吉原400年サバイバル史

花魁道中
花魁道中。最後に行われたのは1950年4月9日


 横浜が開港した翌年(1860年)、幕府は江戸の山王祭に各国の公使や将校を招きました。神田橋門内の長屋に桟敷を組んで、日本酒や踊りで接待したのです。日本人と外国人が交歓したというのは、これが開国以来初めてのことでした。
 宴席で外国人は「今度は劇場に行きたい」と言いますが、幕府側は「テロリストが恐いから」との理由で断りました。しかしそれ以外は和気あいあいとした楽しい時間だったようです。

 さて、そろそろ宴もお開きになる頃、外国人から「吉原に行ってみたい」との声が上がります。それを聞いた幕府側は血相を変えてこう言いました。
「あんな遊郭、日本の武士の間では言葉に出すことさえ恥ずかしく、もちろん足を踏み入れるような場所ではありません。まして外国の賓客に見せるなんて思いもよりません!」

 外交官の間でも有名だった天下の吉原、400年のサバイバル史を公開です!


 吉原はもともと現在の日本橋人形町近辺にありました。このあたりは当時誰も住んでいないアシばかり生えている沼地で、昼間でさえ強盗が出るような荒れ地でした。それで売春窟でもつくれば、ちょっとはましな土地になるだろうと、吉原が開設されました。アシばかり生えてる原っぱ、アシは「悪(あ)し」に通じるので「よし」と言い換え、「よしはら」になったというのが通説です。その後、吉原は現在の場所に移るので、移転前を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ぶようになりました。

張見世
格の低い小規模店には「張見世」と呼ばれる顔見せシステムがありました


 名前の由来には別の説もあります。

 徳川家康が江戸に来ると、全国から男女問わずあらゆる人たちが成功を夢見てやってくるわけですよ。特に東海道を通って、関西から大量に人がやってきました。それで、元吉原の近くには堺町だの和泉町だの浪花町だの、さらに住吉町、大坂町、伊勢町などなど、多くの関西系の地名が残ってるんですな。

 当然、遊女も、伏見橦木町や奈良木辻町といった有名な遊女街から大挙して江戸にやってきました。そのなかで静岡県富士市の元吉原の女郎たちがもっとも美人だったので、元吉原と名付けたという説。昔はこちらの方が有力でした。

 もう少し吉原誕生について書いておくと、江戸が開かれ、最初は麹町、鎌倉河岸、大橋内柳町の3つが比較的大きな売春街でした。もちろん、幕府は取り締まるため、摘発と摘発逃れのいたちごっこが続いていました。

 あるとき、柳町で娼家を経営していた庄司甚右衛門が中心となって、きちんとした遊郭を作ろうと幕府に働きかけます。それで幕府は元和3年(1617)に許可を出し、市内の傾城地(売春街)をまとめ、荒れ地だった場所に遊郭を作らせたわけです。

 甚右衛門には「エリア外の営業禁止」「1泊より長い逗留禁止」「派手な衣装や建築は禁止」といった義務が課せられましたが、逆に風俗営業の独占権を得ることができました。営業開始は元和4年11月。これが幕府公認の遊郭・吉原の誕生です。

 38年間も独占営業の続いた吉原は、明暦2年(1656)秋、本所か浅草日本堤に移れと命令されます。やむなく日本堤への移転を決めたところ、翌年の正月に明暦の大火があって元吉原は全焼。移転は迅速に進み、明暦3年、新吉原が開業します。
 ちなみに火事は江戸の華と言われますが、吉原は江戸時代、何度となく火事で焼けています。しかし、そのたびにあっという間に復活するんですな。やっぱり色町は強いです。

新吉原
江戸時代の新吉原(江戸名所図絵より)


 ところで吉原を単なる売春街ととらえるのは間違い。もちろん安い女郎はたくさんいましたが、基本的には遊郭なので、遊ぶにはそれなりの教養と財産が必要でした。以下、そうした例を紹介してみます。

