写真と新聞記事で見る「吉原炎上」

炎上した吉原
炎上した吉原


 かつて「火事と喧嘩は江戸の華」と言われたほど、東京は火事に襲われてきました。
 明治中期以降は比較的少なくなるんですが、明治44年(1911)4月9日に起きた浅草の大火は非常に大きな被害をもたらしました。昼間だったことで死者は8人で済みましたが、花街の吉原が完全に壊滅しました。これが映画にもなった「吉原炎上」です。
 当時の報道では、被害額は吉原だけで500万円、すべて合わせて700万円だとされています。

炎上した吉原
炎上したエリア

 
 言うまでもなく、マスコミは大報道を繰り広げますが、特に『時事新報』は熱心に報じたので、明治44年4月10日付けの記事をそのまま引用しておきます。

 記事の読みどころとしては、
 ・蒸汽喞筒(ポンプ)が焼け、水も燃料も少なく、消火に苦労した
 ・道が舗装されてないので、炎で砂煙がすごかった
 ・火事を前に、隅田川の土手では野次馬が拍手喝采
 ・ポンプが少ないなか、近所の皇族邸には6台も配備され、万全の態勢が取られた
 ・現在の東京電力が1万人分の炊き出しを行った
 といったところでしょうか。
 
炎上した吉原大門
焼け落ちた吉原大門


浅草大火、吉原全滅

 9日午前11時30分、吉原より発火し、同廓内を全滅してついに廓外に及び、一方の火先は千束町より日本堤に沿いて地方今戸町、田中町、浅草町、玉姫町を襲い、また一手は南千住を焼き、意外の大火となりたり。左に取り敢えず社員よりの着報順に従い、その惨状を、左に記すべし。

炎上した吉原の家具
廓内花園に運び出した各妓楼の家具


火事、火事(第1報 午後2時30分)

 9日午前11時30分頃、浅草区新吉原江戸町2丁目20番地美華登楼こと鈴木浜之助方より火を失したるが、折柄西南の風強く、それ火事よと云う間に、火はたちまちにして同家を包み、見る間に両隣に燃え移り、更に向かい側に延焼して、ここに火力はいよいよ勢いを加え、両側の引手茶屋を焼き払いて大門に向かい、火先は早くも門外50間に軒を並ぶる飲食店、各商店を一甜(ひとなめ)にして、なおも日本堤に向かい土手の交番、日本堤警察署を灰燼となし、それより土手下なる地方今戸町に燃え拡がり、更に一方の火先は東町、田町2丁目より千束町3丁目方面に焼け延び、午後2時には既に千束町通りに燃え抜けたるが、火尻は京町1丁目、2丁目、揚屋町に延焼し、吉原はほとんどその3分の1を焼き払われんとする模様あり。

 罹災者はいったん定めたる避難所をも焼かれて逃げ場を失い、殊に廓内に在りては婦人、子供の叫喚、悲鳴の声、棟の焼け落つる響きと相和して凄惨を極めたるが、消防本署を始め各署の蒸汽喞筒並びに消防夫等必死となりて防火に努めたるも、火焔は強風に吹き付けられて地面を這い行く事とて手の下しようなく、殊に飛び火は一時に2、3ケ所より火の手を上げて、午後0時10分に至り下谷区龍泉寺町2番地へ飛び火し、たちまち四隣に延焼して彼我烟焔(えんえん)相応じて、ここにいよいよ大火となり、2時30分にはなお容易に鎮火する模様なきのみか、地方今戸町を焼きたる火先は、更に千住を襲わんとするの勢いを示せり。

炎上した吉原から逃げ出した遊女
龍泉寺町の妙見堂に逃げ出した遊女たち


枯野を焼くがごとし(第2報 同2時50分)

 地方今戸町に出でたる火先はますます猛烈を極め、新田中町全部、元吉町の一部を焼き払いたれば、この方面の避難民は一時浅草町電車通りへ家財を運びて、一息する間もなく、火は烈風に吹き上る砂煙とともに黄煙を渦巻き立て、あたかも枯野を焼くがごとく荒れに荒れ、今にも電車通りを越えて浅草町、山谷町へも燃え移らんずる勢いを示したるより、またもや避難所を変えねばならぬ仕儀となり、その混雑名状すべくもあらず。

