透視と念写:オカルトの誕生
明治の「千里眼」実験を再現する

御船千鶴子の千里眼(透視)実験
これが千里眼実験


 明治43年(1910)、日本で「千里眼」ブームが起こります。

 広辞苑によれば、千里眼とは「遠隔の地の出来事を直覚的に感知する神秘的能力。また、それを持つ人。仏教でいう天眼通」とされています(ちなみに、千里先の音を聴くことができるのは順風耳)。

 ですが、ここでいう千里眼とは、いわゆる「透視」のことです。
 映画『リング2』でも千里眼実験が登場しましたが、実は今から100年前に実際に行われていたんですね。

 さて、以下に当時の実験の様子を公開しておきますが、ちょっとその前に。

 この透視実験は、東大心理学教室の福来友吉が行ったもので、もともとはオカルトではありませんでした。
 どうしてかというと、当時、世界中で放射線研究が全盛期を迎えていたからです。

 ・明治28年(1895)、レントゲン、「X線」を発見
 ・明治29年(1896)、ベクレル、ウランの「放射線」発見
 ・明治31年(1898)、キュリー夫妻、「ラジウム」発見
 ・明治32年(1899)、ラザフォード、α線とβ線分離(翌年γ線も分離)

 また、明治36年(1903)には、ブロンロが紙や木などを透過する「N線」を発見します。これは捏造でしたが、いずれにせよ、こうした最新科学の新発見が続くなかで行われた「千里眼実験」には、新しい科学への期待が込められていたのです。

福来友吉
念写発見当時の福来友吉
(「福来博士記念館」の展示より)


 とはいえ、今から見ると、この実験がいかがわしいのも事実。実は、この実験を行った福来友吉は、当時の催眠術研究の第一人者。
 千里眼とされた御船千鶴子は、明治36年、義兄に催眠術をかけられて、千里眼能力を獲得したとされています。
  
《(義兄)清原は千鶴子に、深呼吸をして無我の状態にいたったならば万物が透視できると告げ、毎朝試みるように命じた。彼女はそれから、毎朝1回ずつ熱心に深呼吸をおこなった。それからほぼ10日ののち、彼女は庭の梅の木を見て、その幹のなかに小さな虫が数匹いることに気づき、家人に告げた。家人が樹皮を剥いでみたところ、そのとおりだったという》(『催眠術の日本近代』による)

 こうして千里眼能力を発揮した千鶴子は、催眠術を進化させた精神治療を開始するなど、徐々に名声を高めていきます。
 ちなみに、三井財閥の基礎をつくった福岡県大牟田市の万田炭鉱を発見したのも千鶴子でした。そこに福来が目を付けたのです。

 というわけで、明治43年9月18日の東京日々新聞より、実験の様子を公開します(なお、原文は読みにくいので、句読点を加えたり漢文調を開いたりして読みやすくしています)。


御船千鶴子
御船千鶴子
(国会図書館所蔵『透視と念写』より)


<千鶴子最後の実験>
<是に従い、研究期に入る>

 
 千里眼夫人・御船千鶴子は、17日午前8時、その旅館なる神田淡路町・関根屋において、かねて約ある11博士立ち会いの上、最後の透視実験を行ひたり。概して当日の実験は、過般、大橋氏邸において行われたる実験の思はしからざりしための再実験にて、諸博士は一段の注意以てこれを迎へたり。

<11博士の立ち会い>

 主人側は例の福来(友吉・東大助教授)・今村(新吉・京大教授)の両博士にて、千鶴子の実父・御船秀益、義兄・清原猛雄、井芹校長これに陪し、山川理学博士、丘理学博士、田中館理学博士、呉医学博士、大沢医学博士、入沢医学博士、三宅医学博士、井上文学博士、元良文学博士等の鉾々たる諸博士列席し、高等師範学校教授・後藤牧太氏もこれに加はり、大橋新太郎氏は前日の関係より本日も陪席せり。

 実験室は旅館の3階の10畳の間を以てこれにあて、千鶴子はここに正座し、井上博士は隣室にて監視することとし、その隣の8畳と6畳を立ち会い諸博士の控所、更に6畳2間を各新聞記者の席とし、総員30余名にて結果如何と待ちかまえたり。

<厳重なる封緘>

 かくて井上、元良、丘、入沢、呉、山川の6博士と後藤牧太郎氏は7枚の名刺に1人づつ正永文、春山新、道徳天愚天鞘、東本村、上益成、松鶴君と認め、なほこれが覚書認めたる後、裏向にして混ぜ、この中より三宅博士が1枚をぬき取り、これを厚さ2、3仙(センチ?)、直径9仙、高さ12仙にて内部を黒塗りにせる円筒状の錫製の容器に入れ、更にこれを13仙四方、高さ16仙、厚さ9仙の方形にて内部をビロードにて張りたる木箱に納め、平打ちの紐にて堅く結び、紐の端を半紙にて巻き、これに認め印を捺し、尚これを捻り薄糊を引きて、容易に開く能はざらしめたり。

