探検と交易のオホーツク海
蝦夷・樺太・千島における日露交渉史

昆布をとるアイヌ
洞窟内でアイヌと野営(松浦武四郎・画)



 1812年、ナポレオンはロシア遠征を開始します。 
 9月14日、フランス軍はモスクワに入城。このニュースが、極東のカムチャッカ半島に到達したのは、3カ月後の12月28日のことでした。
 この報告を、悲壮な思いで聞いた日本人がいます。それが、司馬遼太郎『菜の花の沖』の主人公・高田屋嘉兵衛です。

 1812年といえば、もちろん江戸時代で、当然、日本は鎖国していました。いったいなぜ高田屋嘉兵衛はカムチャッカにいたのか。
 今回は、知られざる「オホーツク海」探検史です。


林子平の『三国通覧図説』
林子平の『三国通覧図説』(1785)に描かれた「樺太半島」


 まず、いわゆる日本人が最初に北海道に渡ったのはいつのことなのか。
『日本書紀』では、658年、阿倍比羅夫が「粛慎(ミシハセ)」を討ったと記録されています。

《是(この)歳、越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田臣比羅夫、粛慎を討ちて、生羆(ヒグマ)2つ、羆皮70枚献る》

 その後、阿倍比羅夫は「大河」のほとりで、蝦夷1000人余の集落を攻撃しようとする粛慎軍を目撃、これを撃破します。この大河がどこかは不明ですが、ヒグマは北海道にしかいないことから、阿倍比羅夫が最初に北海道に渡った可能性があります。
 しかし、確証はありません。

熊の石像(網走市モヨロ貝塚館)
熊の石像(網走市モヨロ貝塚館)

 
 伝説では、源義経が奥州から北海道を経由してチンギスハーンになったと言われますが、まぁ、これは無視するとして、文献で確認できる最初の人物は1443年の安東盛季です。松前藩の歴史書『新羅之記録』には、安東盛季・康季父子が、南部氏に敗れて渡島に逃げたと書かれています。

 1457年、武田信広がアイヌの酋長コシャマインを破り、蝦実地の南端で城を築きました。そして松前と改称し、これが江戸時代、長きにわたって蝦夷を支配した松前氏の基礎となります。

 1635年、松前藩は佐藤嘉茂左衛門らを樺太に派遣。また、村上広儀は千島列島北端の占守島までの地図を作製しました。
 1639年、徳川幕府3代将軍・家光が「鎖国令」を公布。1687年には、水戸藩主の徳川光圀が派遣したチームが、「快風丸」で石狩川まで到達しています。

アイヌ集落
屈斜路湖のアイヌ集落(『瓜生氏日本国尽』)


 実はこのころ、すでにロシアのポヤルコフやハバロフ(ハバロフスクの名前の由来)などの探検隊がオホーツク海近辺まで到達していました。
 しかし、まだロシア人の目撃記録は日本側にはありません。最初の出会いは1739年のことです。

 1739年5月、宮城県の牡鹿半島沖に3隻の異国船が出現しました。さらに千葉県の鴨川にも1隻の異国船が出現。4隻はシュパンベルグの探検隊でした。
 これが「元文の黒船来航」と呼ばれるもので、記録上、最初の日露の出会いです。

『元文世説雑録』によれば、ロシア船の様子は次のように書かれています。

・オランダ人に似ており、毛は赤く縮んでいる
・鼻は高く、目はサメ色をしている
・緋色の羅紗のようなものを着ている
・麦粉で鶏や豚の血を丸めて食べている。これはオランダのパンというものか
・赤い酒(ワイン)や焼酎のような酒(ウオッカ)をガラスの器に入れている
・日本の煙草がことのほか好きなようだ
・太鼓や三味線(ギター?)を持っている
・皮でできた地球儀のようなもの、漢字のような文字が書かれた黒漆の地図がある


 さらにロシアの探検は続き、1774年にはコリツイルスキーが択捉島まで来ています。

 1770年のことです。
 択捉島の酋長がウルップ島でラッコ猟をしていると、ロシア人がやってきて、そのラッコをすべて渡せと脅してきました。抵抗すると、酋長2人は殺されました。こうしたトラブルが何度か続き、ついに1791年、アイヌはウルップ島のロシア人を大量殺害する事態が起きました(『大日本産業事蹟』による)。

オットセイとラッコ
オットセイ(奥)とラッコ(手前)


