



どういうことかというと、国民党軍を華南から華北に輸送し、勢力を拡大しつつある共産党軍と対峙させる。同時に100万の日本人を満州から帰国させ、日本からは朝鮮人を帰国させるという一石三鳥の戦略。要は国共内戦でアメリカが国民政府を支援するために編み出された作戦でした。
そして、ソ連との折衝の末、共産党の影響が及ばない葫蘆島が選ばれたのでした。1946年5月14日、島からの引き揚げが始まります。
ところで以下余談ながら。
毎年12月には様々な外交文書が公開されるんですが、2000年に公開された資料で、朝鮮人送還の様子が明らかにされました。
当時、日本には200万人近くの朝鮮人がいて、1945年暮れから大がかりな帰還計画が始まりました。ところが、次第に朝鮮人の帰国希望者が減少していきます。GHQは送還の中止に傾きますが、日本政府はなんとかもっと送還したいと訴えます。
以下は、外交文書に記録されたGHQ帰還担当のハウエル大佐と厚生省関係者の会話です(1946年3月「朝鮮人送還問題に関する連合司令部との会談」、朝日新聞2000年12月20日付より転載)。
大佐「帰る気を起こさせる手段はないか」
日本「持参金の増額を認めては」
大佐「不可能だ」
日本「ならば強制送還を認めてくれるか」
大佐「それも不可能。この際、中止すべきだ」
日本「中止だけは思いとどまってほしい。朝鮮人を可能な限り多く送還することは、日本政府の最も希望するところだ」
結局、帰還は1946年末まで続けられたものの、希望者は増えずじまい。「朝鮮人帰還輸送終了の件」(1946年12月)によれば、帰還したのは98万人で、約60万人が日本残留を選んだそうです。
さて、話をコロ島に戻しましょう。赤塚不二夫によれば、
《葫蘆島の税関でみんな取り上げられるって言うんで、前の晩みんなでたき火をやった。そこで、写真とか時計、万年筆とか全部燃やした。やつらに取られるくらいなら燃やしちゃえって》
こうしてすべてを燃やした一家は帰国船に乗り込んだのでした。
帰国船ではしばしば病気が発生し、その場合、港を前にずっと上陸できないことも多かったのですが、幸い、赤塚一家はすぐ上陸できました。



