河童の正体とは何か?
柳田国男「河童ニ異名多シ」全文公開

河童の看板
河童の看板


 今でも田舎では、川べりにカッパの絵が描いてあり、そこに「危ない!注意」などと警告する看板がありますな。これは、いたずら好きのカッパは、力比べで馬や牛を川に引きずりこむという迷信から来たものです。これを「河童駒引き」というんですが、カッパによっては人間さえも川に呼んでしまうため、子供への注意として、昔から河童の絵が使われてきたのです。

 江戸時代の百科事典『和漢三才図会』によれば、河童(川童、川太郎)は、人間の舌が好きで、金物が嫌いなんだそうです。西国や九州の谷間や池・川に多くいるとされ、姿形は10歳くらいの子供のよう。裸で立って歩き、人の言葉をしゃべります。

河童、川太郎
『和漢三才図会』の川太郎(河童)


 以下、現代語訳しておくと、

《髪の毛は短くて少なく、頭頂部に凹型のくぼみがあり、ここに水を盛ることができる。
 常に水中に棲んでいるが、夕日が差すと多くが川辺に出てきては、ウリやナスや畑の産物を盗む。

 相撲が好きで、人を見れば声をかけて相撲に誘う。少年が相手をするとき、まず周囲を見回すため頭を揺らすと、川太郎も数回周囲を見回すのだが、この間に頭の水が流れ出てしまうので、力尽きて斃れてしまう。
 しかし、もし皿に水があると力は相手の倍になり、腕はよく左右に抜けて滑らかなので、どうすることもできない。

 しばしば牛馬を水の中に引き入れ、尻から血を吸い尽くしてしまう。川を渡る人は特に用心しないといけない。

 その昔、筑紫にいた菅原道真が「いにしへの 約束せしを 忘るなよ 川だち男 氏は菅原」という歌を詠んだのだが、今でも川を渡るときにこの歌を吟じると、川太郎の災いはなくなるという。
 また、偶然川太郎を捕まえる者があっても、後の祟りを恐れて逃がしてしまう》


 ちなみに中国には似たような妖怪に「水虎(すいこ)」というのがいるんですが、違いはよくわかりません。

水虎
水虎


 さて、本サイトの管理人は、高校生の頃、柳田国男の『遠野物語』を読んで、岩手県の遠野市まで赤い河童を探しにいったことがあるんですが、実は、柳田國男が河童についてもっとも詳しく触れたのは、1914年(大正3年)刊行の『山島民譚集』という本です。
 そこには「河童家伝の金創薬」「馬に悪戯して失敗したる河童」「河童の詫証文」などしびれる文章が大量に並んでいます。そこで、本サイトでは、そのなかの「河童に異名多し」を全文公開したいと思います。

 河童は地方では何と呼ばれていたのか、そしてその真の姿は「鳥」ではないかなど、河童研究の第一級の文章です。2013年、柳田国男のすべての著作権が消滅したため、今後も公開を続けていきたいと思います。なお、原文はカタカナ交じりですが、読みやすさのため、すべてひらがなに直しました。旧仮名遣いはそのままにしてあります。



 河童とは本来何物なるか。少くも我々の多数は之を何物なりと信じつつあるか。此(この)問題に答へんが為には、是非とも順序として河童の別名又は方言を比較考察せざるべからず。

 予は此迄(これまで)は便宜上東京語を用いて之を「カッパ」と呼びたれども、是れ単に此物の名称の一種にして、比較的弘(ひろ)く採用せられてある者と云ふに過ぎざるなり。
 
 予が如きも幼時之を「ガタロ」と称へたり。「ガタロ」は恐くは川太郎の義ならん。「カッパ」は即ち川童(カワワッパ)にして「ワッパ」とは小児を意味する近世の俗語なり。畿内及び九州の一部にては「カハタロウ」、尾張にては「カワランベ」又は川小僧、伊勢の山田にて川小法師、同じく白子にて川原小僧と云ひ〔物類称呼2、本草綱目釈義42其他〕、筑前に「カウラワロウ」、肥後に「ガアラッパ」などと云ふも同じ事にて、要するに此物の人間に比して形小なることを意味するのみ。