吉原 吉原
遊郭の内部。右は明治20年(1887)頃、当代随一といわれた名妓・金瓶楼の今紫


『江戸小咄集』に次のような小話があります。しかしながら、現代人にはまったくもって意味がわからない代物。

 ある男が年末、浅草の歳の市に行き、帰りに吉原に寄ったところ、ずいぶんともてた。家に帰ってもその女が忘れられず、思わず翌日も遊びに出かけた。すると女は大きなあぐらをかいている。男は怒って、
「いくら俺が野暮だからって、吉原にあるまじき対応じゃないか」
 と言うと、女はこう言った。
「市のうちにおいでなんしたから、こっちも立引(たてひき)、ろくにおりやす」


 ね? まったくわからないでしょ? しかし、最後の言葉で江戸の教養人ならフフフと笑えるんですよ。まさに吉原の文化を象徴するほどの深い意味があるんです。以下、解説です。

 まず、吉原では原則、最初に決めた女以外と会うことはできません。しかもすぐ一緒に寝られるわけではなく、1回目を「初会(しょかい)」といい、2度目を「ウラを返す」といい、3度目より「馴染(なじみ)」となって、ここでようやく床を同じくすることができます。

 遊女の言う「市のうち」というのは「“歳の市”の間に」ということです。「歳」と「サイコロ」をかけて「サイコロの1」、その裏側は(裏を返して)「6」。
(別の解釈では「いろは」の「い」が1番目、裏を返して2番目は「ろ」=6)
 それで「ろくにおりやす」となるわけです。「ろく」は「らく」と一緒で、要は「足を楽にさせてます」という意味。

 立引は「義理を通す」ということで、簡単にまとめると
「歳の市の間に2度も来てくれて本当にありがとう。感謝の証しに楽にしてます」
 という意味。客の男にすれば最高の言葉ですな。
 
 で、ここから先は推測なんですが、もしかしたらもっと深い意味があるかもしれません。
 というのは、立引は「遊女が客の遊興費を立て替える」という意味もあるんです。つまり、「あなたのことが気に入ったから、私がお金を払ってあげる」とも取れるんですよ。遊女が自分で支払うことを「身揚(みあがり)」と言い、これ自体は珍しいことではありませんでした。

 でも、こんなこと言われたらどんな男も舞い上がっちゃうよね〜。絶対3度目も行くに決まってる(笑)。

吉原大門 吉原大門
桃源郷の入口「吉原大門(おおもん)」(明治30年頃)


 ついでにもう1つ、お金に関しての話を。
 吉原では帳簿は暗号と符牒で書かれ、部外者にはまったく意味がわからない状態でした。あんまりひどいので、明治17年、各座敷間で一定の形式を定めました。その帳簿の一例(符牒)を公開しときます。

 ○(または●)……娼妓揚代 ヨ……夜 ヒ……昼 初……最初 ウ……裏 ナ……馴染
 △(または▲)……芸妓揚代
 □(または内)……台の物(食事)
 ロ……小さいロウソク ろ……大きいロウソク ヒ……火鉢 ユ……浴衣
 チ……茶 上チ……高級茶 ト……どてら ケン……上夜具 フ……掛け布団 
 吉原符牒酒1本 吉原符丁酒2本

 といった具合。では次の帳簿はどう読むか?

吉原
上段:ヨ(夜)に来てヒ(昼)帰った
中段:左が台(食事)3つ、右が酒5本
下段:チ(茶)ト(どてら)ユ(浴衣)ヒ(火鉢)ロ(ロウソク)各1ずつ

 すごい世界でしょ?


