「神風号」東京→ロンドン最速飛行
航空黎明期を支えた朝日新聞

神風号
東京→口ンドン間1万5357kmを94時間17分56秒で飛んだ神風号


 ライト兄弟がライトフライヤー号で世界初の動力飛行をするのが1903年。
 1905年、日本陸軍は気球隊を創設し、気球とともに、航空機の開発に乗り出します。1910年(明治43年)、陸軍の徳川好敏大尉と日野熊蔵大尉が、それぞれアンリ・ファルマン式複葉機とグラーデ単葉機で、日本初の動力飛行を実現させます。

日本初の動力飛行
上が徳川搭乗機、下が日野搭乗機


 1911年、所沢に陸軍による日本初の飛行場が完成。そして、この年、朝日新聞はアメリカからマースというパイロットを招聘し、大阪と東京で初の民間飛行を行いました。

朝日新聞の日本初民間飛行
マースによる日本初の民間飛行(1911年3月13日の朝日新聞)


 陸軍省内に航空局が設置されるのは1920年(大正9年)になってからですが、民間で日本の航空界を引っ張ったのは、1913年に創設された「帝国飛行協会」でした。
 帝国飛行協会は、まず郵便を早く届けるための手段として、航空郵便の実用化を目指します。日本初の郵便飛行が成功するのは1919年。
 そして、1923年、朝日新聞社は東西定期航空会を主催し、東京・大阪間を結ぶ定期航空便が誕生します。

 この時点で、まだ日本人が外国に飛行機を飛ばした例はありません。
 時代は世界的な航空機ブームで、日本には数多くの外国人が飛来していました。1924年には、フランスのドアジー大尉が立川陸軍飛行場に、アメリカ陸軍の世界一周チーム、イギリスのマクラレン少佐、アルゼンチンのザンニー少佐らが霞ヶ浦に、1925年にはイタリアのデ・ビネード中佐も霞ヶ浦に飛来するといった具合。

 まさに空の国際交流が活発になっており、なんとか日本からも外国に向けて飛行機を飛ばしたい。そこで、朝日新聞は評判のよかったブレゲー19型を購入し、「初風(はつかぜ)」「東風(こちかぜ)」と命名、ヨーロッパ各都市を歴訪させることにしました。
 1925(大正14年)7月25日、安辺浩、河内一彦の2人がパイロットとなって代々木練兵場を出発、モスクワ、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセル、ローマを歴訪し、10月27日帰還しました。
 これが日本初の外国飛行です。

東風号と初風号
初風と東風のヨーロッパ訪問(朝日新聞1925年9月16日)


 1927年(昭和2年)、リンドバーグがプロペラ機でニューヨーク→パリ間を飛び、大西洋「単独」「無着陸」飛行に初めて成功します。その後、リチャード・バードやチャールズ・レヴァインなどが次々に大西洋を横断します。当然、次のターゲットは太平洋「無着陸」横断です。

 そこで、帝国飛行協会は、川西航空機(現・新明和工業)と組んで、このプロジェクトに乗り出します。1927年6月23日、計画が正式発表されました。中心となったのは、名パイロットと謳われた後藤勇吉です。

 この年のクリスマス、後藤は「太平洋横断飛行について」という講演会をしています。

《太平洋は約8000粁(キロ)あります。約2000里であります。1時間100哩(マイル)飛んでも、即ち160粁飛んでも50時間飛ばなければならぬ勘定になります。8000粁を無着陸に飛ぶ飛行機は今日何処にもないのであります。8000粁飛ぶ為には新しい飛行機をデザインしなければならぬと云ふ状態であります。
 此(この)横断飛行をやりましたならば太平洋横断の覇者となると同時に飛行機製作者としても世界に冠たる者となるのであります。処(ところ)で此度の飛行機は関口(英二)君の設計で以て胴体は大分出来上り、部分品も出来て居るのであります。
 此処に掲げてある飛行機がそれで、川西式12型の単葉飛行機であります。
 ワイヤーは皆住友伸銅所の材料を使つて居ります。陸軍などで研究した結果を聞きますと、アメリカや独逸のものと決して劣らない立派なもので安心して使へる事になつて居ります。特に此飛行機は全部和製でなければ無意味と云ふ事になるので住友伸銅所のものを使つて居ります。
 翼の方は麻を張りまして、さうして色々の薬品を塗つてありますが、之は従来の飛行機と殆(ほと)んど変つた所はございませぬ。所がデザインは純粋の川西式であります》(『鳥人、後藤勇吉』より)