川内川の河童
鹿児島県の河童


 備前備中等に於て之を「カウゴ」と呼ぶは、出雲に於て河子と称するに同じく、川の子と云ふ義なること疑なし。備中にても松山にては「カハコウ」と云ひ、岡田にては「ガウコ」と云ふ。同国吉備郡川辺村の川辺川の流に河子岩あり。元の名は吉田岩、元亀年中松山落城の際に、吉田左京が腹を切ったる岩なれども、後世には「カハコ」が出て引くぞなどと小児を嚇(おど)すやうになりて、終(つい)に此名に改まりしなり〔備中話11〕。


 同じ地名は遠近の諸国にも亦(また)多く存す。

  備前児島郡藤戸村大字天城字川子石小字川子石
  美作久米郡鶴田村大字和田南字年貢田小字川子岩
  丹後熊野郡久美谷村大字栃谷字カハゴ石
  信濃北安曇郡八阪村字川古石
  甲斐南都留郡船津村大字大富字土堀小字川子石
  相模中郡大磯町大字大磯字高麗道下小字川子石
  武蔵比企郡七郷村大字越畑字川後石

 の如きは其例なり、近年評判の「カウゴ」石なる者は、勿論(もちろん)悉(ことごと)く河童の故跡なりとは云ふ能はず。

 或者は革籠石(カハゴイシ)と書し又は香合石と書して、其形状の革籠又は香合に似たるが故の名称とし、或者は皇后石と書きて神功皇后の御遺蹟などと言ひ、其他にも区々の説あれど、要するに古くより土地の人の注意し尊敬し居たる石にして、尋常の場所に非ざりしことの外、何等(なんら)確乎たる説明を見出す能はず。

 而して神籬(ひもろぎ=臨時の依り代)対山城説の八釜(やかま)しき石の円形の囲障は、此「カウゴ石」と無関係なることは次第に明白となれり。

 九州の或地方にては、河童を「カハノトノ」と呼ぶと聞く。南は日向大隅辺にては之を「ヒヤウスヘ」と云ひ、又「スヰジン」(水神)と云ふ。此等は何れも尊敬を極めたる称号にして、正しく一般の河童動物説を否定するに足るものなり。之に反して越中富山に於て河童を「ガメ」と称するは、即ち之を亀又は竈の部類に属するものと認めたるが為なること、曾(かつ)て越後新潟に於て捕へたりと云ふ河童の写生を見ても想像に難からず。

境港の河童の三平
境港の河童の三平


 佐賀県にては河童を「カハツソウ」と云ふ由〔佐賀県方言辞典〕。「カハツソウ」は川の僧の義にも非ず、水の神たる川濯神とも直接の関係無く、全く河童を以て川獺(かわうそ)の類と考へたる為の名称なるが如し。

 出雲にて昔の「エンコウ」を今は川獺と為せることは前に述べたり。川獺は小獣なれども亦(また)淵の底に住みて悪事を為す。馬を害せし話は未だ聞かざるも、人を騙かして水に引込むなどと伝へらる。海にも亦獺の住む地方あり。

 佐渡の両津町附近にては、海獺はけしからぬ詐術を以て人の命を奪ふと信ぜられ、其一名を「ウミカブロ」、即ち海の童児と云ふとあれば〔佐渡志〕、通称に於ても亦河童と相似たり。

 播州明石の海岸などにては、今日「ガタロ」と云ふ物は河童には非ずして鮫の事なりと云ふ〔内藤吉之助君談〕。
 
 此外の異名にして由来の尚不明なるは、熊野又は但馬にて「ガウライ」、北陸の或地方にて「カワラ」、「ガワラ」又は「テガワラ」。此は或は「川ワラハ」の義ならんか。加賀能登其他に於て河童を「ミヅシ」と云ふこと〔本草啓蒙〕、さては陸中陸奥に於て之を「メドチ」と云ふに至りては〔南部方言集〕、猶(なお)数段の討究を重ぬるに非ざれば其理由を明白にすること難し。

