関門海峡「海との戦い」史
秀吉から武蔵まで海峡を彩った有名人たちの物語

関門海峡
関門海峡:海の下のトンネル


 長崎オランダ商館の医者だったシーボルトは、1826年、江戸に参府するとき、関門海峡の美しい風景を目にし、この海峡を「ファン・デル・カペレン海峡」と命名しています。

関門海峡
1826年の下関(シーボルト『NIPPON』より)


 旅行記『江戸参府紀行』によれば、シーボルトは関門海峡に入って、すぐ「与次兵衛」の碑を見ます。
 これは、朝鮮出兵のため、肥前名護屋城で指揮をとっていた豊臣秀吉が、急遽大阪に戻るとき、この場所で座礁して命を落とそうになったことに由来します。責任をとって、船頭の明石与次兵衛が切腹したのです。

《船は、与次兵衛瀬を右手にみて、藪の密生した低い舟島に寄港する。この航路は3尋以上の水深はない。そして舟島の近くはほとんど1尋たらずである。(中略)
 小さい舟島の側を通り過ぎると、視界がひらけ、豊前の海岸は長門の海岸や引島といわばひとつになって、素晴らしいパノラマを見せる》(『江戸参府紀行』)


 ここで書かれた舟島は、かつて宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島のことです。引島は、現在では彦島と呼ばれていて、関門海峡の西側の出口に当たります。シーボルトは、《引島のヒシディエ海岸は岩礁が多いから、航行はいっそう危険である》とも記録しています。


彦島
向かって左が本州、右が彦島。中央が三菱重工の造船所で、その奥に巌流島


 関門海峡は昔から海運が盛んでしたが、シーボルトの言うとおり、この海域は岩礁が多く、海流も強いため、海難事故が多発することで有名でした。
 この海峡が航行しにくい理由はそれだけではありません。ここは世界でも珍しい潮の流れを持っているのです。

関門海峡
1863年の下関(『アンベール幕末日本図絵』/プロジェクト・グーテンベルクより)


 珍しい潮の流れとはどういうことか。平家が滅んだ「壇ノ浦の戦い」(1185年)で、それを説明しましょう。

 シーボルトは、関門海峡を抜けるとき、東の端にある満珠島・干珠島を目印にしたと書いています。言い換えれば、関門海峡は、西の彦島から、東の満珠島・干珠島までの海峡と言えるのです。

 追い詰められた平家は、壇ノ浦の戦いで、彦島に最後の拠点を置きました。ここを落とされればあとはありません。
 一方、源氏は満珠島と干珠島に前線を置きました。

壇ノ浦
壇ノ浦(1924年頃)


 合戦当日の潮の流れは、戦いの一週間前に月蝕があって大潮になったことから、ある程度、正確に推測されています。黒板勝美の『義経伝』によると、干満の時刻は次のようになっていました。

 高潮   05:10(海面が最も高い)
 落潮   08:30(潮速ゼロ、潮流は西から東へ)
 低潮   11:10(海面が最も低い、潮速8ノット)
 漲潮   15:00(潮速ゼロ、潮流は東から西へ)
 高潮   17:10(海面が最も高い)
 最急潮流 17:45(潮流が最も速い)
 落潮   20:30(潮速ゼロ、潮流は西から東へ)
 低潮   23:10(海面が最も低い、潮速8ノット)


 関門海峡の潮の流れは、落潮のときは外洋から内洋(西から東)に、漲潮のときは内洋から外洋(東から西)に向けて流れます。潮の速度は、通常、高潮のときにゼロとなりますが、関門海峡では、高潮と潮速が一致しないのです。

 この潮時を見ると、東にいる源氏は午前中に開戦すると著しく不利になりますが、午後3時を過ぎると、平家側が不利になります。

壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦い。15時までは潮は西から東に流れるので、西の平家が有利
(国会図書館のサイトより、黒板勝美『義経伝』)


 では、いったい開戦は何時だったのか。『源平盛衰記』は卯の刻(午前6時)開戦としており、『吾妻鏡』は午の刻(12時ごろ)に終戦とあることから、開戦は午前中だったと思われます。しかし、九条兼実の日記『玉葉』には午の刻(12時ごろ)に始まり、申の刻(16時ごろ)に終わったと記されています。

『源平盛衰記』などには、最初、平家が優勢で、のち、源氏が押して勝利したとあるので、おそらく午後に始まって、15時以降、潮の流れに乗って源氏が勝ったというのが正しいようです。

 この見解には反論もありますが、とりあえず関門海峡の航行の難しさは伝わると思います。

壇ノ浦
門司から見た現在の壇ノ浦


 その後も、関門海峡は海軍の要衝となりました。
 鎌倉幕府は、元寇に備え、下関に長門警固番役を置きました。この場所は不明ですが、対中国という意味合いからして、海軍が彦島近辺にあったのは間違いないでしょう。
 