 ラッコの毛皮は防寒具として都合よく、ロシア人はシベリアの貂(てん)の毛皮に次いで、千島やカムチャッカのラッコの毛皮を狙って南下していたのです。
 ラッコはウルップ島に群棲していますが、択捉島にもいます。しかし、国後にはほとんどいません。国後と択捉の間に強い潮流が流れていることもあって、ロシアと日本はこの海峡で対峙することになります。なお、ロシアが最初に択捉を占領したのは、1789年のことです。

 1782年、嵐のため江戸へ向かう大黒屋光太夫の船が、アリューシャン列島に漂着。光太夫はロシア帝国の都サンクトペテルブルクで女帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出ます。
 遠い異国の日本に興味を持ったエカテリーナ2世は、日本に関する学術調査を命じました。

 北海道の国防を主張した最初の本は、1781年頃に完成した工藤平助の『赤蝦夷風説考』です。この本を読んだ田沼意次は、蝦夷地開発の重要性に目覚め、1785年、蝦夷地探検隊を組織します。
 この従者として初めて蝦夷に渡ったのが、江戸の学者・本多利明の門下生だった最上徳内です。

国後島
距離16kmの国後島(3つの山は左から泊山、羅臼山、爺爺岳)


 最上徳内は国後島に上陸し、翌年、択捉島からウルップ島へ到達。ここでロシア人イジョヨと遭遇しています。イジョヨは最上徳内にロシア発行の旅券を渡し、「これがあればロシアまで行ける」と教えてくれました。このイジョヨはロシアのスパイ説もありますが、いったい何者なのかはわかっていません。

最上徳内が描いたイジョヨ
最上徳内が描いたイジョヨ


 田沼意次の探検は「開拓」を主眼としたものですが、まもなく田沼の失脚で中止となりました。そして、後を継いだ松平定信は、「鎖国」の強化を目的に北方の調査をすることになります。

 1787年、村上島之丞(秦檍丸)が蝦夷地を調査。村上は蝦夷中を歩き回り、『蝦夷島奇観』『蝦夷図説』『東蝦夷地名考』など詳細な記録を残しました。

 たとえば、『蝦夷島奇観』には、サルモンベツに住むヤイハルというアイヌの酋長が、次のような伝説を語ったと記録されています。

《南方の神の国から女神がひとり漂流してきて、黄金や金蒔絵などさまざまな珍宝をもたらした。いつのころからか、一匹の雄犬が女神と行動をともにし、その犬が食事を運び込んで、女神を飢えから救った。そのうち、犬の子が生まれ、それが『夷人』の起源となった》 

 村上島之丞が蝦夷地探検に出た年、フランス人ラペルーズの船が宗谷海峡を通過しています。国際的には宗谷海峡を「ラ・ペルーズ海峡」と呼ぶゆえんです。

宗谷海峡に来た「ラペルーズ」の顕彰記念碑
ルイ16世に命じられ、宗谷海峡に来た「ラペルーズ」の顕彰記念碑


 1790年、最上徳内は4回目の北海道探検に出向きます。
 このときの行路を公開しておきましょう。どれだけ探検に時間がかかったかわかると思います(朝比奈厚生『日本開国志』による)。

 1790年12月29日 江戸出立
 1791年01月24日 松前へ到着 
 1791年03月17日 東蝦夷アツケシ(厚岸)到着
 1791年04月03日 国後島到着
 1791年04月16日 択捉島到着
 1791年05月12日 ウルップ島到着
 1791年06月03日 ウルップ島北端に到着

歯舞諸島
納沙布岬から超望遠撮影した歯舞諸島(根室市)


 1791年、幕府は「寛政度異国船取扱指針」により、漂着した異国船の扱いを明文化。異国船が見えたら警戒態勢を取り、近づいてきたら臨検を行い、拒むなら打払う。そうでなければ穏便に立ち去らせるものでした。
 この年、林子平は『赤蝦夷風説考』の影響を受け『海国兵談』を出版、国防体制の不備を指摘します。しかし、これも出版禁止となってしまいました。

 1792年、ラクスマンが根室に来航し、漂流民・大黒屋光大夫を送還してきました。
 このとき、ロシア側は「日本と仲良くしたく、ぜひロシアのことをみなに知らせてほしい」と伝えています。当時、この突然の出来事に応対したのが富山元十郎で、彼は1801年、得撫(ウルップ)島に「天長地久大日本属島」の標柱を立てています。

 幕府は、1798年、渡辺久蔵らを樺太・千島探検に派遣。
 近藤重蔵は、幕府の北方調査に参加し、国後島〜択捉島を探検。択捉島に日本の領土であることを示す「大日本恵登呂府」の標柱を立てました。

