めたものはダメである)
 ④できるだけ人間に似ていない形状がよい(動物、特に家畜は絶対に避け、植物を食べる)
 ⑤できるだけ自然に近いものがよい(最善は野草、山菜、海草など。それが無理なら、なるべく肥料を使わないもの、加工していないもの。メリケン粉やパンなど工業製品は避ける)

 
 こうして、牛、豚、牛乳、砂糖、コーヒー、パン、お菓子、果物など、玄米と地場野菜以外のほとんどの食べ物が「禁止」されたのです(『戦争に勝 つ食物』、1940年)。

 玄米菜食を基本とし、動物性食品をいっさいとらない厳格な食事療法を広めるため、桜沢は1960年代に渡米し、弟子の久司道夫とともに「ゼン・マクロビオティック」として普及活動をおこないました。

 折からの東洋ブームで、ヒッピーから広まったマクロビオティックはアメリカで大ブレーク、いまではガンに効く食事療法として、大きな地位を占めています。アップルのスティーブ・ジョブズも、ガンの治療をマクロビオティックにかけています。

《ビートルズのジョン・レノン、オノ・ヨーコ夫妻も採り入れ、近年ではマドンナさんやトム・クルーズさんらも採用して話題となりました。全米で実践者は約300万人。ガンの代替療法として最も有名な食事プログラムとなっています。
 桜沢は73歳で老衰により死亡しましたが、弟子の久司は「ナチュラルフーズ」の名づけ親だったにもかかわらず、自らは酒、タバコ、コーヒー、ステーキが大好きで、最後は末期の結腸ガンを発症しました。奥さんと娘さんもガンで亡くしています。ちなみにアメリカでは、親と一緒にマクロビオティックを実践した子供たちが栄養失調で亡くなるという悲劇も起きています》(『近藤誠のリビングノート』による)


 脚気から始まった日本の栄養学が、ついにあやしいガン治療という形で、アメリカを席巻するのでした。


制作:2015年5月18日


<おまけ>
 脚気の原因が食べ物あると見抜いた高木兼寛は、1881年(明治14年)、研究中心のドイツ医学ではなく、臨床中心のイギリス医学を持ち込むため、「成医会講習所」を設立します。これが、現在の東京慈恵会医大です。
 日本初の病院は、戦国時代の1557年、宣教師アルメイダが作ったものです。これは例外として、江戸時代には小石川療養所くらいしか病院はありませんでした。
 現在の日本の有名医大は、多くが江戸から明治初期に始まっています。

 1838年(天保9年) 佐藤泰然が江戸に開いた「和田塾」→順天堂大学
 1838年(天保9年) 緒方洪庵が大阪に開いた「適塾」→大阪大学医学部
 1857年(安政4年) 幕府が長崎に開設した「医学伝習所」→長崎大学医学部
 1858年(安政5年) 江戸の蘭方医が共同設立した「神田お玉ヶ池種痘所」→東大医学部
 1867年(慶応3年) 福岡藩が天神に設立した「賛生館」→九州大学医学部
 1876年(明治9年) 長谷川泰が東京に設立した「済生学舎」→日本医科大学

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福沢諭吉も学んだ適塾

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