「ビジュアル・デザイン」の誕生

プロパガンダ雑誌『FRONT』
雑誌『FRONT』で使われた画像

 以下の原稿の前半は、2009年、銀座の画廊で開催された「名取洋之助写真展」のパンフレットに解説として掲載されたものです。

●グラフィックデザインは戦争が作った

 現在の消費文化を支える要素として、アートディレクションは欠かせない。ポスターデザインから雑誌のレイアウト、CDのジャケットにいたるまで、写真とテキストをいかに効果的に見せるかーーこの技術のよしあしで商品の売り上げは大きく異なってくる。
 それでは、日本のアートディレクションは、いったいいつ確立したのだろうか。意外にも戦時中というのがその答えだ。『NIPPON』と『FRONT』という2大雑誌がこの国のビジュアルデザインを作ったのである。

  雑誌『NIPPON』は昭和9年(1934)10月20日に創刊された。出版元は日本工房。ドイツ留学から帰国した名取洋之助が組織した会社である。名取は常々「日本がゲイシャやフジヤマだけでない近代国家であることを紹介する」対外雑誌を作りたいと考えていた。そのためには、体裁や紙面、印刷が美しいものでなければならない。国を代表する雑誌である以上、美しさは至上命題であった。

 名取は財界に資金援助を求め、賛同した鐘紡が創刊号に出資してくれることになった。外務省の外郭財団法人・国際文化振興会も援助を決定。こうして、B4変形判・総アート紙・64ページからなる豪華グラフ誌が創刊された。文章は英・仏・独・スペイン語併用。バウハウスの流れをくむドイツのグラフ誌を参考にした『NIPPON』は、わが国の出版史上、もっとも洗練された雑誌とされる。国内版定価は1円50銭、『週刊朝日』が1冊20銭の時代だから、その豪華さは自明だろう。『NIPPON』は年4回の季刊誌として、敗戦までに計36冊発行された。

 ところで、なぜ一雑誌にこれほどの援助がなされたのか、不思議に思わないだろうか。実は、創刊の前年、日本は満州問題を契機に国際連盟を脱会している。国際的な孤立を深めるなかで、官民ともに危機意識が強かったのである。
 だが、対外宣伝を担うメディアとして国家から援助を受ける以上、この雑誌が国策宣伝誌となるのはやむを得なかった。「真実を伝える」報道雑誌をめざした名取洋之助の夢は、こうして戦争に翻弄されていく。

『興亜之日本』
『興亜之日本』
陸軍省情報部が大陸宣撫資料社を通じて中国にばらまいたプロパガンダ雑誌『興亜之日本』(昭和14年)


『NIPPON』は大きな成功を収めたが、その成功を羨望のまなざしで見ていた組織があった。それはこのころ絶頂の極みにあった陸軍である。当時、日本の情報機関は内閣情報部、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部などさまざま存在していたが、なかでも陸軍は中国大陸に進出していたから、プロパガンダの必要性を痛切に感じていた。

プロパガンダ雑誌『興亜之日本』
『興亜之日本』表紙

 陸軍は大陸宣撫資料社などを通じて中国語のプロパガンダ雑誌を発行していたが、その質はきわめて低かった。『NIPPON』は民間発行とはいえ外務省管轄だから、やすやすと手が出せるわけではない。では、どうしたら効果の高い宣伝雑誌が作れるのか? こうした試行錯誤の結果、もう一つの対外雑誌『FRONT』が登場することになる。『FRONT』は陸軍の肝煎りで昭和17年に登場した。ソ連のプロパガンダ雑誌『USSR in constraction』を参考に、当初から宣撫目的に創刊されたのだ。

プロパガンダ雑誌
『FRONT』から『大東亜建設画報』に流用された写真 
 
 発行元は名取の日本工房から分かれた東方社。大きさはA3判、高級グラビア紙使用。当時最新の印刷技術を駆使したビジュアル誌である。文章は15カ国語、ドイツの潜水艦を利用してトルコまで移送、そこから各地にばらまいた(もっとも1冊が重すぎて、輸送力の低下した戦争後期は、ほとんど配布できなかったという)。

 内容は日本の国威宣伝に終始している。そのため、写真は修整に次ぐ修正で、戦車の数を増やすことなど当然のように行われた。映画のような構成で、モンタージュやクローズアップなどの技術を駆使した紙面は、現在から見ても非常に迫力がある。敗戦までに計10冊作られたが、戦後、GHQが『FRONT』に掲載されていた軍事工場(もちろん写真のトリックであって実在していない)を血眼になって探したというエピソードなどは、その質の高さを証明している。

 参考ながら、東方社は参謀本部の協力下にあったため、ここで作られた宣伝写真が全国の新聞に掲載されたこともあった。当時のスタッフだった多川精一氏の『焼け跡のグラフィズム』(平凡社)によれば、たとえば所沢上空の空中戦の模擬演習の写真がエアブラシで改変されて、南方でのアメリカ空軍との空中戦に化けたのだという。

プロパガンダ
ニューギニアの空中戦に化けた読売新聞の報道写真。元画像は浜谷浩撮影


『NIPPON』のスタッフには、名取洋之助を筆頭に、カメラマン土門拳、デザイナー河野鷹思、亀倉雄策、山名文夫らがいた。戦後、河野は札幌オリンピック(1967年)のポスターを制作しているし、亀倉は東京オリンピック(1964年)や大阪万博(1970年)のポスターを制作した。また山名は資生堂の一連のデザインを手がけることになる。
 片や『FRONT』にはカメラマン木村伊兵衛、浜谷浩、デザイナー原弘らがいた。理事には林達夫の名もあり、こちらも錚々たるメンバーであることがわかる。こうした人材が集まり、当時最新の技術を惜しげもなく使い、厳しい指導のもとで雑誌を作ったのだから、質が高いのは当然と言えば当然である。