 さて、明治以降、吉原はさまざまな“災厄”に見舞われます。以下、年表風に書いていくと……

●明治5年(1872)、「娼妓解放令」で非合法化
「太政官布告295号」で吉原5000人の遊女を解放する。しかし、行き場のない遊女は私娼(隠売女=かくしばいじょ)となり、かえって問題化。明治8年、「東京府布達8号」で料亭形式の「貸座敷」を認可

吉原
明治時代の吉原

●明治44年(1911)、吉原大火で全焼

吉原炎上
炎上する楼閣(4月9日)

吉原
すぐに復興した吉原(大正時代)

●大正12年(1923)、関東大震災で全焼
 明治時代に250以上もあった置屋の数は、大正時代には150ほどに減っており、貸座敷が全盛となっていました。で、震災で全焼します。

吉原
 炎上中の吉原。左の木に伝言が見えるでしょうか? 芥川龍之介は震災直後の吉原に行き、こうした伝言の1つに「浜町の舟の中にいる」というのを見つけ、いたく感動しています。

《「舟の中に居ります」と云ふのは真面目に書いた文句かも知れない。しかし哀れにも風流である。僕はこの一行の中に秋風の舟を家と頼んだ幇間(ほうかん)の姿を髣髴(ほうふつ)した。江戸作者の写した吉原は永久に還(かえ)つては来ないであらう。が、兎に角(とにかく)今日と雖(いえど)も、かう云ふ貼り紙に洒脱(しゃだつ)の気を示した幇間のゐたことは確かである》(『大正十二年九月一日の大震に際して』)

吉原炎上
全焼した吉原

遊女の死体
遊女の死体

吉原慰霊祭 吉原慰霊碑
震災後すぐに行われた遊女慰霊祭。右は現存する慰霊碑

吉原
復興した吉原(昭和6年)。茶屋や置屋の数は、震災後まもなく元に戻りました

●昭和20年(1945)、東京大空襲で全焼

●昭和21年(1946)、GHQによる公娼廃止
 1946(昭和21)年、占領軍によって新宿、品川、千住などの公娼制度が廃止されました。以後「赤線」(特殊飲食店街)が誕生

吉原
制度廃止に沸く吉原の娼妓たち。しかし、結局、行く当てのない彼女たちはまた戻ってくるのでした

●昭和33年(1958)、赤線廃止で一斉廃業
 売春防止法の完全実施。この段階で、いわゆる「吉原」が消滅しました

●昭和60年(1985)、風営法施行で深夜営業禁止


 冒頭で触れたように、外国人からも羨望のまなざしを浴びてきた吉原。1984年にはトルコ風呂という名前がソープランドに変更。時代はバブル直前で、吉原には250店近いソープが軒を連ねました。
 当時は通りに人があふれて、道路の向こう側が見えないくらい混雑していたと言います。女のコが足りなくて順番待ちも珍しくなかったとか。

 しかし、バブルと前後してポン引きがあらわれ、さらにファッションヘルスやデリヘルなど新風俗の登場で、吉原は徐々に衰退していきました。
 そして現在。人通りはまばらで、そこかしこに「閉店」の張り紙もありました。まだ150軒ほどのソープが営業中だとはいえ、かなり寂しい状況でした。

吉原大門
現在の吉原大門

 地元で長く暮らした人が言ってました。
「店の経営者も今ではよそ者が多く、街への愛着がないんだよ。イベントもみんな消えちゃったし」
 地元有志が数年前、「吉原350年」を機に花魁道中を復活させようとしたところ、交通規制が難しいとの理由で警察の許可が下りなかったそうです。吉原の文化はもう復活しないのでしょうか?

●吉原大火について

制作:2009年10月25日

<おまけ>
 現在の風俗店では当たり前の「写真指名システム」は吉原が発祥です。1903年、「写真見世」が始まりました。
 風俗店ガイドも吉原が最初。『吉原細見』が有名ですが、この第1号である『あづま物語』はなんと寛永19年(1642)刊行です。
 ついでに人力車がほぼ最初に導入されたのも吉原。不便な場所にあるため、重宝されたわけです。
吉原人力車ビラ
吉原からの人力車のビラ

 ちなみに吉原大火、震災、東京大空襲で3度全焼した吉原ですが、町の構造は今でも江戸時代の土地計画のままだそうですよ。

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