 足利尊氏は、下関で兵を集め、京都に攻め上り、室町幕府を作ります。
 室町時代には、大内義弘が一帯を制覇し、明や朝鮮と貿易をして大儲けしました。

 そして、幕末には、長州藩が攘夷を実行するため、この海峡に砲台を整備し、海峡封鎖を行いました。海峡を通過するアメリカ、フランス、イギリス、オランダ船を砲撃したことで、この4カ国と戦争になります。軍事力の劣る長州藩は敗北し、彦島を中心に合計70門設置された砲台はすべて奪われました。

下関戦争
下関戦争で占領された砲台


 講和会議はイギリス船上で行われ、幕府は300万ドルもの巨額の賠償金を支払う羽目になりました。そして、このとき、彦島の租借も要求されました。
 後に(1909年7月4日)、伊藤博文はこう語っています。
「自分らは租借に反対して、なんとか条約から削除させた。もし連合軍が執拗に租借を要求したら、彦島は奪われ、香港の九龍のようになっていただろう」(1933年刊行『栄える彦島 : 郷土読本』より)

 関門海峡の出口が押さえられたら、大変なことになっていたでしょうね。


 さて、関門海峡の連絡は長らく船に依存していました。
 1901年(明治34年)に山陽線が下関に到達し、関門航路が開設、1911年には鉄道連絡船も整備されました。以後、なんとか海峡を直接結ぼうという気運が高まっていきます。方法としては橋梁かトンネルですが、橋だと爆撃にあったとき、海峡の通過が不可能になるうえ、工費も安かったため、トンネルが選ばれました。

関門海峡鉄道連絡船
関門海峡の鉄道連絡船


 1861年に削岩機が実用化し、1871年にはダイナマイトが販売開始され、当時のトンネル技術はそれなりのものがありました。大規模なトンネルはまだ難しかったのですが、昭和になると、トンネルの特殊施行技術が生み出され、1934年には丹那トンネルも開通します。

 1936年(昭和11年)、ついに鉄道省は、彦島と門司を結ぶ鉄道海底トンネルの工事を開始し、下り線は1942年11月15日、上り線は1944年8月8日に開通しました。これが世界初の海底トンネルです。

関門鉄道トンネル
関門鉄道トンネルの工事

関門鉄道トンネル
関門鉄道トンネル完成図


 一方、道路に関しては、内務省が1932年頃から計画を立案し、やはりトンネルで繋ぐことが決まりました。1939年から本工事が始まったものの、1941年には太平洋戦争が始まり、工事は遅れに遅れます。
 終戦後には建築設備は丸焼けとなっており、しかもGHQは工事中止命令を出しました。工事は1952年にようやく再開され、1958年3月9日、ついに開通しました。

関門国道トンネル貫通式 関門国道トンネル貫通式
関門国道トンネル貫通式(1942年5月31日)

関門国道トンネル
関門国道トンネル


 そして、1973年には壇之浦と門司を結ぶ関門橋が開通し、1975年には山陽新幹線用のトンネルが建造され、関門海峡には4つのルートが完成したのです。

関門鉄道トンネル
関門鉄道トンネル断面図

関門国道トンネル
関門国道トンネル断面図

青函トンネルの誕生

制作:2013年10月15日


<おまけ>

 政府は、1994年以降、日本各地に巨大な海峡横断道路を建造するプロジェクトを進めていて、彦島と小倉を結ぶ新たな関門海峡道路が計画されています。関門橋と関門国道トンネルの2つで交通容量は十分に確保できているとは思いますが、山口県は「国土強靱化計画」を進める安倍首相のお膝元だけに、実現の可能性は高いですね。
 
関門海峡道路
関門海峡道路建設促進協議会のサイトより
 

<おまけ2>
 1895年、日清戦争の講和条約が下関で調印されますが、このとき下関は「赤間関」と呼ばれていました。「赤間」とは、『長門国風土記』に書かれた「山陰道にいた赤い眼の龍が、竜王の使いで山陽道へ行くことになり、陸に水を流して通った」という伝説から来ています。
 別の説では、巨大な「赤目の鯛」がいたから、とされています。『日本書紀』には、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征討に行く途中、豊浦津(=下関)で船の周りに集まった鯛に酒を飲ませたという話も書かれています。
「赤間関」は「赤馬関」と変化し、赤が省略されて「馬関」とも言われるようになりました。下関駅も、最初は馬関駅と呼ばれていたのです。

幻の下関港
幻の下関港整備計画。下関港は九州側ではなく日本海側に!?(1925年『海峡大観』より)

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