 『NIPPON』や『FRONT』で育った若者たちが、戦後のビジュアルデザインの世界に大きく貢献したことは疑うべくもない。しかし、問題は、せっかく両誌が培った編集技術が、現在の雑誌制作には全く役立っていないことだ。完全に商業ベースに乗ってしまった今の雑誌には、見るべきレイアウトや印象深い写真などほとんどないと言っていい。『FRONT』のアートディレクションを受け継ぐものが自衛隊のポスターだけでは、あまりに寂しすぎる。

●真珠湾攻撃がもたらしたアニメと特撮の萌芽

 曲がりなりにも戦争は、戦後グラフィックデザインに貢献したといえる。それでは、戦争は映像の世界には何をもたらしたのだろうか。戦時中にもテレビ自体は存在したのだが、一般に普及していたわけではないので、映画を元に検証してみよう。

 昭和13年(1938)、日本映画界は空前の繁栄を謳歌していた。東宝と松竹を中心とする6つの映画会社が競って作品を作り、その数はアメリカを抜いて世界一だった。ところが、翌年、日本初の文化立法として歓迎された「映画法」が施行されたことで、一転、停滞の時代に入る。

「映画法」は、1934年にドイツで制定された同名の法律をモデルにしており、実体は国策映画を作らせるための検閲だった。映画会社は3社に統合され、制作本数も各社月2本に限定された。こうした規制のもと、日本映画はひたすら戦争賛美をしていく。『上海陸戦隊』『土と兵隊』など作品はいくらでもあげられるが、ほとんどは稚拙なものばかりだった。ナチスのように映画をフル活用することはなく、日本は結果的に映画をつぶす方向に動いていった。その姿勢は戦況の悪化とともにますますひどくなる。そしてアメリカとの開戦直後、内閣情報部は映画界にこんな通達を出したという。
「今後、民間に回すフィルムは1フィートもない。映画界はよろしく善処されたい」

 それでは、対外映画はどうであったろうか。昭和12年夏、満州に「満州映画協会」いわゆる「満映」が発足する。理事長には甘粕正彦が就任。『ラストエンペラー』で坂本龍一が演じた男である。映画の内容は「満州人に娯楽を与えるもの」とされ、李香蘭主演の映画などが数多く作られた。
 中国を舞台にした映画の多くには共通のパターンがあった。つまり反日思想の中国人が、何かのきっかけで日本人の温かい心に触れて、親日的になっていくーーというものだ。こんな映画が受けるはずがない。結局、プロパガンダでしかない日本映画は、戦争でなんら進展することはなかった。

 日本映画は戦争で著しく質が低下したが、とはいえ、映画の底力はあなどれない。どん底の映画界から出た3人の映像の天才について触れておきたい。
 昭和16年12月、真珠湾攻撃で大きな勝利が報じられると、当然、その映画化が開始された。

桃太郎の海鷲
桃太郎の海鷲

 そのうちの1つは、日本初の長編アニメとされる『桃太郎の海鷲』。軍人・桃太郎が、部下の猿・雉・犬をつれて鬼(鬼畜米英のことだ)をやっつけるという単純なストーリーである。同じ時期、ディズニーもプロパガンダアニメを作っていたが、質は比較にもならない。制作者自身が、1941年のディズニーアニメ『ファンタジア』を見て愕然としたという話があるくらいだ。その悔しさを雪辱すべく、制作者たちは2年後に『桃太郎 海の新兵』という国策アニメを作る。 このアニメを見て動画の世界に目覚めたのが、若き手塚治虫だった。

 また、真珠湾攻撃を実写化したのが『ハワイ・マレー沖海戦』で、こちらは日本初の特撮映画と称されている。実はスペクタルシーンは円谷英二の指揮による。1800坪の広場に上空300メートルから見た真珠湾の模型を作り、実物の15分の1の軍艦模型を浮かべ、巨大ガラス越しに撮影したそうである。真珠湾攻撃は、戦後日本が世界に誇ることになるアニメと特撮映画の種をまいたのだった。

ハワイ・マレー沖海戦
ハワイ・マレー沖海戦

 最後の1人は、陸軍報道部映画班の所属だったある映画監督だ。昭和18年、ビルマ戦線の戦争映画を撮るためにシンガポールを訪れたものの、戦局の悪化で、もはや撮影の余裕はなかった。時間をもてあました彼は、やむなく肩書きを利用して接収された外国映画数百本を見続けたという。国内では外国映画を見る機会なんてほとんどない時代にである。この経験が、彼に多大な影響を与えたことは言うまでもない。後に、世界中で熱烈な人気を誇った映画監督・小津安二郎 のルーツは戦争にあったのである。

 ベルリンオリンピックを芸術的に表現したリーフェンシュタールなど有能な監督を駆使して国策映画を大量に作ったドイツ。そのドイツを意識して映画法を作った日本。しかし、日本の映画行政は、映画を利用するどころか逆につぶす結果を招いてしまった。映像の効果を知らなかった日本の、決定的な失敗である。だが、天才はその陰でひそかに映画への熱意を育んでいたのだった。

更新:2009年4月28日

<おまけ>
 当時は、国鉄なんかも対外的グラフィック雑誌を出していました。こちらが国鉄の『JAPAN』(1938年?)です。
国鉄のグラフィック雑誌
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