この原稿は、机の奥から出てきたフロッピーに入っていたもので、たぶん、学生時代に誰かに頼まれて書いたモノだと思うんだけど。戦争によって発展したグラフィックデザインと戦争によってつぶされた日本映画を対比しています。今見ると、けっこう硬い文章で青臭さが目立ちますが、まぁ、内容は多分間違っていないので、そのまま公開しましょう。
グラフィックデザインは戦争が作った

 現在の消費文化を支える要素として、アートディレクションは欠かせない。ポスターデザインから雑誌のレイアウト、CDのジャケットにいたるまで、写真とテキストをいかに効果的に見せるかーーこの技術のよしあしで商品の売り上げは大きく異なってくる。
 それでは、日本のアートディレクションは、いったいいつ確立したのだろうか。意外にも戦時中というのがその答えだ。「NIPPON」と「FRONT」という2大雑誌がこの国のビジュアルデザインを作ったのである。

  雑誌「NIPPON」は昭和9年(1934)10月20日に創刊された。出版元は日本工房。ドイツ留学から帰国した名取洋之助が組織した会社である。名取は常々「日本がゲイシャやフジヤマだけでない近代国家であることを紹介する」対外雑誌を作りたいと考えていた。そのためには、体裁や紙面、印刷が美しいものでなければならない。 国を代表する雑誌である以上、美しさは至上命題であった。
 名取は財界に資金援助を求め、賛同した鐘紡が創刊号に出資してくれることになった。外務省の外郭財団法人・国際文化振興会も援助を決定。こうして、四六四倍判・総アート紙・64ページからなる豪華グラフ誌が創刊された。文章は英・仏・独・スペイン語併用。バウハウスの流れをくむドイツのグラフ誌を参考にした「NIPPON」は、わが国の出版史上、もっとも洗練された雑誌とされる。国内版定価は1円50銭、「週刊朝日」が一冊20銭の時代だから、その豪華さは自明だろう。「NIPPON」は年4回の季刊誌として、敗戦までに計36冊発行された。
ところで、なぜ1雑誌にこれほどの援助がなされたのか、不思議に思わないだろうか。実は、この前年、日本は満州問題を契機に国際連盟を脱会している。国際的な孤立を深めるなかで、官民ともに危機意識が強かったのである。
 だが、対外宣伝を担うメディアとして国家から援助を受ける以上、この雑誌が国策宣伝誌となるのはやむを得なかった。「真実を伝える」報道雑誌をめざした名取洋之助の夢は、こうして戦争に翻弄されていく。

  いっぽう、雑誌「FRONT」は最初から国威宣伝のために創刊された。ソ連のプロパガンダ雑誌「USSR in constraction」を参考に、陸軍の肝煎りで昭和17年に登場する。発行元は名取の日本工房から分かれた東方社。大きさはA3判、高級グラビア紙使用。当時最新の印刷技術を駆使したビジュアル誌である。文章は15カ国語、ドイツの潜水艦を利用してトルコまで移送、そこから各地にばらまいた(もっとも一冊が重すぎて、輸送力の低下した戦争後期は、ほとんど配布できなかったという)。
 内容は日本の国威宣伝に終始している。そのため、写真は修整に次ぐ修正で、戦車の数を増やすことなど当然のように行われた。映画のような構成で、モンタージュやクローズアップなどの技術を駆使した紙面は、現在から見ても非常に迫力がある。敗戦までに計10冊作られたが、戦後、GHQが「FRONT」に掲載されていた軍事工場(もちろん写真のトリックであって実在していない)を血眼になって探したというエピソードなどは、その質の高さを証明している。
 「NIPPON」のスタッフには、名取洋之助を筆頭に、カメラマン土門拳、デザイナー河野鷹思、亀倉雄策らがいた。「FRONT」にはカメラマン木村伊兵衛、浜谷浩、デザイナー原弘らがいた。理事には林達夫の名もあり、錚々たるメンバーであることがわかる。こうした人材が集まり、当時最新の技術を惜しげもなく使い、厳しい指導のもとで雑誌を作ったのだから、質が高いのは当然と言えば当然である。同時に、ここで育った若者たちが戦後のビジュアルデザインの世界に大きく貢献しことも、忘れてはならないことである。
 問題は、せっかく両紙が培った編集技術が、現在の雑誌制作には全く役立っていないことだ。完全に商業ベースに乗ってしまった今の雑誌には、レイアウトに凝る余裕などないのだろうか。「FRONT」のアートディレクションを受け継ぐものが自衛隊のポスターだけでは、あまりに寂しすぎる。