アトイヤ標柱
アトイヤ標柱(函館市北洋資料館)
(近藤重蔵が立てた「大日本恵登呂府」の標柱を1859年、
仙台藩士が建て直したもの。アトイヤとは海の岸の意味)


 国後島と択捉島の間には急な潮流があり、横断は非常に困難でしたが、1799年、ここに航路を発見したのが、高田屋嘉兵衛です。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』で有名な淡路島出身の船頭で、近藤重蔵と協力して、千島列島のアイヌに米や塩、木綿などを与えて漁場を開拓しています。

《蝦夷地(北海道)の蝦夷人たちが、いかに松前藩の場所請負商人に搾取されぬいているとはいえ、かれらは本土の進歩した多種類の漁具をつかっており、それからみればエトロフの島人は、ほとんど未開の段階に近かった。
 着る物も、粗末だった。げんに黒い砂を踏んで嘉兵衛の前にあらわれた人達は、この季節に古毛皮をまとったり、あるいは裸形のままでいた。
 かれらを文化的に隔絶しているものは、嘉兵衛がわたってきた国後水道であった。あの厄介な潮流が沸くように渦巻いているために、文化の進んだクナシリ島の蝦夷人もほとんどやって来ず、その影響をうけることがうすかった》(『菜の花の沖』)

 とはいえ、択捉島に住む人々は魚を捕るだけでなく、交易もしていました。択捉島は千島最大の漁場にもかかわらず、渡りやすいウルップ島へ行き、そこでラッコやアザラシ、オットセイ、ワシの羽をとって、年に数回、国後島や厚岸あたりまで交易に行くのです。

択捉島の紗那
択捉島の紗那(ロシア名クリリスク、1930年頃)


 前述の通り、蝦夷地開拓に熱心だった田沼意次の時代が終わると、老中・松平定信は鎖国の強化に乗り出しました。そこで、1799年、箱館から東千島を直轄地として統治することにします。

 同じ年、北海道の野付半島先端部に「通行屋」が設けられました。ここが国後島との交通、交易の拠点となり、宿や通関などが置かれたのです。こうして、国後島以北のニシンなど、各種の産物が正式に流通しはじめます。

 この通行屋の3代目支配人を務めた加賀伝蔵は、現地の様子を克明に記録しています。この「加賀家文書」には、通行屋付近にニシン漁の番屋が何十軒も立ち並び、アイヌが過重な労働をさせられていたこと、また畑で大麦やタバコ、ネギなどを栽培していたことなどが書かれています。

 実は、このあたりには「キラク」という大きな町があったという伝説が残されています。大きな富をもたらしたニシン漁だけに、歓楽街や遊郭が揃っており、また、武家屋敷が並び、道路は敷石で整備されていたと言われます。文献では一切確認されておらず、1963年、北海道大学探検部の聞き取り調査で、地元の長老の話として出てくるのみでした。

「キラク」跡地(野付半島)
トドワラの向こうに「キラク」跡地が(野付半島)

 
 しかし、2003年から遺構の発掘調査が始まり、陶磁器や金属製品、古銭、ガラス製品など1万2000点もの遺物が発見され、存在が確認されました(現在は、この遺構はほぼ水没状態にあります)。 

 さて、1800年以降、幕府の命を受けて、伊能忠敬が北海道の実測を行います。
 伊能忠敬ができなかった西蝦夷の測量は、間宮林蔵に引き継がれました。

間宮林蔵の遺品
間宮林蔵の遺品
①貴重品だった蝦夷布を毛布として使用
②太陽観測用のサングラス
③水深測定に使った鉄の鎖。約60cmごとに印がついていた
④厚手の木綿を2枚組み合わせた防寒用の頭巾
⑤黒竜江のジャイカ岬から持ち帰った石で作った韃靼硯


 1801年、富山元十郎が択捉島、得撫(ウルップ)島を調査して、「天長地久大日本属島」の標柱を建てます。
 そして、1802年、蝦夷奉行所(のち箱館奉行所)が設置されました。

 ロシアからは、レザノフやクルーゼンシュテルンなどの来航が相次ぎます。このクルーゼンシュテルンは、世界で初めて「日本海」という名前を使った人物です。

 鎖国を強化する幕府は、異国船の対処法を次々に打ち出します。
 1791年の「寛政度異国船取扱指針」に次いで、1806年に「文化の薪水給与令」、1807年の「ロシア船打ち払い令」が発布されます。

