岩手県の被災地へ行く
震災から280日で、どこまで復旧した?

島越駅
駅も線路もホームも、そして民家もすべて消滅(島越駅)



 江戸時代、現在の福島、宮城、岩手、青森は陸奥国(むつのくに)という1つの国でした。ところが、戊辰戦争に敗北したことで5分割され、そのうち陸奥(りくおう)・陸中・陸前の3つを「三陸」と総称しました。これが三陸地方のいわれです。

 三陸海岸は総延長が600kmにものぼり、すべてリアス式海岸とひとくくりにされますが、宮古以北は陸地が隆起した海岸段丘で、断崖・岩礁が多くあります。一方、宮古以南は陸地の沈降によって形成された典型的なリアス式海岸となっています。
 リアス式海岸は、水深が深いため港や漁場に向いています。ですが、湾口に比べて奥が狭いため、いったん津波が襲うと波が通常よりも高くなり、大きな被害をもたらします。逆に、海岸段丘は切り立った崖なんで、土地の利用価値は低いものの、津波の被害は少なくてすみます。
 岩手の死者・行方不明者が宮城よりはるかに少ないのは、地質学上の理由もあったわけです。

 そんなわけで、リアス式海岸の松島(宮城県)に続き、岩手県の海岸段丘の被害を見に行ってみました。
 
 今回の出発地点は宮古で、ここから一部復旧した三陸鉄道に乗って北上します。
 最終目的地は、全国各地から毎年約50万人の観光客が訪れていた田野畑村の「北山崎」です。ここは全国観光資源評価の「自然資源・海岸の部」で国内唯一、最高ランクSA級に格付けされた景勝地で、高さ200mもの断崖が見られます。

北山崎
被害のなかった北山崎


 最初に、岩手県沿岸部の線路状況について簡単にまとめておきます。
 2011年12月末現在、南から北に向かって大船渡〜釜石〜宮古は運休中。動いているのは三陸鉄道北リアス線の宮古〜小本と陸中野田〜久慈のみです(2014年4月6日、全線復旧)。

<三陸鉄道北リアス線>

 宮古———田老—摂待—小本…島越…田野畑…普代……陸中野田—久慈
(—が運行、…が運休)


三陸鉄道
赤い線が復旧線路
 
 では、以下、順番に見に行ってみます。まずは宮古港から、唯一被害を免れた遊覧船に乗りに行きます。

宮古港
港に向かう道ではガソリンスタンドが崩壊状態で残存

宮古港 宮古
市内にある洪水位標と、浜辺にあるチリ地震津波記念碑


宮古
いちばん左にある家は、母屋が水没して取り壊ししたそうです


 宮古駅に戻って、三陸鉄道に乗って北上します。信号は手旗信号で代用中。

宮古駅
宮古駅をスタート


 さて、きわめて被害の大きかった田老地区に到着します。街の中心部はほぼ壊滅状態でした。

田老地区
三陸鉄道から田老地区を望む


 ここは明治(1896年)、昭和(1933年)と続けて大津波による被害を受け、1934年からスーパー堤防の建設を始めました。全体が完成したのは1978年頃で、高さ10m、長さ2433mにものぼります。「万里の長城」とも呼ばれる長大な防潮堤はX字型の二重構造になっていて、1960年のチリ地震では被害を最小限に抑えてくれました。ですが、東日本大震災では無力でした。

三陸の被災地
海側防潮堤の内側で残ったのは鉄筋コンクリートのホテルのみ

 なお、この町は津波でも逃げやすいように、道路に角のないまちづくりも実施していました。昭和三陸津波70周年を記念し、2003年に「津波防災の町」宣言をするなど、防災意識の高さでは有名でした。

田老地区
田老地区の道路は角がない


 田老の隣の摂待は、三陸では珍しい水田が多い町です。写真を見ればわかるとおり、山に囲まれています。 
 三陸鉄道というと、ずっと沿岸部を走る印象がありますが、実はかなり山間部を通っています。そのため、このあたりも比較的被害は少なかったようです。
 とはいえ、3分の2の水田が海水をかぶり、田植え前の4月に除塩の実証実験が行われました。消石灰と真水を注入して湛水と排水を繰り返す地道な作業です。

