日本開国の瞬間!

横浜に上陸したペリーの一行
横浜に上陸したペリーの一行


 精神分析学者・岸田秀は、日本の開国を「ペリーによる強姦」と書いています。

《日本は一八五三年にペリーに強姦され、その屈辱感を抑圧したために、アメリカを崇拝する外的自己と、憎悪する内的自己とに分裂し、一種の精神分裂病者になった》(「二十世紀を精神分析する」)

 今日の日米関係を、これほど明晰に表現した文章はないですな。というわけで、日本降伏の瞬間に続き、今回は開国の瞬間をレポート。開国という“ムチ”に大して、アメリカははたしてどんな“アメ”を用意したのか? どうもやっぱり日本はアメリカの外交戦略に翻弄されている感じなのでした……。

ポウハタン号 ポウハタン号
ポウハタン号の写真(左)とイラスト(右)


 日本開国史の舞台は、第2回来航時の旗艦ポウハタン号を中心に見ていくとわかりやすいんですな。ちなみにポウハタン(Powhattan)とは「ポカホンタス」に出てくるネイティブアメリカンの酋長の名前で、現在はカンザス州の都市名になっています。

 ポウハタン号は全長75メートルで2415トン、乗員300人の木造軍艦です。マストは3本立ち、両舷に外輪がついていて、蒸気と風力の両方で航海できました。黒い船体に赤い横すじが入っているのが特徴です。
 このときポウハタン号のマストについていた星条旗(右のイラスト参照)が、90年後、敗戦調印式に飾られることになるのですが……とりあえず、まずは開国にいたる年表から。



●嘉永6年6月3日(=1853年7月8日、以下日付は旧暦のみ表記)
 4隻のペリー艦隊、浦賀に停泊(このときはポウハタン号は日本に来てはいません)

●嘉永 6年(1853)6月 9日 ペリー、久里浜に初上陸、大統領の国書を提出

 話題の『新しい歴史教科書』によれば、

《幕府が国書の受け取りを拒否できなかったのはなぜか。ペリーは、大統領の国書とは別に、白旗を2本、幕府に渡していた。それには手紙が添えられ、「開国要求を認めないならば武力に訴えるから防戦するがよい。戦争になれば必勝するのはアメリカだ。いよいよ降参というときにはこの白旗を押し立てよ。そうすれば和睦しよう」と書かれてあった。武力で脅して要求をのませるこういうやり方は、「砲艦外交」とよばれ、欧米列強がアジア諸国に対して用いてきた手法だった》

 まさに「強姦」というにふさわしい状況ですな。ただし、『ペリーの白旗』という本によれば、書簡の真偽は証明されていないようです。

●嘉永 6年(1853)6月12日 ペリー、沖縄に出航
●嘉永 7年(1854)1月16日 ポウハタン号を旗艦として再来航

ポウハタン号
こちらもポウハタン号
(「日米交流150周年」の展示より)

●安政元年(1854)2月10日 横浜に再上陸

 横浜上陸の様子を日本側はこう記録しています。

《本牧の方より三艘目、ポウハタンと申す蒸気船より祝砲十七発打ち終り、白きハッテーラ一艘おろし、青き旗、文字染めぬきたるを押たて、大将ペルリ、アーダム、ブカナンその他船将従卒のもの乗移り来り、左右に備えたる船の真中へ着く。その美々敷(びびしく)、厳重なる事、目を驚かさぬものなし。……ペルリの人体等、大将たるもの、さもありぬべき事ぞと一同感心せり》(「随聞積草」)

 ちなみに、上陸の瞬間、ポウハタン号のマストには日本の縞旗が飾られていました。この日から日米交渉が始まるんですが、さすがアメリカ、大統領からのプレゼントとして鉄道模型、電信機、ピストルなどが贈られ、これで日本側はすっかり感心してしまったといいます。

●安政元年(1854)2月29日 ポウハタン号上で日本側を招いてパーティ開催

ポウハタン号艦上の会食
艦上の会食

《色々の船から集まった多数の士官達に迎えられた日本人一行は、シャンペン酒、マディラ酒及びポンスをふんだんに供せられたために、すっかり賑やかになってしまった。彼等はこれ等の酒が大変好きなようだった。日本人達は、先に立ち上って健康を祝し乾杯して、それ等の酒を飲むことを決して控えめにしなかっ た。……日本人の食欲は猛烈で、皿を選んだり、食事の順序の見境をつける余裕などほとんどなく、魚、獣肉、鶏肉、スープとシロップ、果物とフリカッセー、蒸し肉と煮肉、塩漬物と砂糖漬物とをゴチャゴチャに詰め込んで、驚くべき不作法さを示した》(「ペリー日本遠征記」)

 食事が終わって、日本人一行が下船するとき、したたかに酔った日本人のひとりは、大きな声で何度もこう叫んだといいます。
「日本とアメリカは同じ心を持っている」
 もはや完全にアメリカ側にハメられてる感じです(苦笑)。参考までに、会食会の余興ではこんな黒人ダンスも(笑)

黒人ダンス
謎の黒人ダンス


●安政元年(1854)3月3日 日米和親条約調印
 下田と函館の開港が決定します

日米和親条約
条約書の冒頭一部分。ちなみに第一条は
「日本と合衆国とは其人民永世不朽の和親を取結ひ場所人柄の差別無之事」


●安政元年(1854)6月 4日 ペリー、下田・函館を調査後、帰国

下田に碇泊する黒船
下田に碇泊する黒船
(「日米交流150周年」の展示より)


●安政5年(1858) 6月19日 ハリス、ポウハタン号上で日米修好通商条約を調印

日米修好通商条約
条約書原本(関東大震災で消失)


●万延元年(1860)3月28日 ポウハタン号に乗って渡米した日本政府の使節が、アメリカ大統領に謁見!


更新:2004年9月10日

日本降伏の瞬間
※なお、ポウハタンの表記は「ポーハタン」「パウハタン」などいろいろですが、本サイトでは「ポウハタン」に統一します。

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