「アイヌ」の古言には、河童とよく似たるものを「ミンツチ」と云ふ由は次に言はんとす。而も江差松前の旧城下に於ては、又河童を「コマヒキ」と呼びし時代あり〔サヘヅリ草〕。此事に就ても後に猶考察を加ふべき機会あるなり。 九州の河童に付ては更に一異説あり。曰く河童は夏ばかりの物なり、冬は山中に入りて「ヤマワロ」(山童)となると〔西遊記其他〕。

 山童を目撃したる者は愈々(いよいよ)少なけれど、昔は往々にして之に遭遇したる者の記事あり。山に入りて其足跡を見るが如きは殆と(ほとんど)普通の不思議なりき。山童は童と謂(い)ふは名のみにして随分の大男なり。川小僧輩の中々企つること能はざる大入道なりしなり。但し此とは或は別種かと思はるる山の神の部類に、「セココ」〔観恵交話〕、又は木の子などと称する物あり〔扶桑怪異実記〕。

 愛らしき童形にして群を為して林中に遊び杣(そま)木地挽(きじびき=木こり)の徒に悪戯す。山男と同じく木の葉を綴りて着るともあれど、或は又青色の衣服を着てありとも云ひ、よほど動物ばなれのしたる者なり。

北海道・定山渓の河童
北海道・定山渓の河童


 紀州熊野にては、河童は冬は山に入って「カシャンボ」と云ふ物になると云ふ。「カシャンボ」は6〜7歳ほどの小児の形、頭は芥子坊主にして青き衣を着す。姿は愛れしけれども中々悪事を為す。同国東牟婁郡高田村に高田権頭・檜杖冠者など云ふ旧家あり。此中の或家は毎年の秋河童新宮川を上りて挨拶に来る。
 
 姿は見えざれども1疋(匹)来る毎(ごと)に1の小石を投込みて著到を報じ、それより愈々(いよいよ)山林に入りて「カシャンボ」と成るといへり〔南方熊楠氏報〕。「カシャンボ」牛馬の害を為すこと多し。或は木を伐りに山に入りし者、樹に繋ぎ置きたる馬を取隠され、漸くにして之を見出でたれども、馬苦悩すること甚しく、大日堂の護摩札を請ひ受けて、僅かに助け得たることあり。

 或は水辺より出で来りて夜々牛小屋を襲ひ、涎(よだれ)の如き物を吐きて牛の身に塗り附け之を苦しむ。試みに小屋の戸口に灰を撒き置けば、水鳥の如き足趾(足跡)一面に其上に残れり〔同上〕。「カシャンボ」は火車より転じたる名称かと南方氏は言はれども未だ確証を知らず。兎に角(とにかく)夏の間里川の水に住む者をも同じく「カシャンボ」とも呼ぶと見えたり。

 之に反して九州の南部にては、冬季山に住する彼をも亦河童と称す。薩州出水郷の猟師八右衛門、夜山に入りて弁当を使ひてありしとき、闇の中より4〜5本の手出でて食を求む。八右其河童なることを知り持ちて来りし海鰮(いわし)を与へて其礼に猪を追ひ出さしめ、結局僅かなる食物を以て大きに利得をしたり。

 次の夜も亦此通りなりしが、手多くして海鰮足らず、乃(すなわ)ち戯れに榾(ほだ)の火を最後の者の掌に載せたるに、声を放ちて走り去り、それより山どよみ樹木の折れ倒るる音頻(しき)りにして物凄じくなりたれば遁(に)げ還(かえ)る。其後山に入れども河童百方妨を為し、猟物無れば終(つい)に其業を罷(や)めたりと云へり〔水虎録話〕。

 此話は他の諸国にては常に山男に就きて語り伝へらる。奥州にて有名なる白髪水の伝説にも、白き石を焼きて餅を求むる山男又は山姥に食はせしと云ふことあり〔遠野物語〕、山稼の者の焚火の傍に立寄ると云ふ話は、山人としては決して珍しき例に非ず。
 唯(ただ)之を名づけて河童と云ふを以て奇なりとす。