 同方面に向かいたる社員は、難を冒して新吉町附近まで進みしも、煙と火熱のためここよりは一歩も進むことあたわず、また一方、千束町方面へ出でたる火は次第に南方へ燃え拡がり、田中町2丁目を焼き払うなど、意外の大火に逃げ迷いて煙に巻かれ無惨の焼死を遂げたるもあるべく、負傷者の続々として吉原病院に担ぎ込まるるを見たり。

炎上した吉原で焼け残った病院
唯一焼け残った吉原病院


蒸汽喞筒焼く(第3報 同3時10分)

 浅草町電車通りへ出でしに、火の手は約20間の幅を以ってついに玉姫町を襲い、吉野町全体、千住地方橋場は日本堤より火焔吹き付くため、非常の混雑を極め居れり。

 南千住方面も危急に陥りしかど、消防手不足にて同方面までは手が届かざるのみか、折角消防に尽力せんとするも、この辺はすべて水利不便なる上、火の手強くかつ早くして寄り附く事あたわず、消防隊はすこぶる苦闘に陥り、現に火の田中町、浅草町を包みたる際、第1及び第5消防署の蒸汽喞筒はこの方面に死力を尽して消防中、火足の早かりしため2台の喞筒はいつしか猛火に包まれ、馬を付けて避くるの猶予もなく、第5分署の分はわずかに命辛ら辛ら逃げ延びたるも、第1分署の蒸汽喞筒はついに猛火に包まれて、焼失するのやむなきに至れり。

 しかしてこの大火の報伝わるや、牛込陸軍士官学校附陸軍歩兵曹長糸谷清次郎氏は、あたかも25名の兵卒を率いてこの方面に在りたることとて、直ちに急に赴き、消防隊と協力して必死に活動したるが、なお赤羽工兵隊よりも兵士を急派しつつあり。

炎上した吉原で活躍した消防士
消防士の活躍


焼失戸数約3千(第4報 第4時15分)

 只今までに焼失したる戸数は約3千戸ならんと。なお前刻焼失したる日本堤警察署側にある消防署もこの災害に逢い、浅草区役所にては馬道8丁目なる富士小学校を避難所に充て、罹災民を収容し、非常なる混雑を極めつつあり。

 また9日はあたかも日曜日なりし事とて、浅草、向島辺へ来合わせ居たる陸軍の兵士等は、それと見るより5人、10人と所属隊毎に隊伍を組み、現場に駈け着け、警官、消防組以上の活動をなし居たるは人目を引きたり。


地獄と極楽(第5報 同4時40分)

 玉姫町方面にて玉姫神社及び玉姫小学校を焼き払いたる火の手は、今や東京瓦斯会社南千住の発生所を包み居れども、同建物は煉瓦造りの事とて、或いは無事なるを得んか。
 されど同処附近の草葺家屋はおおよそ焼け尽し、その附近へ避難したる罹災民は大騒ぎをなし居れり。

 また地方橋場町全部を焼きたる火の手は、汽車線路の土堤を越えて南千住に延焼し、附近の家屋を焼き尽し、同停車場も危急に瀕しつつあるが、風は今より20分程前より西風と変わり、烈しく向島方面へ吹き付け居るため、橋場町よりの火の粉は遠く隅田川を越え、向島寺島村に雨と降り下りたるより、この方面の人々も対岸の火事と傍観して居る騒ぎにあらず、いずれも同村民の狼狽その極に達し、各自屋上に昇り必死となりて防禦したるが、この日は日曜日の事とて墨田堤は非常の人出にて、川一筋を隔てたるあなたの阿鼻叫喚、焦熱地獄に引き換え、こなたの紜声乱舞、歓喜極楽の巷は面白き対照なり。

炎上した吉原
山谷町東禅寺の焼け残った地蔵


吉原全滅す(第6報 同5時45分)

 吉原廓内の貸座敷にて角海老楼外11軒は、一時類焼を免れんかと思われたるに、猛火は吹き募る烈風にますます勢威を逞しうして、ついに前記12軒にも延焼し、午後4時3、40分頃には、吉原遊廓は病院及び電燈会社出張所、憲兵屯所及び貸座敷楼主住宅を残して全く全滅し、なお大黒湯外8軒及び角町の鯉鮨もまた猛火に包まるに至れり。