<見事に的中す>

 かく厳封せるを山川博士が携へ行きて、千鶴子の手に渡し、井上博士は予定の如く隣室よりこれを監視し、物音立てては精神統一に妨げあらんと各自息を殺して待つ間程なく、10分21秒にして別室の千鶴子は透覚し得たりと告げ、2つ折りの半紙に認めたるを見れば「道天徳」とありて、元良博士の出題なりしかば、同氏及び一同は奇異の思いをなし、前記諸博士立ち会いの上、封印を検めたるに毫(ごう)も異状を認めず、更に紙捻りを解きて子細に点検せしも印はそのままにて、封目にも変わりなく、千鶴子の透覚は一点の疑ひを挟むべき余地もなく見事に的中したるなり。

<2回目は精神不統一>

 よって、福来博士は的中せる旨を千鶴子に告げたるに、同女は安堵の思ひをなしたるかの如く、障子を開きて半身をあらわし、実父秀益老人は白髭を撫して喜色満面にあふれたり。
 かくて山川博士は第2回の実験をなさんと、今回は西洋状袋を取り出し、同じ紙片に3字を認め、紺土佐に包みてこれに入れ、封印4個を押捺し、外部は封蝋にて固くこれを緘して、前同様、千鶴子に手渡し、千鶴子は一室内に籠りしが、「頭が痛くてどうも出来ません」とて実験を拒みたり。
 けだし最初の実験に先ち、父兄の談に、同女は前夜より下痢を催して健康を害しいたる由なれば、まったくこれがため長く精神の統一を保ちがたかりし為なるべし。



 千鶴子は、実験の翌日、父親と江の島で遊んだあと、東京見物をして、20日、故郷熊本に帰りました。

 一応、実験が成功したので、当時のマスコミは千鶴子の透視能力は本物かと大騒ぎしますが、その後、この実験はやはりインチキであると世間から攻撃され、千鶴子は翌年1月に毒を飲んで自殺。享年25才。

 一方、千鶴子の実験の後、全国各地に超能力者が出現、超能力ブームが巻き起こります。なかでも有名なのが、やはり福来友吉が実験した長尾郁子(香川県丸亀市出身)。

長尾郁子
長尾郁子(「福来博士記念館」の展示)


 福来は、毛筆で書いた文字の透視実験に成功し、次に、現像されていないフィルム(当時は乾板)の透視ができるかを実験します。
「哉天兆」と書いた紙を2枚撮影し、未現像のまま1枚を保管し、もう1枚を長尾に渡したところ、2枚とも同じように感光していたのです。
 
 こうして、明治43年12月、福来は「透視」に続き、「念写」の可能性に気付くのです。
 実は、同時期に、京大の学生・三浦恒助が人体から出る放射線「京大光線」を発表しています。念写はこの光によるものとされました(京大光線はすぐに否定されています)。

世界初の念写実験
長尾郁子が成功した世界初の念写実験
(「福来博士記念館」の展示)


 世界初の念写実験は、福来が長尾で実現させました。
 箱の中に乾板を入れ、「心」の文字を乾板に写すよう求めたのです。長尾は1分間念じこみました。現像したところ、「心」の文字はなく、不思議な形が写っていました。
 しかし、御船千鶴子に続き、長尾郁子も明治44年2月に急逝してしまいます。

高橋貞子
高橋貞子(国会図書館所蔵『透視と念写』より)


 福来友吉は、その後も念写実験にのめり込みます。
 大正2年(1913)には、東京・千駄ヶ谷に住んでいた高橋貞子が登場します(『リング』に登場する貞子の名前の由来)。
 貞子は「天」という文字を念写しつつ、無意識下にあった「金」という文字まで念写してしまいます。
 福来はこれを「無意識まで念写できる」としますが、以後、学界からは無視され、東大の休職を命じられてしまいます。事実上の大学追放でした。

高橋貞子の念写実験
高橋貞子の念写「天」と「金」
(国会図書館所蔵『観念は生物なり』より)


 失意の福来を救ったのが、神戸の三田光一です。

 大正6年(1917年)2月、福来は三田に箱を送り、浅草寺に掲げられている山岡鉄舟の額の文字を念写するよう依頼します。すると、見事「南無観世音」の文字が念写されていました。

三田光一三田光一が成功した念写
三田光一と、成功した「南無観世音」の念写
(「福来博士記念館」の展示)


 昭和6年(1931年)6月、三田は福来の求めに応じて、月の裏側の念写を行います。人類が月の裏側を初めて見たのは、1959年、ソ連の月探査機ルナ3号が撮影した画像でした。
 この画像により、三田の念写が実際の月の裏側と異なることが判明します(福来博士記念館では「正確に一致」としています)。

三田光一の月の裏側の念写
三田光一の月の裏側の念写
(「福来博士記念館」の展示)

ルナ3号が撮影した月の裏側
ルナ3号が撮影した月の裏側(NASAのサイトより)

 オカルトは、こうして市民権を得ていくのでした。


更新:2014年10月13日

<おまけ>

 福来はコックリさん(狐狗狸様)の研究もしています。
 コックリさんは、西洋では「ブランセット」と呼ばれる降霊術の一種。日本では「神降(かみおろし)」として昔からありましたが、特に明治21年に大流行しています。
 明治42年5月、福来が実験した「光子」という女性には、いつも清山という人物が降霊してきました。清山は歌を詠み、絵を描きますが、その自動書記による絵はこんな感じです。

こっくりさんの自動書記
こっくりさんの自動書記(『観念は生物なり』より)
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