 又日向地方に於ても、河童冬は山に入りて棲むと云ひ之を山童とは言はず。其(その)形状宛(あたか)も熊野の「カシャンボ」の如く、又「セココ」木の子など呼ばるる物に似たり。杣人(そまびと=木こり)の墨斗(すみつぼ)を欲しがること甚しく、天壷と云ふ物を怖る。天壷と(は)、高鍋辺の方言にて苧(からむし)を編みて造りたる器なり。山に入る者常に之を肩にして行く。墨斗を天壷の上に載せて差出せば河童驚きて飛び退くと云へば〔水虎録話〕、彼県にては之を見たる人多きなるべし。

深川で見つかった河童
天明元年、深川で見つかった河童。すばやく逃げたが打ち殺された


 然るに一方には同じ地方にて、河童は夏になると海辺より山手に向ふが如く語る者あり。初夏の雨の夜に数百群を為し、ヒョウヒョウと鳴きて空を行く者を河童の山に入るなりと言ひ、秋の央(なかば)になりて同じ声をして海の方に鳴き過ぐるを、河童山を出で来ると云ふ。
 曾(かつ)て其姿を見たる者無しと云へば、思ふに一種の渡鳥なるべし〔郷土研究2巻3号〕。

 筑肥海岸地方の河童は、毎年4〜5月の頃筑後川の流を遡り、豊後の日田を経て阿蘇の社僧那羅延坊(ならえんぼう)が許(もと)に伺候すと云ふ。是も亦同じ鳥の声などに由りて起りたる説ならんか。那羅延坊は古くより俗に河童の司と称す。代々人に頼れて河童を鎮むる祈禱を為し、又折々近国の田舎を巡回す〔水虎考略後篇所引蓬生談〕。

 其由緒は久留米の尼御前よりも古きが如し。何はともあれ九州の河童は、眷属(けんぞく=一族や家来)大群を為し且つ移動性に富むことを以て一特色とす。

 佐賀白山町の森田藤兵衛なる者、曾て対馬に渡り旅宿に在り。夜分家の前を通行する者の足音暁に至るまで止まざるを怪しみ、明日亭主に向ひて何故に斯く人通り多きやと問へば、亭主の答にあれは皆河童でござります。河童日中は山に居り夜に入れば海に行きて食物を求むるにて、人間には害を為さずと云へり〔水虎新聞雑記〕。

日本山海図会の河童 利根川誌の河童
『日本山海図会』と『利根川誌』の河童


 今より80〜90年以前、日高謙三と云ふ人日向の耳川の上流なる一山村に往きて滞在せしに、毎夜四更(しこう=丑の刻)の頃に及べば怪しき声川上に起り、暫くありて対岸に達し忽(たちま)ち又下流に去る。曙の比は復(ふたた)び岸に沿ひて還る常なり。土地の人の説明に、是は河童が山を下り海に浴するなりと也〔日州水虎新話〕。此輩は何れも山の方を本居とする河童なるか、然(さ)らざれば亦何ぞの鳥の声の誤りて斯く信ぜられたるもの也。河童群を為して来去すと云ふ者は、未(いま)だ曾(かつ)て其姿を見たりと言はず。

 高鍋附近堤の番人、永年此河童の声を聞きて曾て之を見しこと無し。或士の勇気ある者深夜に物陰に之を覗ひ、声を的にして闇に鉄砲を放したるに、一発にして忽ち行方を知らずと云ふなど〔水虎録話〕、如何(いか)にも鳥らしき話なり。されば河童を「ヒヤウスヘ」と云ふは其の鳴く声のヒョウヒョウと聞ゆる為と云ふ説の如き、未だ何分にも信を執る能はず。某地方の山中に住する「セコ子」は、20〜30群を為して往来し、其語音ヒウヒウとのみ聞ゆと云へり。但し此「セコ子」は、顔の真中に大きな眼が1つなりと云へば、あまり当(て)にもならぬ話なり。

制作:2013年1月3日

<おまけ>
 河童は昔から見世物になってきました。天保6年、名古屋で見世物になった河童は干物だったそうですよ。下の写真は、別府温泉の「怪物館」で公開されていた河童のミイラ。
河童のミイラ

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