 前記のごとく火勢は更に衰える様子なく、その火は千束町2丁目の電柱に燃え移りたるが原因となりて、同町にも火災起り、なお盛んに燃えつつあり。

 かかる猛火なるに水利悪しく、かつ発火より5時間余の良きに及べる事とて、蒸気喞筒の石炭に不足を生じ運転するあたわず、一時は呆然と袖手傍観の外なき有様なりしかど、かくてあるべきにあらざればと、瓦斯会社に向かって石炭の供給を交渉中なり。

 全焼失戸数はなお未詳なれど、1万戸には上りたるなるべし。吉原の辻岡病院にも火移りて、吉原病院また一時危険に瀕したれば、これまた患者を避難せしめ居れり。

炎上した吉原角海老
焼け落ちた角海老

 
南千住停車場焼く(第7報 午後7時30分)

 玉姫町を襲いたる火先は、行く手を遮る消防隊の手少なに乗じ、ますます猛威を逞しうして、同町護謨(ゴム)会杜の盛んに水を注ぎて防禦に力むるその甲斐なく、ついに同会社に燃え移り、百雷の一時に落つるがごとき大音響を発するとともに焼け落ちたりしかば、その風下に当る南千住地方橋場の山崎染工会社もたちまち火焔の中となり、一耐(ひとたま)りもなく焼失したれば、火は狭き道幅の向こう側なる東京瓦斯会社に移りて、これをも烏有(うゆう)に帰し終わりぬ。

 されば同瓦斯会社際の空地に避難し居たる罹災民は、折角取り出したる家財を運び去る暇もなく、身一つにて難を免れたれば、山なす家財はついに焼き失せたり。

 火焔はなおも止まるとも見えず、南千住停車場へ燃え移りて、破竹の勢いにて燃え立ちたれば、それに近く建てられたる東京紡績会社も危急に陥りたり。

 また橋場通り方面の罹災民は、同町福寿院裏に避難し居るもの6、700人の多きあり、いずれもただ茫然として渦巻く煙を眺め居る姿は、実(げ)にも哀れの極みなり。

 橋場町の住民等はもはやこの方面の火の手も弱りたる模様なれば、いささか安堵の色あるも、いつ風向き変わりて火焔の及び来たらずとも限らずとて、いずれも避難の用意に混雑し居れり。
(注:実際は南千住駅ではなく、隅田川駅の誤報。東京ガス会社も燃えませんでした)

炎上した吉原隅田川駅
焼失した隅田川駅


小松宮別邸は御無事(第8報 午後8時30分)

 今回の浅草大火に際しては、あたかも橋場なる小松後室宮邸は風下に当りたることとて、火事の報伝わるや、各皇族よりは御使いを馳せさせられ、各華族よりも本人または使いを以って御見舞い申し上げ、阿部府知事も逸早く駈け付けたり。

 また近衛第2聯隊は浅草大火と聞くや、午後12時頃、川村聯隊長自ら指揮して、館田大尉以下兵200名を引率して同宮家に伺候し、急に応ずる用意怠りなく、蒸気喞筒もまた6台来たりて宮家脇に備え、また宮家にても御避難用の御馬車6台を仕立て置きしに、幸いにしてこの方面の火の手は次第に衰えたれば、ついに御避難の事なくて止みたり。

 近衛第4聯隊の佐藤中尉は、下士以下50名を以って救護班を組織し、今戸より橋場附近の老人、小供の困難し居るものの救済に奔走し居たり。

 また東京電燈会社にては、今回の大火罹災民がその夜より宿るに所なく、喰うに食なき惨状に同情して、その日直ちに新橋花月、新花月を始め数軒の料理店に命じて、1万人分の炊き出しをなしたり。


横浜消防隊応援(第9報 午後8時40分)

 火事が意外の大火となりて、警視庁の消防隊のみにては何分にも手不足にて、火勢ますます猛烈を極め、いかなる大事に到るやも知れざる形勢となりたるより、警視庁にてはついに横浜消防隊に急を報じて応援を求めたれば、それ行けとばかりに蒸汽喞筒1台に兜を冠りたる消防手50名は、特に鉄道院の与えられたる便により午後6時7分新橋着にて上京し、直ちに現場に向け駈け付け、東京方と協力して消防に尽力し居たるはすこぶる異彩を放ちたり。


飛び火、千戸を焼失す(第10報午後9時30分)

