飛行機開発前史
ライト兄弟・世界初飛行への道

ライト兄弟「ライトフライヤー」号
「ライトフライヤー」号(1903年)


 大盗賊・石川五右衛門にはいろんな伝説があって、もっとも有名なのは、名古屋城の天守閣に大凧で昇って、金のシャチホコを盗もうとした話です。本来の「秀吉を暗殺するため伏見城に侵入した」というエピソードが、いつの間にか話が大きくなっただけで、記録には一切残っていません(名古屋も、九州の名護屋城の間違いだと思われます)。

 では、凧に乗って人は空を飛ぶことが出来るのか?
 これを実験したのが、電話を発明したグラハム・ベルです。ベルは、多面体の凧を制作し、何度も実験を繰り返しました。そして、3393面体という大凧を作り、助手を乗せてボートで引っ張り、50mほどの高さまで飛ばすことに成功します。

グラハム・ベルの凧の実験
グラハム・ベルの凧の実験

グラハム・ベルの凧の実験
グラハム・ベルが成功した3393面体の有人凧


 世界で初めて飛行機で空を飛んだのはライト兄弟ですが、正確に言うと、これは「動力付きの飛行機」です。それ以前から、人類は何とか空を飛ぼうとさまざまな努力を重ねてきました。
 今回は、そんな飛行機開発前史です。


 史上初めて飛行機を制作したのは、9世紀、後ウマイヤ朝のアッバース・イブン・フィルナスのようですが、一般的にはレオナルド・ダ・ビンチだとされます。
 ダビンチは、鳥のように飛ぶため、こうもりの羽をヒントにした翼を発明します。解剖学的な研究から、翼と空気抵抗の関係を調べ、1490年頃に翼を開発するのです。

レオナルド・ダ・ビンチの蝙蝠翼の設計図
レオナルド・ダ・ビンチ「蝙蝠翼」の設計図


 ダビンチが発見した翼に関する知見は以下の通りです。

(1)飛行は空気抵抗によるもので、目的物が空気に働きかけるのと同じだけ、空気は目的物に働きかける
(2)羽には「重心」と「圧力の中心」という2つの中心があり、この2点は、安定した平衡のために調節される
(3)空気の流動は大きな発見であり、鳥を見れば観察できる。ただし、鳥は翼を動かさないで飛ぶことも出来る
(4)鳥の翼は飛び上がるとき都合がいいように、上面は自然な凸面で、下面は凹型になっている
(5)山などの地表の変化で、空気の渦巻やエアポケットが出来る


 そして、「世界初の飛翔はフィレンツェ近郊のスワン山で実現され、成功すれば天地は賞賛に満ち、それが巣立った巣は久遠の栄光に包まれるだろう」と書き記しています。

 ダビンチの翼は、人間がバタバタと翼を動かす羽ばたき式で、これは英語でオーニソプター、日本語では鼓翼式などと呼ばれます。
 レオナルド・ダ・ビンチは、このほか、ヘリコプターやグライダーも考えますが、結局どれも飛行は実現できませんでした。

レオナルド・ダ・ビンチ蝙蝠翼飛行機の模型
レオナルド・ダ・ビンチ蝙蝠翼飛行機の模型


 ダビンチに続いてオーニソプターを発明したのは、フランス人の錠前屋ベスニエで、1678年のことでした。
 2本の棒の両端に、蝶番(ちょうつがい)でつなげた翼を付け、前の方を握り、後端と両足を結んでバタ足の要領で羽ばたく形式でした。

ベスニエのオーニソプター
ベスニエのオーニソプター


 1742年には、フランスでド・バックヴィルが羽ばたき式飛行機でセーヌ川の横断に挑戦するも、墜落し片足を骨折します。
 1763年には、ドイツ人メルヒオール・バウアーが「空中車」を考案。これは固定翼(揚力)と、人力で動かせる可動翼(推力)がついていて、世界で初めて「揚力と推力を別々に発生させる」という概念を形にしたものです。

メルヒオール・バウアー「空中車」
ドイツの切手に描かれた「空中車」(右下、ウィキペディアより)


 その後、1927年にジョージ・ホワイトがオーニソプターを制作するなど、さまざまなチャレンジが続けられましたが、これまで人力による羽ばたき式で成功した例はありません。

ジョージ・ホワイトのオーニソプター
ジョージ・ホワイトのオーニソプター


 羽ばたき式の実験に並行して行われたのが、凧式とグライダー式です。
 イギリスの工学者・ジョージ・ケイリーは、1799年頃、航空機に働く4つの力(推力、揚力、抗力、重力)を発見し、固定翼のアイデアを思いつきます。そして、このアイデアを具現化し、1850年頃、グライダーによる有人滑空を実験するのです。

 1856年には、フランスのルブリがアホウドリの飛行(翼を動かさない滑空)を見て、人間も風圧を受ければ飛べると考え、操縦装置のついたグライダーを制作し、200mの飛行に成功。そして1868年、ロンドンの水晶宮で開かれた世界初の航空展覧会で10mほどの滑空を披露しています。