摂待
摂待の田んぼ。道路の向こうが海

 
 現在復旧している最終ポイントは小本で、宮古からは電車で40分くらいの場所。駅名表示がない不思議な駅舎には、現在、岩泉町役場の機能が移っています。
 1953年から小本川の河口で防波堤の工事が行われ、全長221m、幅30m、高さ12mという日本有数の巨大堤がありました。ちなみに土木学会・水工学委員会の調査では、小本川では河口から約5.5kmまで津波が上ったことが確認されています。

小本川水門
1つの水門ゲートが7600トンの荷重に耐えられる小本川水門


 小本の隣の島越(しまのこし)は、14.3mの津波が襲い、集落がほぼ全滅しました。
 ここは南欧風の独特な駅舎が有名で、北山崎への観光船が出る港でした。観光客も多かったのですが、駅前の宮沢賢治の碑のみを残し、駅も高架橋もすべて流されました。集落も高台の1戸(2軒)のみ残してすべて流出という惨状です。
 碑の陸側だけ破壊されているのは、潮が引くときにガレキを一緒に運んだためです。
 復興策として、「津波メモリアルパーク」化する案が提示されています。

島越駅
宮沢賢治の童話から取られた「カルボナード」という愛称があった島越駅

東北の被災地
北山崎ビジターセンターに展示された被害写真

東北の被災地
集落ではこの家のみ残された

宮沢賢治の碑
宮沢賢治の碑は海側はきれいなまま


 島越の隣の田野畑は駅舎は残っていますが、海岸部は被害がありました。
 周辺でもっとも大きい10階建てのホテル羅賀荘は4階近くまで浸水し、60〜70名の従業員が全員解雇されました。

田野畑 田野畑
ホテル羅賀荘。右は津波の写真。村内の観光施設被害は約15億円

 現在、地元のNPO法人が津波の体験を話す観光プログラムを実施しており、さっそく話を聞いてみました。
「この場所は何度も津波の被害を受けており、かつては高台に家を建てていました。でも道路が整備されたことで、各戸ともつい便利な道沿いに家を建て始めたんです。今回は明治の津波より高い位置まで波が来たため、大きな被害が出ました」
 とのことです。建物被害は全壊99戸。ほとんどの家が漁業で生活していましたが、残った家と流された家の対立も大きいようです。
「でも残った家も漁具は流されているから、生活できるわけではないんだけどね……」

被災地
歩道が消滅。この道路ができて、民家が高台から下りてきた


 さて、もう少し北上すると、北山崎です。ここは200mの断崖の地なので、まったく被害がありませんでした。
 ビジターセンターで話を聞くと、以前はゴールデンウィークや夏休みはかなり観光客がいたものの、震災後はほとんど誰も来ないそうです。

 ちなみに、さらに北の普代は、白い砂浜が600mも続き、松とハマナスに彩られた美しい海水浴場でしたが、なんと100mも砂浜が後退してしまったそうです。

東北の被災地
かつては美しい海岸だったが……近くにはまだ瓦礫の山


 岩手県の調査によれば、防潮堤、水門、松林、国道の盛土構造などは被害軽減にかなり役立ったとされています。
 ただ、こうした防災整備の達成率は2010年度末で73%しかなく、県内の整備済み防潮堤25㎞のうち2割(5km)が全壊したそうです。猛威をふるった自然を前にすると、人間の力って本当に弱いんですね。


制作:2011年12月29日


<おまけ>
 三陸鉄道は、さらに北上して陸中野田から久慈までも開通しています。かつて久慈周辺を歩いた司馬遼太郎は、
《久慈街道という、沿道に飢餓の口碑が無数にある古街道をゆくにあたって、コメに執着し、稲作を中心に文化意識をつくりあげ、ついには稲作をめぐって階級身分までつくりあげた日本人のこのふしぎさをついおもわざるをえなかった》(『街道をゆく3』)
 と書いてます。漁業がさかんな三陸は、米作に固執したことで飢饉に苦しんだという話です。自然の猛威は、津波だけじゃなく、冷害もあったことは忘れちゃいけませんね。
 余談ながら、宮古にはラサ工業の巨大な煙突が立っています。これは田老鉱山から採掘した銅や亜鉛を精錬するために使ったもの。ラサ工業はラサ島(沖大東島)でリン鉱石を採掘し、肥料メーカーとして名を上げました。この化学肥料が、日本の農業を大きく前進させたのでした。
ラサ工業
宮古駅の奥に大煙突が
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