映画を生かせなかった日本政府
 曲がりなりにも戦争は、戦後グラフィックデザインに貢献したといえる。それでは、戦争は映像の世界には何をもたらしたのだろうか。戦争中はもちろんテレビはなかったので、映画を元に検証してみよう。
 戦時中の映画行政は、ドイツを参考にした「映画法」から始まる。昭和14年、日本初の文化立法として歓迎された「映画法」は、実体は国策映画を作らせるための文化規制だった。映画会社は3社に統合され、制作本数も各社月2本に限定された。こうした規制のもと、日本映画はひたすら戦争賛美をしていく。「上海陸戦隊」「土と兵隊」「ハワイ・マレー沖海戦」などなど。特撮を駆使したものも多いが、ほとんどは稚拙なものばかりであった。助成もおざなりで、映画をフルに活用したナチスと異なり、日本は結果的に映画をつぶす方向に動いていたのである。その姿勢は戦況の悪化とともにますますひどくなる。そして開戦直 後、内閣情報部は映画界にこんな通達を出したという。「今後、民間に回すフィルムは1フィートもない。映画界はよろしく善処されたい」
 それでは、対外映画はどうであったろうか。昭和12年夏、満州に「満州映画協会」いわゆる「満映」が発足する。理事長には甘粕正彦が就任。「ラストエンペラー」で坂本龍一が演じた男である。映画の内容は「満州人に娯楽を与えるもの」とされ、李香蘭主演の映画などが数多く作られた。
 中国を舞台にした映画の多くには共通のパターンがあった。つまり反日思想の中国人が、何かのきっかけで日本人の温かい心に触れて、親日的になっていくーーというものだ。こんな映画が受けるはずがない。結局、プロパガンダでしかない日本映画は、戦争でなんら進展することはなかったのである。
 内容のレベルの低さは実写だけではなかった。戦中のアニメーションも、出来はかなり悪かった。日本初の長編アニメとされる「桃太郎の海鷲」。軍人・桃太郎が、部下の猿・雉・犬をつれて鬼(鬼畜米英のことだ)をやっつけるという単純なストーリーである。同じ時期、ディズニーもプロパガンダアニメを作っていたが、質は比較にもならない。制作者自身が、1941年のディズニーアニメ「ファンタジア」を見て愕然としたという話があるくらいなのだから。
 「桃太郎の海鷲」の制作者たちは、2年後、「桃太郎 海の新兵」という国策アニメを再び作ることになる。このアニメはあの手塚治虫も見たという。戦時中「漫画ばかり書いて」と非難され、非常に肩身の狭かった手塚は、この作品をいったいどのような思いで見たのだろうか。

 昭和18年、一人の映画監督がシンガポールを訪れた。目的はビルマ戦線の戦争映画を撮ることだったが、戦局はもはや映画を撮る余裕さえなかった。結局、映画は撮れず、職を失うことになる。だが、陸軍報道部映画班の所属だった彼は、肩書きを利用して、接収された外国映画数百本を見続けたという。国内では外国映画を見る機会なんて、もはやほとんどない時代にである。この経験が、彼に多大な影響を与えたことは言うまでもない。後に、世界中で熱烈な人気を誇った映画監督・小津安二郎のルーツは戦争にあったのである。
 リーフェンシュタールなど有能な監督を駆使して国策映画を大量に作ったドイツ。そのドイツを意識して映画法を作った日本。しかし、日本の映画行政は、映画を利用するどころか逆につぶす結果を招いてしまった。映像の効果を知らなかった日本の、決定的な失敗であった。