 しかし、翌年の1928年(昭和3年)2月、後藤は訓練飛行中に山に激突して死亡、川西の川西式12型(K12)は航空局から飛行禁止とされてしまいます。

川西式12型
後藤勇吉が乗った川西式12型


 太平洋横断は多くの外国人も挑戦していました。
 1928年には、オーストラリアのキングスフォード・スミスが米豪間で実現しましたが、これは「無着陸」ではありません。
 では、いったい誰が「無着陸」を実現するのか。

 1930年、アメリカのハロルドとゲッティーが今の青森の淋代海岸(三沢基地の近く)から飛び立つも失敗。ここで朝日新聞社は太平洋横断の成功に懸賞金をかけます。
 一方、熱心にチャレンジを続けた報知新聞は、吉原清治を中心に軽飛行機で横断に臨みますが、あえなく失敗。日本勢と外国勢が競うなか、ついに1931年10月、アメリカのパングボーンとハーンドンの2人が成功を収めます(41時間11分)。

報知新聞の吉原清治
報知新聞の吉原清治


 1931年、国産機の開発を推進したい朝日新聞は、川崎(日本飛行機)のC5型通信機などを導入し、日本と大陸の定期便を開きます。
 1932年、東京帝国大学の航空研究所が長距離航空機の実験機の試作を開始(航研機は1938年、航続距離世界記録を樹立)。
 羽田飛行場ができるのが1935年。朝日新聞は日本飛行機のNH-1「雲雀」を導入し、各地の通信に役立てます。このように民間航空が盛んになるなか、朝日新聞は「純国産機による飛行記録の達成」を目指し始めます。

川崎C5型通信機
日本と大陸を結ぶ定期航路を開いた川崎C5型通信機


 当時、すでに軍事航空が忙しくなっており、航空機メーカーは民間機を試作する余裕はありませんでした。そのため、航研磯も一流メーカーではなく、二流会社だった東京瓦斯電気工業(東京ガスとは無関係)が試作しました。
 逆に、一流会社が試作した陸・海軍機には、ずば抜けて性能のよい機体が多く、そのなかの「駄作」には優秀な機体も数多くありました。
 そこで、朝日新聞や毎日新聞は、こうした機体を払い下げしてもらい、独自に改造を施し、記録達成に乗り出すのです。

 まず1936年、朝日新聞は「九三式双軽爆撃機」の改造型「鵬」を「南進号」の名で採用し、東京〜新京約2000km、東京〜バンコク約5000kmの親善飛行を行います。

朝日新聞「鵬」
バンコクまで親善飛行した朝日新聞「鵬」号


 つづいて1937年(昭和12年)、東京→ロンドン1万5000キロを100時間以内で飛ぶ計画にチャレンジ。もともとの目的は、戴冠式を迎えるイギリスのジョージ6世を祝賀する日英親善のためですが、この機に乗じて、朝日新聞は「亜欧連絡記録大飛行」と銘打ち、大キャンペーンを張るのです。
 朝日新聞が導入したのは三菱重工の「九七式司令部偵察機」で、1939年に軍に正式採用されるものの、後継機の一〇〇式司令部偵察機があまりに高性能だったため、試作は2機で中止となっていました。

神風号のルート
神風号のルート(『神風画報』第1集より)

 
 朝日はこの機を導入し、「神風」と命名、ロンドンへのスピード飛行に乗り出します。
 1937年(昭和12年)4月1日、飯沼正明(パイロット)と塚越賢爾(機関士)は羽田飛行場で命名式を終えると、翌2日午前1時44分、いったん立川を離陸します。しかし、台湾の手前で引き返し、今度は6日午前2時12分再出発。

