帝都「東京」の成立について
明治天皇の遷都御東幸
明治天皇の遷都御東幸
(明治大帝御事跡記念博覧会)


 従来「江戸」といわれた街は、いったいいつ「東京」になったんでしょう? 『江戸が東京になった日』という本によれば、公式的には東京の成立は「遷都」ではなく、都を定めるという意味の「奠都(てんと)」だったといいます。

《じつは東京への遷都にかんして、政府からの公的な声明がなかったのである。法令も布告・布達も一切なかった。平安遷都の際のような、天皇の詔(みことのり)もなかった。しかしだからといって、遷都でなかったということではない。当時の政府首脳は、はっきりと遷都であると認識していたのである。ただし同時に、遷都への反対論者や京都の市民への配慮から「遷都の発令」は急がなくてもよいと主張していたのである》

 かくして遷都発令のタイミングを失ってしまったというわけ。

 で、京都から江戸への遷都の過程を簡単に書いておくと、慶応4年、大阪へ長期行幸があり、その後、東京へ行幸、1度京都に戻り、さらに東京へ行幸、ここで遷都が確定します。ただし、現在まで正式に遷都が発表されたわけではないので、あくまで京都も“都”ではあるんですな。

 以下、年表風に遷都史をまとめるよ。


慶応4年(1868=明治元年)

●1月17日 大久保利通が“大阪遷都”を政府に進言
「数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし……遷都之地は浪華(なにわ)に如くべからず」
●3月21日 大阪行幸。50日ほどで京都へ戻る
●4月11日 江戸城無血開城
●4月 前島密の江戸遷都論
「帝都を茲(=江戸)に遷さば、内は百万の市民を安堵し、外は世界著名の大都を保存し、皇謨(こうぼ)の偉大を示す」

●7月17日の詔書で、江戸を東京と改称
「朕今万機を親裁し、億兆を綏撫(すいぶ)す、江戸は東国第一の大鎮、四方輻湊(ふくそう)の地、宜しく親臨以て其政を視るべし、因て自今江戸を称して東京とせん、是朕の海内(かいだい)一家東西同視する所以なり、衆庶(しゅうしょ)此意を体せよ」
●9月8日 明治と改元
●9月20日 午前8時、天皇は鳳輦(ほうれん)に乗って御所出発。総勢3300人
天皇の鳳輦(←拡大バージョンあり)
東京府中橋通街の図、第二東京府京橋の図(大蘇芳年)。実寸では36×144cmにもなる。
(後方の鳳輦〈ほうれん〉に乗っているのが明治天皇)

●10月13日午後2時過ぎ 江戸城入場。この日、江戸城を東京城と改める
「十月十三日御沙汰書 御東臨の節は当城を以て皇居と定められ候に付き、以来東京城と称すべき事」

●11月4日 東行のお祝いとして酒が下賜される。
 参考までに内訳は
・大町433町(100軒以上)一町あたり3樽
・中町469町(50軒以上)一町あたり2樽
・小町673町(50軒以下)一町あたり1樽
 これに加えてスルメ1700把が配られ、東京では大宴会が!

●12月8日 京都に還幸(総勢2150人。京都着は12月22日)

明治2年

●3月7日 京都再出発
東京遷都
●3月28日 正午頃、東京城入場。この日、政府は次のように発表
「東京城西ノ丸ヘ御駐簾(ちゅうれん)、依テ、皇城ト称ス」

 この宣言をもって、帝都東京が誕生するのでした。

更新:2005年4月17日

広告
© 探検コム メール