 1808年、間宮林蔵と松田伝十郎が樺太探検に乗り出しました。間宮林蔵は西海岸を、松田は東海岸を北上。そして、翌年、間宮林蔵は間宮海峡を発見します。これにより、樺太が島であることが確認されました。

間宮林蔵渡樺出港の地
「間宮林蔵渡樺出港の地」碑(稚内)


 日本の「洋画の祖」と呼ばれる司馬江漢は、1811年、間宮林蔵と話して、樺太の探検談を聞いています。

《冬の樺太は海も川も凍ってしまうので、トナカイという獣を使うと移動が簡単である。トナカイはオランダではレンシイルと呼び、中国では馴鹿という。樺太は領主もおらず都会もない不毛の地で、満州人と蝦夷人とわずかな交易をするだけである》(『春波樓筆記』)


間宮林蔵の東韃紀行
中国・黒竜江まで探検した間宮林蔵。アイヌもここまで交易していた
(『東韃紀行』、函館市北洋資料館)


 1811年、ディアナ号で国後島に来航したゴローニンが幕府により拿捕されます。
 これを受け、翌年、ゴローニン救助のために日本に戻ってきたディアナ号は、たまたま通りかかった高田屋嘉兵衛を拿捕します。 

高田屋嘉兵衛
ロシアの出版物に描かれた高田屋嘉兵衛


 高田屋嘉兵衛は、カムチャッカに幽閉されつつ、ゴローニン救助に尽力。交渉は実り、翌年、ゴローニンと交換で解放されました。
 冒頭で触れたナポレオンのモスクワ攻略を悲痛な思いで聞いたのは、交渉が破談となり、日本に帰れないことを危惧したからです。

 この事件を受け、日本は1825年、ついに「異国船打ち払い令」を公布します。


魯西亜国渡旗
1825年、松前藩士が記録したロシアの旗
(『魯西亜国渡旗』、函館市北洋資料館)

 
 幕末、一連の蝦夷、千島、樺太探検の総仕上げをしたのが松浦武四郎で、1845年から計6回にわたって調査を繰り返し、その成果は『蝦夷年代記』などにまとめられました。
 松浦の『近世蝦夷人物誌』には、和人のアイヌへの暴虐行為が列記されています。


松浦武四郎が描いた「石狩川探検の図」
松浦武四郎が描いた「石狩川探検の図」


《どの漁場でも、役付きとなったアイヌは、自分の利益のためにアイヌを苦しめるようなことばかりするものだが、長万部の酋長トンクルは少しもその ような心がなかった。
 トンクルは、支配人の長七にこう厳しく説いた。
「もともと、この山越内の漁場は、文化年間には500余人が住み、戸数も110余軒あったのに、今ではわずかに戸数80軒、人口は370〜380人となってしまいました。これはすべて、娘たちが和人に強奪され、妊娠すれば堕胎させられるなどの悪習によるものです。万事、和人の勝手気ままにされてきましたが、アイヌの娘はアイヌの妻となるのが道理ではありませんか」
 長七は、この言葉に従って、漁場内の番人らに対し、アイヌの妻を強奪したり、娘を犯すことのないよう固く申し渡した》



松浦武四郎が描いた「蝦夷土産道中寿五六」
松浦武四郎が描いた「蝦夷土産道中寿五六」
(上段右から枝幸町、紋別、斜里、根室。下段右から北蝦夷地、国後、択捉)


 松浦は『近世蝦夷人物誌』の後書きにこう書いています。

《函館の料亭では、富貴を極めた役人が芸妓たちに三味線を弾かせ、最高の料理を食べている。その周りを請負人や問屋、支配人などが太鼓持ちを務め て、歓待している。
 だが、座敷を吹き抜ける一陣の生臭い風に振り返ってみれば、大皿に盛られた刺身は血のしたたる人肉、浸し物はアイヌの臓物、肉は人の肋骨、杯に満ちているのは生き血ではないか。ふすまに描かれた聖人の画像は、アイヌの亡霊となって、「うらめしや」と訴えている》
 

 蝦夷地は、アイヌの犠牲の上に発展していったのです。

函館
函館風景(『瓜生氏日本国尽』)

 
 明治に入ってすぐの1869年(明治2年)、蝦夷地は北海道と改称。これは松浦武四郎の命名によります。
 
 1872年に刊行された地理書『瓜生氏日本国尽』では、北海道11国が以下のように描かれています。

北海道(『瓜生氏日本国尽』)
北海道11国(『瓜生氏日本国尽』)
左上より渡島(黄)、胆振(赤)、後志(緑)、日高(青)、十勝(赤)、
石狩(黄)、天塩(赤)、北見(青)、釧路(緑)、根室(黄)、千島 (緑)
(現在は檜山、渡島、後志、石狩、空知、日高、十勝、釧路、根室、網走、空知、留萌、宗谷、上川の14支庁)