 後日発表された手記によれば、日本上空の飛行はこんな感じです。

《空は快晴、東に月が上り始めた。重々しい長い滑走ののち、「神風」は立川を離陸して機首を西に向ける。高度3000メートル、箱根の航空灯台が光っている。西風が強く機体が強く揺れる。富士山が薄く輪郭を現している。座席に積み込んだ桜の花を見て声援歌の歌調を口誦(くちずさ)んで見る。
 東海道の灯を右に遠く眺めつつ飛行、3時35分、潮岬を左下に見る。高度3000、寒気が強いがエンジンは好調、夜行計器が美しく光る。
 3時50分、室戸の灯が瞬いている。北西の風が物凄く、スピードが出ないのが気になる。
 海上、夜明けが待ち遠しい。そろそろ雲が出始めて来た。永い永いイライラした夜も九州の南端佐多岬で明けてきた。遥か後方東に希望の太陽が上り始めた。機首を南に向けて久米島を目指す、日本の本土とも当分さよならである》


 そして、日本時間の10日午前0時30分、ロンドンに到着しました。
 経過時間は94時間17分56秒(実飛行時間は51時間19分23秒)。ついに100時間を切り、世界的な大記録となりました。

 神風号は各地で大歓迎されました。以下、ゴールのロンドンでの様子。

《ドーバーを右に見て英国に上陸、飛行場、ドライブ・ウェー、ゴルフ・リンクなど凡(すべ)てがロンドン近きを思わしめる。黒い重々しいロンドンの街が視野に入って来たと思うと、クロイドンのエア・ポートが目に入る。出迎えの撮影飛行機が全速力で我々を追う。懐かしいプスモス機が2、3機乱舞している。パリの大歓迎にすっかり興奮した我々は、まさかロンドンでパリ以上の歓迎を受けようとは思わなかった。
 着陸して見ると「神風」を押しつぶす様な群衆の殺到に又も面食らって了(しま)った。お祝の花束が贈られ、カメラマンの包囲攻撃を受け、群衆の中を巡査に抱えられている我々を叩いたり、手を振ったり、何が何だか別(わか)らない時間が続く。我々はただ飛行の機会を与えられ、ただ「神風」に乗せて来て貰っただけなのに、どうしてこんなに英雄視されるのであろうか。
 着いてから3日目、未だ新聞記者、カメラマンの訪問が続き街へ出るとサイン攻めに遭う》

 そのときの写真がこちら。

ロンドンの神風号 神風号
左がロンドン到着時の様子、右が報道を聞いて朝日新聞本社に集まった日本の群衆

神風号
朝日新聞1937年4月10日


 国産機による海外進出はこうして実現しました。航空黎明期には、朝日新聞がかなり貢献したことがわかります。
 重要なのは、「神風」が飛行を終えた3カ月後の7月7日、中国で盧溝橋事件が起き、日中戦争が始まったことです。飛行機は、やはり戦争という時代と同期しているのでした。


制作:2012年11月20日


<おまけ>
 朝日と航空界のつながりをまとめておきます。

●明治44年(1911年)4月01日 アメリカの飛行家マースとシュライバーを招いて、飛行機を国民に初紹介。翌年には水上飛行家のアットウォーターを招聘
●大正06年(1917年)4月30日 アート・スミスによる飛行会実施
●大正12年(1923年)1月11日 わが国初めての定期航空を東京〜大阪間にはじめる
●大正14年(1925年)7月25日 「初風」「東風」の2機、訪欧飛行に出発
●昭和11年(1936年)9月02日 第1回全日本グライダー大会開催
●昭和12年(1937年)4月06日 欧亜間を結ぶため神風号出発。94時間17分56秒の世界記録

 なお、戦時中、朝日新聞は「軍用機献納」の募金を大々的におこない、昭和11年までに陸軍と海軍にそれぞれ50機ずつ献納しています。日本の航空界は朝日のおかげで育ったのは確かですね。
朝日新聞の軍用機献納

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