 前報より先に当りて、浅草大火の余波は下谷区龍泉寺町206番地に飛び火し、同番地より209番地の間に一時に3ケ所より燃え上がりたるも、消防方は全部浅草方面に向かい居る事とて、火の燃え拡がるままとなし置きたるため、たちまち四隣に燃え移り、ついに金杉下町151番地を中心として、三ノ輪町に至る約千戸を焼失して、午後4時、辛くも鎮火したるが、区役所にては直ちに金杉小学校を救護所に充てて罹災民を収容し、また同町正燈寺に赤十字社の出張所を設けて傷病者の応急手当を施したるが、近衛第1聯隊第6中隊の一部の兵士は、この方面にありて救護事業に尽力せり。

 また神田錦町、東神田、西神田、外神田、万世橋、小川町、本郷駒込、追分の8警察署よりは、各20名の応援巡査を派して警戒に力め居たり。

炎上した吉原の避難民
待乳山小学校に集まった避難民


9時頃ついに鎮火(第11報 午後10時)

 阿修羅のごとく猛威を振うて四方八面に荒れ狂いし火の手は、吉原全廓を焦土に化したる上に、浅草町、山谷町、玉姫町より吉野町へと燃え抜け、南は吉野町30番地田中商店まで来たりしが、この時消防はここに全力を注ぎて必死と消防に尽力せしため、ついに夕刻7時近くに、同所にて喰い止むるを得たり。

 かくて南方の火の手ようやく衰えたれば、消防隊は更に北方なる橋場方面の消防に力戦、奮闘したるより、流石の暴猛なる火も次第に勢いを殺がれて、同9時頃全部鎮火したり。

炎上した吉原日本堤
火が消えたあとの日本堤



 なお、かつて吉原は「夜桜」の名所でした。
 桜は寛保元年(1741)に植えられたとされています。この年から夜桜見物が始まり、その人気を受け、翌年、団十郎の狂言『助六由縁江戸桜』が作られました。この舞台は満開の桜の一場面だけなんですが、庶民はこぞって観覧したと言われます。

 では、いったい吉原の夜桜とはどんな感じだったのか? 若月紫蘭の『東京年中行事』より引用しておきます。
 あまりに美しい文章なんで、けっこう長めですが。

吉原夜桜
吉原の夜桜(名所江戸百景「廓中東雲」)

《桜は、今は5代目の三河島の植惣が年々植え付けることになって、方々から珍しいのを珍しいのをとさがして来て植える。今年の桜は、天の川、普賢桜、遅桜、南殿、長州緋桜、虎の尾、車返し、大提灯、欝金桜など言う素人別にしても大凡(おおよそ)24種、本当に分けると110種、総数350株1000余本もあって、中には本郷あたりの大名屋敷から移して来た御衣黄(ぎょいこう)の欝金桜などの珍種もあり、植え付けの総費が1350円に上ったとやら。

 桜のぐるりには丈の低い青竹の垣をめぐらし、生い繁った株と株との間には、松、椿、楓、山吹、丁子(ちょうじ)なんどの下草をあしらい、植え込みの両側には一間置きぐらいに引手茶屋の名を記した、中は洋燈(ランプ)の朝顔燈籠を立て列ね、江戸の面影をそのままと言う両側の引手茶屋の軒並には、大文字、稲本、角海老、宝来の4つの貸座敷から寄贈の、白茶地に鶸(ひわ)と萌黄(もえぎ)をぼかし合って淡紅(とき)色の花の雲を染め抜き、真中には四楼の名を染め、ぐるりは匹田鹿(ひったが)の子に絞り上げた花暖簾(のれん)をだらりと垂れたあでやかさ、華やかさ。》 


《桜の植付けは大抵3月25日ときまって、4月1日は花開と言って引手茶屋の軒並に花暖簾を吊し、その晩から朝顔燈籠を立ててあかりをつける。芸者や花魁は「しまい」と言って客から約束をつけて貰う。そして4月の14、5日から20日頃にかけて花はポツポツと妍を競い出す。夕やみにまぎれて花魁の連中は張見世の前の半時一時間を、花の下を裲襠(うちかけ)姿でぞろりぞろりと道中ならぬ道中をやってあるく。そして、からかう冷やかしの連中と花魁とがどちらが女やら分からぬような言葉つきで毒づき合う。廓の中は矢張り女が強いか、からかいかけた男の方が却てやりこめられてしまうと言うような景色も見られる。

