東京天文台とプラネタリウムの誕生

日本初のプラネタリウム
日本初のプラネタリウム(大阪)


 宮沢賢治が1923年頃に書いた童話『土神と狐』に、次のような文章があります。樺の木が狐に「どうして星には赤や黄や緑のがあるの?」と聞くと、狐はこう答えます。以下、青空文庫より長めの転載です。

「星に橙(だいだい)や青やいろいろある訳ですか。それは斯(か)うです。全体星といふものははじめはぼんやりした雲のやうなもんだったんです。いまの空にも沢山あります。たとへばアンドロメダにもオリオンにも猟犬座にもみんなあります。猟犬座のは渦巻きです。それから環状星雲(リングネビュラ)といふのもあります。魚の口の形ですから魚口星雲(フィッシュマウスネビュラ)とも云ひますね。そんなのが今の空にも沢山あるんです。」
「まあ、あたしいつか見たいわ。魚の口の形の星だなんてまあどんなに立派でせう。」
「それは立派ですよ。僕水沢の天文台で見ましたがね。」
「まあ、あたしも見たいわ。」
「見せてあげませう。僕実は望遠鏡を独乙(ドイツ)のツァイスに注文してあるんです。来年の春までには来ますから来たらすぐ見せてあげませう。」

 本当は狐は望遠鏡なんて注文してないんですが……それはまぁそれとして。
 今回はこの物語から、天文台とプラネタリウムの歴史を見に行きます。



 まず、狐が解説した猟犬座にある渦巻銀河はM51と呼ばれるものです。これは世界で初めて渦巻状と確認された銀河ですね。
 一方、環状星雲(魚口星雲)はこと座にあるリング状のM57のことです。

りょうけん座 こと座
左=りょうけん座。赤丸は北斗七星の柄の突端。青丸がM51
右=こと座。赤丸は一等星ベガ。青丸がM57


 さて、この星座図は今では見慣れたものですが、一体誰が作ったのか?
 答えはジョン・フラムスチード(フラムスティード)というイギリスの天文学者で、初代のイングランド王室天文官です。かのニュートンのライバルで、観測記録である『天球図譜』の公刊をめぐって裁判までしています。
 このフラムスチードが建設したのが、有名なグリニッジ天文台。『天球図譜』は以後何世紀にもわたって航海に重用された結果、自然とグリニッジ天文台が経度0度という基準点となったわけです。


 天文台は古代から作られてきましたが、世界初の近代的な天文台はデンマークのコペンハーゲン天文台(1637年)とされています。続いて、ポーランドのダンツィヒ天文台(1650)、パリ天文台(1667)、スウェーデンのルンド天文台(1970)、そして1675年にグリニッジ天文台が完成しました。

 では、日本はどうか。
 日本最古の天文台の記録は『日本書紀』674年に「占星台を作る」という記述があります。その後、土御門(つちみかど)家が司天台(してんだい)という天文台を作って観測を続けました。
 江戸時代には渋川春海が天文方に任命され、1689年、本所に天文台が作られました。以後、幕府の天文台は東京各地を転々とし、明治になって、開成学校(後の東大)へ引き渡されました。

 明治時代初期、日本には3つの天文台がありました。
(1)東京大学理学部の「天象台」(明治11年、本郷に設置)
(2)内務省地理局観測課天象部の「天象台」(明治4年、赤坂葵町に開設)
(3)海軍の「海軍観象台」(明治7年、麻布飯倉に開設)

東大の「天象台」
東大の「天象台」

 上の3つが、明治21年(1888)に合併し、「東京大学理科大学付属東京天文台」となりました。略して「東京天文台」、場所は海軍観象台があった麻布です。ちなみに日本の経緯度原点はこの場所にあります。

麻布の東京天文台
麻布の東京天文台
 
 東京天文台の初代台長は、東大教授の寺尾寿(てらおひさし)でした。彼は近代日本の天文学の基礎を作った人物で、水沢に緯度観測所を設置したり、日本天文学会を創設したりしました。冒頭の『土神と狐』では、狐は水沢の天文台で環状星雲を見たと言っていますが、まさにこの観測所のことですね。

水沢の緯度観測所
水沢の緯度観測所

 東京天文台は、寺尾の尽力で大正時代に三鷹に移動しました。土地はなんと10万坪。しかし、予算難で完全な引っ越しまでずいぶんと時間がかかりました。
 そして1988年、東京天文台は東大から離れ、文部省直轄の国立天文台となったのでした。

三鷹の東京天文台 三鷹の東京天文台
三鷹の東京天文台(1930年頃)



 さて、ここでもう1度、冒頭の『土神と狐』に戻ります。
 狐はドイツのツァイスに望遠鏡を注文したとウソをつくんですが、当時、望遠鏡といえばカールツァイスでした。

カールツァイス
ちなみにこれが昭和2年(1927)の広告


 この広告をよく見ると、製品リストに諸星運行説明用星辰儀とあります。これがプラネタリウムですな。
 世界初のプラネタリウムは、1923年にカール・ツァイスによって発明されました。約4500個の投影を行うことが出来たといいます。

 では日本最初のプラネタリウムはいつどこに設置されたのか?
 答えは昭和12年(1937)、大阪の電気科学館(現在の大阪市立科学館)です。世界で25番目、東洋唯一のプラネタリウムで、もちろんカール・ツァイス製(23号機)。約9000個の投影ができました。
 東京で最初のプラネタリウムは、1938年、有楽町にオープンした東日天文館でした。東日とは東京日々新聞(現毎日新聞)のことで、後に毎日天文館と改称します。こちらはカール・ツァイス26号機。

電気科学館 東日天文館のパンフレット
電気科学館と東日天文館のパンフレット


 作家の織田作之助は『わが町』でプラネタリウム体験を書いています。

《(電気科学館)には日本に二つしかないカアル・ツァイスのプラネタリュウム(天象儀)があり、この機械によると、北極から南極まで世界のあらゆる土地のあらゆる時間の空ばかりでなく、過去・現在・未来の空まで居ながらにして眺めることが出来るのだという次郎の説明をききながら、昇降機に乗って、六階で降り「星の劇場」へはいっていった。
 円形の場内の真中に歯医者の機械を大きくしたようなプラネタリュウムが据えられ、それを円く囲んで椅子が並んでいる。
 腰を掛けると、椅子の背がバネ仕掛けでうしろへそるようになっていた》

 
 戦前、日本にはこの2台しかプラネタリウムはありませんでしたが、1945年、毎日天文館は空襲で焼失します。
 東京の庶民が再びプラネタリウムを楽しむことができたのは、渋谷に五島プラネタリウム(2001年閉館)がオープンする1957年のことでした。

制作:2007年3月18日


<おまけ> 
 カール・ツァイスが圧倒的なブランド力を誇っていた望遠鏡ですが、日本で作っていたのは1926年に設立された五藤光学研究所しかありませんでした。その五藤光学がプラネタリウムの開発に成功するのは昭和34年(1959)のこと。今ではプラネタリウム・メーカーとして世界40%のシェアを占めています。
五藤光学の望遠鏡
五藤光学の望遠鏡の広告の一部(1927)

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