ルブリのグライダー
ルブリのグライダー


 1891年、ドイツのオットー・リリエンタールはハンググライダー(単葉式滑翔機)で25mの飛行に成功。次に複葉式のグライダーでも実験成功し、1895年にハンググライダーの特許を取得します。
 しかし、1896年には墜死してしまいます。

リリエンタールのハンググライダー
リリエンタールのハンググライダー(単葉式滑翔機)

リリエンタールのハンググライダー
リリエンタールのハンググライダー(複葉式滑翔機)


 このグライダーはどんどん羽が増えていき、イギリスではピルチャーが多葉式滑翔機を開発します。ピルチャーは石油発動機を搭載した飛行機の開発を目指しますが、やはりまもなく墜死してしまいます。

ピルチャーの多葉式滑翔機
ピルチャーの多葉式グライダー


 すでに発動機も小さくなっており、このころ、ハイラム・マキシムやクレマン・アデールによって、機械式の飛行機が次々と実験されています。

クレマン・アデールの固定翼・蒸気飛行機「アヴィオン号」
クレマン・アデールの固定翼・蒸気飛行機「アヴィオン号」(1897年)


 そして、1903年、アメリカのサミュエル・ラングレーは50馬力の発動機付き飛行機(総重量730kg)を完成させ、ポトマック川で2回の試験飛行を行います。もともとバネの力で飛行しようとしていたラングレーは、このときカタパルトで飛行機を射出しますが、実験は両方ともうまくいきませんでした。

サミュエル・ラングレーの飛行機
サミュエル・ラングレーの飛行機


 このころ、ライト兄弟は何をやっていたのか。
 ライト兄弟は、1900年にグライダーで初飛行します。1901年、シャヌートのアドバイスを受けたグライダーで、約120mの飛行に成功。

ライト兄弟が練習した最初のグライダー
ライト兄弟が練習した最初のグライダー(1900年)

シャヌートの飛行機
シャヌートのグライダー

ライト兄弟の飛行機
シャヌートのグライダーそっくりのライト兄弟のグライダー(1901年)


 そして、1903年12月17日、ノースカロライナ州キティホークで12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー」号によって有人動力飛行に成功します。
 この日は、合計4回の飛行が実施されました。1回目は12秒で120フィート(約37m)、2回目は175フィート(約53m)、3回目は200フィート(約61m)、そして4回目は59秒で852フィート(約260m)の飛行でした。

ライト兄弟の初飛行
ライト兄弟「ライトフライヤー」号の初飛行(1903年)


 実は、前述のサミュエル・ラングレーの飛行は1903年10月7日と12月8日だったため、そのすぐ後のライト兄弟の初飛行は、当初、非公式のものとされました。

 1907年、グラハム・ベルは「航空実験協会」(アエリアル・エクスペリメント・アソシエーション=AEA)を作り、凧とグライダーの知識をエンジン搭載の飛行機へ応用する仕事を始めました。このAEAに参画したのがグレン・カーチスで、1908年7月4日、「ジューン・バグ」号で初飛行に成功します。
 当初は、これが世界初の動力飛行機による飛行とされたわけです。

 ライト兄弟もグレン・カーチスも特許を申請しており、お互いに特許侵害で大訴訟合戦が始まります。グレン・カーチスはサミュエル・ラングレーの失敗した飛行機を復元して特許戦争を有利にさせるなど、係争は泥沼化。

ライト兄弟の飛行機特許
ライト兄弟の飛行機の特許(1906年)

 
 しかし、1917年に第一次世界大戦が始まると、アメリカは政府主導で「航空機製造業協会」を設立し、特許の集中管理を始めます。結局、ライト兄弟とグレン・カーチスの会社は合併し、カーチス・ライト社が設立されます。
 この会社は第2次世界大戦でP-36、P-40戦闘機を生産し、日本の軍用機の手強いライバルとなりました。そして爆撃機SB2Cは、日本本土への空襲や戦艦大和の攻撃に大活躍したのです。

戦艦大和の攻撃に活躍したカーチスSB2C
戦艦大和の攻撃に活躍したカーチスSB2C


日本の飛行機の歴史
リンドバーグの見た世界
朝日新聞が支えた日本航空界/東風号から神風号まで
毎日新聞ニッポン号と「世界一周」飛行の歴史
「YS-11」開発史
航空研究所/航研機の世界記録


制作:2014年2月3日


<おまけ>
 1935年ごろから、欧米の主力戦闘機は、羽布で作られた複葉型から、金属製の単葉型へいっせいに移行します。複葉型は軽いので空中戦に向いています。
 一方、単葉型は機体が重くなるため、大馬力のエンジンを搭載することになり、結果的にスピードと上昇力が圧倒的に大きくなりました。これは「軽戦闘機」から「重戦闘機」への移行でもありますが、ゼロ戦など、軽戦闘機で世界を圧倒した日本は、かえって重戦闘機への移行が遅れてしまうのです。
 この判断の遅れが、日本が制空権を奪われる大きな原因となったのです。
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