《この地にもとより住ひぬる土人は「アイノ」と名を呼びて、ただ山猟と漁を業とし知て、そのほかは一文不通・無知混沌。男女ひとしく被髪にて、木の皮・獣の皮を以て五体を包み衣服とす。女は顔に刺青し胸に鏡を掛けたるは、縄を結べる古の質素の風を見るごとし》(『瓜生氏日本国尽』巻之四)


 また、北海道の産品として、ラッコではなく、膃肭臍(オットセイ)が描かれました。オットセイの肉は、「腰や膝を暖め癇を直す薬効」(『和漢三才図会』)もありましたが、「其の毛皮は軟かにして甚だ高価」(『日本物産要覧』、1901年)とあり、やはり防寒具として毛皮が重宝されました。

オットセイ
オットセイ(『瓜生氏日本国尽』)


 1875年、榎本武揚が「樺太・千島交換条約」を締結し、千島列島は日本のものに、樺太はロシアのものになりました。

 その後、1892年に笹森儀助が千島を探検。
 翌年には幸田露伴の兄である郡司成忠が千島開拓に乗りだし、開拓団「報效義会」の会員とともに占守島へ上陸。このとき千島探検に参加していた白瀬矗は、後に南極探検で有名となります。

 1900年(明治33年)、色丹島(当時は斜古丹島)のアイヌの酋長ヤーコブが上京してきました。評論家の横山健堂は、この酋長と面会し、浅草で牛肉を食べた後、写真撮影しました。
 当時62歳のヤーコブは、アイヌ語はもちろん、日本語、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語をしゃべることができました。

酋長ストロゾース・ヤーコブと撮影した横山健堂
酋長ストロゾース・ヤーコブと撮影した横山健堂


 いったいなぜヤーコブはこれほどの語学力があったのか。本人はこう語りました。
「幕末にやってきた西洋諸国の船が、わずかなぶどう酒や煙草と引き替えにラッコの皮を持っていった。ラッコを捕るのが上手だった自分は、こうした外国人と接しているうちに話せるようになったのだ」

 ヤーコブ上京の目的は、天皇の鹵簿(行列)を見るためで、ついでにラッコの皮3枚を売るためでした。アイヌ最高の傑物と言われる人物も、62歳でなおラッコを売っていたのです。

 そして、ヤーコブこそ、世界中から獲物を求めて船がやってきた幕末のオホーツク海を体現した人物でした。そうしたなか、ロシアは強国となっていき、南下政策を採り始めます。

 1875年の「樺太・千島交換条約」で、北海道最北端の宗谷岬は日露の国境となりました。このため、帝政ロシアが樺太の軍備を進めると、日本側はこれに呼応して海軍の望楼を建造することになります。もちろん、バルチック艦隊の動きを早く察知するためです。

 望楼の建造は1902年。そして、実際に日露戦争が起きるのは、この2年後のことでした。

大岬旧海軍望楼跡(稚内の宗谷岬)
大岬旧海軍望楼跡(稚内の宗谷岬)


制作:2015年12月17日


<おまけ>
 北海道網走市には、モヨロ貝塚という、オホーツク文化の代表的遺跡が残っています。貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかっており、また「ヴィーナス」と呼ばれる牙製の女性像も発掘されています。

牙製女性像
セイウチの牙製女性像(モヨロ貝塚のヴィーナス)

 発見した米村喜男衛の本には

《(北大の人類学者)児玉(作左衛門)博士の調査研究の結果、この人骨は日本人ともアイヌ人とも全く異なる骨の形をしているので、これを「モヨロ 人」と命名して学会に発表されたことは、実に貴重な成果であった》(『モヨロ貝塚』)

 と書かれています。このモヨロ人が何者かはわかっていませんが、司馬遼太郎は樺太北部に住むギリヤーク人ではないかと推測、阿倍比羅夫が戦った「粛慎(ミシハセ)」も同様だった可能性を指摘しています(『オホーツク街道』)。
 面白いのは、モヨロ貝塚から出た土器から酒石酸が検出されていること。これはつまり、交易に熱心だったオホーツク人がワインを飲んでいたことを意味しています。

モヨロ貝塚の墓地
モヨロ貝塚の墓地
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