鉄道連絡船の世界
「青函連絡船」と「宇高連絡船」

青函連絡船「羊蹄丸」
青函連絡船「羊蹄丸」(船の科学館)


 夏目漱石の『吾輩は猫である』に出てくる水島寒月は、物理学者の寺田寅彦がモデルです。「天災は忘れた頃にやってくる」の名言で有名ですな。
 その寺田が、青函連絡船に乗ったときの様子を次のように描いています。

1931年頃の青森埠頭
1931年頃の青森埠頭(可動橋)


《夕方連絡船に乗る。3400トン余のタービン船で、なかなか綺麗で堂々としている。青森市の家屋とは著しい対照である。左舷に5秒ごとに閃光を発する平舘(たいらだて)燈台を見る。その前方遥かに7秒、13秒くらいの間隔で光るのは竜飛岬(たっぴみさき)の燈台に相違ない。強い光束が低い雲の底面を撫(な)でてぐるりと廻るのが見える。青森湾口に近づくともう前面に函館の灯が雲に映っているのが見られる。マストの上には銀河がぎらぎらと凄いように冴えて、立体的な光の帯が船をはすかいに流れている。
 しばらく船室に引込んでいて再び甲板へ出ると、意外にもひどい雨が右舷から面(おもて)も向けられないように吹き付けている。寒暖二様の空気と海水の相戦うこの辺の海上では、天気の変化もこんなに急なものかと驚かれるのであった》(1932年「札幌まで」)

 当時運行している青函連絡船のうち、3400トン以上の大型船は「津軽丸」「翔鳳丸」「松前丸」「飛鸞丸」の4つなので、寺田はこのうちのどれかに乗船したんだと思います。

津軽丸
現役時代の「津軽丸」

 
 青森〜函館にはもともと日本郵船の定期航路がありましたが、明治39年(1904)に日本鉄道がこの航路の直営を決定、連絡船2隻をイギリスに発注しました。名前は「比羅夫丸」「田村丸」で、1480トン。日本初の蒸気タービン商船です。
 これが国鉄直営の青函連絡船の始まり。
 青函航路は、当初、各船1日1往復で計2往復、所要時間は5時間以下。日本郵船の便では約7時間かかっていたため、圧倒的な速さでした。結局、2年後に日本郵船は撤退、以後、国鉄による独占が続きます。

 青函連絡船は、一般に「鉄道連絡船」と呼ばれます。鉄道連絡船の定義は難しいんですが、通常は文字通り2本の鉄道を結ぶ航路か、鉄道会社が運営する船のことを指します。

 日本初の鉄道連絡船は、東海道線を連絡させるために太湖汽船が運営した琵琶湖航路(大津〜長浜、1882〜1889)です。
 その後、関門航路(下関〜門司)、宇高航路(宇野〜高松)など20以上の鉄道連絡船が就航。そのなかには、もちろん当時日本領だった下関〜釜山(韓国)、稚内〜大泊(サハリン)ルートも含まれています。

関森連絡船
関森連絡船

 さて、鉄道連絡船のなかでも特別なのが、青函連絡船と宇高連絡船と関森連絡船(下関〜門司の小森江)の3つです。
 どうしてかというと、この3ルートだけ、船でダイレクトに鉄道車両を運ぶことができたからです。連絡船が岸壁に着くと、そこに可動橋が架けられ、列車がそのまま船に滑り込んでいくのですよ。めちゃくちゃ格好いいよね!

第1宇高丸
「第1宇高丸」

第1宇高丸 → 第1宇高丸
「第1宇高丸」に貨車が入線するところ


 ちなみに冒頭で触れた寺田寅彦が乗った船は、4隻とも15トン貨車25両を載せることができました。船内で線路が3つに分岐し、車両スペースの上に1・2等船室が、下に3等船室がありました。この船室で、旅客約900名を運べたのです。

 でだ。
 船が巨大になることはいいことなのだけど、もし海難事故にあったとき、それだけ犠牲も大きくなります。実は、青函連絡船と宇高連絡船は、両方とも大事故を起こしているのです。

洞爺丸 洞爺丸
沈没した「洞爺丸」と犠牲者


 昭和29年(1954)9月26日、猛威をふるった台風15号(洞爺丸台風)によって、「第11青函丸」「北見丸」「十勝丸」「日高丸」そして「洞爺丸」の5隻が同時に函館湾内で沈没してしまいます。
 1198名を乗せていた洞爺丸は特に被害が大きく、1155人が死亡、全船あわせて1430人の犠牲者が出ました。
 沈没した連絡船はいずれも貨車を積んでおり、海水が船尾の開口部から浸水するうち貨車が転倒、船の傾きを修正できないまま沈没してしまいました。


洞爺丸洞爺丸
322日ぶりに引き上げられた洞爺丸と、中から発見された遺骨


 一方の宇高連絡船。
 昭和25年(1950)年に一度沈没した「紫雲丸」が、昭和30年5月11日、「第3宇高丸」と衝突し、再び沈没してしまいます。このときは小中学校の修学旅行生など166人が死亡しています。

紫雲丸 紫雲丸
2度沈没した「紫雲丸」と、高松桟橋に張り出された生存者リスト


 こうした事故をきっかけに、青函トンネルや瀬戸大橋の建設計画が前進します(関門トンネルは戦前に完成)。
 青函トンネルも瀬戸大橋も開通したのは昭和63年(1988)。バブルがはじける直前、ひっそりと2つの連絡船は姿を消しました。
 現在、JRの鉄道連絡船は、厳島神社への宮島連絡船のみとなっています。

関門橋 瀬戸大橋
関門橋(左)と瀬戸大橋



制作:2008年4月21日


<おまけ1>
 寺田寅彦のエッセイ集『柿の種』にこんな不思議な話が書いてあります。

《ある若い男の話である、青函連絡船のデッキの上で、飛びかわす海猫(うみねこ)の群れを見ていたら、その内の一羽が空中を飛行しながら片方の足でちょいちょいと頭の耳のへんを掻いていたというのである。どうも信じられない話だがといってみたが、とにかく掻いていたのだからしかたがないという。
 この話をその後いろいろの人に話してみたが、大概の人はこれを聞いて快い微笑をもらすようである。なぜだかわからない》


 なお、寺田が乗った連絡船を含め、ほぼすべての青函連絡船は、昭和20年7月、米軍の空襲に遭い全滅します。

<おまけ2>
 海難事故にあった船と言えば、誰でもタイタニック号を思い浮かべますね。タイタニック号が沈没したのは1912年4月14日。犠牲者数は1513人。以下、当時の新聞より引用です。

《端艇を下ろして、婦人をまず乗すべき旨命令したり。規則は厳確に遵奉せられたり。秩序の紊乱(びんらん)を防がんがため、高等船員は拳銃の引金を引きしが、大概の場合これを使用するに至らざりき。最後の端艇本船を離るるや、同船専属の楽隊はサルーンに集合し、いよいよ最後と思わるる時に至り、「ニヤラー・マイ・ゴット・ツー・ジー」の讃美歌を奏せり。
 かかる間に氷水は汽罐室に浸入せしより、汽罐破裂し、船体を中断せりと》(明治45年(1912)4月21日 時事新報)


 この事故をきっかけに船舶への無線機搭載が進み、無線通信が普及したとされています。

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