 こうして、50日を限って願い出た植込みも花が散ってしまえば元の賑わいはどこへやら消えてなくなって、春も暮れて5月になって、葉桜の取り払わるる廓の真昼は殊の外に淋しい。》

 吉原は、大火後まもなく復活しますが、10数年後、関東大震災で再び全焼します。
 もちろん、不死鳥のように再び復活するんですが、吉原で夜桜見物という文化は衰退していきました。
 火事は、家や財産だけでなく、文化も焼き尽くすんですな。

炎上した吉原
炎上前日の吉原


制作:2012年4月12日


<おまけ>
 江戸時代(明暦以降)から明治までの東京市中で起きた大火を列挙しておきます。これは浅草の火災に際し、当時の『時事新報』が参考記事としてあげたもの(明治44年4月11日付け)。【】内以外は原文のままです。

●明暦3年【1657】正月18日 20時間、北風【明暦の大火】
 本郷丸山本妙寺より出火、本丸、二ノ丸、三ノ丸、麹町を焼き築地に至る。いわゆる江戸3大火事の1なり。
●元禄11年【1698】9月6日 南風
 新橋南鍋町より出火、千住掃部宿に至る。
●元禄16年【1703】11月14日 西風
 四谷塩町より出火、青山、赤坂、麻布辺一円、芝海辺まで焼失。
●元禄16年【1703】11月29日 西北風
 小石川水戸藩邸より出火、本郷、谷中、浅草、本所、深川まで焼失。
●享保5年【1720】3月27日 南風
 日本橋より出火、千住に至る。
●享保10年【1725】2月14日 西南風
 青山窪町より出火、四谷、牛込、小石川、駒込、谷中、金杉まで焼失。
●享保12年【1727】12月10日 北風
 麹町表二番町より出火、芝海辺に至る。
●安永元年【明和9年、1772】2月29日 24時間、西南風【明和の大火】
 目黒行人坂より出火、千住大橋に至る。いわゆる江戸3大火事の1なり。
●寛政4年【1792】7月21日 20時間、南風
 麻布鴻ケ谷橋より出火、小石川に至る。
●文化3年【1806】3月4日 西南風【文化の大火】
 芝泉岳寺門前より出火、浅草に至る長さ3里、幅10町余。いわゆる江戸3大火事の1なり。
(泰平年表には神社、仏閣、武家屋敷等の外に、表町家16万96軒、裏町家111万1軒焼失すとあり、事実果してしかるや知り難し)
●文政12年【1829】3月11日 北風
 神田佐久間町河岸より出火、南は新橋、東は築地、西は堀端に至る南北1里余、東西20余町。
●天保9年【1838】4月17日 12時間、東南風
 日本橋小田原町より出火、南は日本橋、北は筋違御門内、西は堀端小川町辺まで焼失。
●弘化3年【弘化2年の間違い、1845】正月24日 16時間、西北風
 青山権田原より出火、二本榎、高輪に至る。
●弘化3年【1846】正月15日 23時間、西北風
 小石川より出火、本郷湯島辺焼失し、京橋、築地、佃島に至る。
●安政2年【1855】10月2日 
 大地震により同時に数10ケ所より出火、焼失場所長さ2里19町、幅平均2丁余。
●慶応2年【1866】11月9日 12時間、北風
 日本橋元乗物町より出火、京橋、石川島、佃島に及ぶ町数153町、長さ21町、幅7丁余。
●明治5年【1872】2月26日 西北風
 和田倉門内旧会津藩邸より出火、新橋、京橋間の町々を焼き、築地海岸に至る町数41町、長さ20町、幅平均4丁余。
●明治9年【1876】11月29日 1万戸、7時間、西北風
 日本橋数寄屋町より出火、新橋、京橋間ほとんど残らず、八丁堀より築地新港町に至る町数70町。
●明治12年【1879】12月26日 1万3464戸、7時間、西北風
 日本橋箔屋町より出火、石川島、築地に至る町数77町。
●明治14年【1881】1月26日 1万余戸、15時間、西北風
 神田松枝町より出火、本所、深川に及ぶ町数53町。
●明治25年【1892】4月10日 全焼4050戸、半焼102戸、土蔵8棟、物置55、11時間、北風強烈
 神田猿楽町21番地(めしや)より出火、表神保町、小川町通り、錦町1、2丁目、美土代町1、2、白河町1、2、3、新石町、鎌倉河岸等を襲い、この他数町焼失。

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