幻の迎賓館「紫雲閣」
浅野総一郎とその時代

紫雲閣
紫雲閣


 1867年(慶応3年)年11月3日、広島県・大崎下島にある家に、坂本龍馬、桂小五郎(木戸孝允)、大村益次郎、山県有朋、大久保利通、後藤象二郎ら13人が集まり、秘密の会合が開かれました。

 集まったのは、薩摩藩、長州藩、土佐藩、芸州(広島)藩の人間たちで、ここに「四藩同盟」が成立。このとき話されたのは倒幕後の新政府の方向性で、内容を坂本龍馬が「新政府綱領八策」としてまとめ、23年後の明治憲法に結実しました。

新政府綱領八策
新政府綱領八策(国会図書館)


 密談がかわされた家の主は、新谷(にいや)道太郎という僧侶です。勝海舟の弟子となった後、一刀正伝無刀流の開祖・山岡鉄舟の門下に入り、その後、鳥羽伏見の戦いで活躍。「四藩同盟」のエピソードは、新谷の聞き書き書『維新志士 新谷翁の話』に記録されています。

 1871年(明治4年)、新谷道太郎は東京・本郷の木賃宿に住み始めました。このとき同宿者に浅野泰治郎という男がいました。2人は金持ちになる方法を議論し、ついに新商売を始めます。
 宿の主人のアイデアで、お茶の水で汲んだ水に砂糖を入れて1杯1銭で売りだしたのです。1日40銭ほどの売り上げがあり、結果的に、それぞれ20両くらいずつ儲けました。このエピソードは、やはり新谷道太郎の『維新の秘密を語る 自序伝』に書かれています。

お茶の水
当時の御茶の水


 さて、この浅野泰治郎こそ、後の実業家・浅野総一郎です。「セメント王」であり、「京浜工業地帯」を生んだ男。
 現在の太平洋セメント、JFEスチール、丸紅、東亜建設工業などの創業に関わっています。

 浅野は、廃物利用の天才でした。

 秋になって砂糖水が売れなくなると、味噌の包装に欠かせない竹の皮に着目。千葉で10貫匁(37.5kg)1円で仕入れた竹の皮を、横浜で3貫匁1円で販売しました。
 しかし、竹の皮は需要が限られます。そこで、誰もが使う石炭・薪炭商売へ。

浅野総一郎
若き日の浅野総一郎


 石炭や薪炭の取引先だった横浜瓦斯(がす)局が石炭の残骸であるコークスとコールタールの処理に悩んでいることを知ると、まずはコークスを1トン50銭の破格値で入手し、セメント製造の燃料にしました。コールタールからはコレラの消毒薬(石炭酸=フェノール)を作り、大きな利益を上げました。

 さらに、当時の神奈川県令・野村靖から「外国人の前で日本人が立ち小便しているのはみっともない」と言われ、人間の糞尿を肥料として活用。浅野は月200円で県から汲み取りの仕事を受注し、公衆トイレの開祖となりました。

 西南戦争後の石炭欠乏の際は、長崎で石炭を買い占めて大儲け。
 そして1884年、経営難の深川セメント工場の払い下げに成功。その後、磐城や北海道の炭鉱、続いてガス・石油事業にも乗り出します。

浅野セメント
浅野セメント深川工場


 石炭の輸送で、どうしても必要だったのが輸送船です。浅野は三菱の日本郵船に対抗するため、東洋汽船を設立しました。東洋汽船は、外国に独占されていたサンフランシスコ便に参入し、大きく成長していきます。
 そして浅野は、海運業を支えるため発電・造船事業に参入、さらに川崎や鶴見沖を埋め立てて港湾開発まで乗り出すのです。

東洋汽船日本丸
東洋汽船の日本丸

 
 浅野総一郎は、外国の重役たちが広い家や倶楽部で接待する状況を見て、純日本式の迎賓館を作ることを思いつきます。

《自分が外国へ来たのは東洋汽船を創立するのが主題であるが、どうかして船に乗って来るお客さんを国に代わって招(よ)んでやりたい。日本へよく来て下さったといって歓待するのは、これは船を経営する者の国家に対する義務である、そういう考えから家を造ろうという決心をした》(浅野総一郎『父の抱負』より、一部読みやすく改変)

 そこで、現在のノリタケカンパニーリミテド、TOTOの創業者である森村市左衛門に相談し、東京・三田の札の辻交差点近くに壮大な「紫雲閣」を建造します。

紫雲閣
紫雲閣全景


《たまたま岩倉(具視)公爵のために有志の人達が岩倉神社を建てようとして集めていた材木が深川にあるということを聞いた。それは岩倉神社をやめて育英事業に変更されたので、自然その材木が不要になっているということであった。
 その材木を自分は引き受けるために木場へ見に行くと、尺〆(しゃくじめ)確か25円とかいっていた。なんでも15間の大丸太が250本からあったように思う。とにかくそれを買い取った。しかしそれだけでは足らぬので、15万円くらい後から買い足したように思う》(同)


紫雲閣
紫雲閣第1階段


《外国人の眼を驚かすには、どうしても日本式の家で日本の美術を集めたものでなければいけないと 思って、その趣意を汲んで設計してもらうことにして、これを佐々木岩次郎という帝室技芸員の建築技師に頼んだ。もっとも伊藤忠太博士だとか、渡辺譲博士だとかいう人も顧問格で、この設計をしてくれた》(同)

 佐々木岩次郎は京都・東本願寺本堂を再建した「日本建築の巨匠」。
 伊藤忠太は平安神宮、明治神宮、築地本願寺の設計者、渡辺譲は帝国ホテルの設計者です。

紫雲閣
紫雲閣応接間


 工事に着手したのが1898年(明治31年)で、完成したのが1907年。それから数年かけて内装を整えました。天井には川島織物の織物が貼られ、襖絵は川合玉堂や小堀鞆音らが描きました。建物の一部は「四重の塔」になっていて、屋根には金の鯱が輝いています。

紫雲閣
天井

紫雲閣
小堀鞆音の襖絵


《以来、東洋汽船の船が着くと、必ず一等船客は、着いた日かその翌日にここへ招待した。そうして日本の美術を紹介し、日本式のお茶を出して歓待した。お茶を出すときには、自分の娘や孫娘や嫁達が30〜40人も集まって来て歓待してやるものだから、ずいぶんアメリカあたりでは「浅野の茶会」といって評判されている。外国人を今日までに招待した人数が約13万人に及んでいる》(同)

紫雲閣
4階から品川沖を望む


 紫雲閣は、西郷隆盛と勝海舟が会見し、江戸無血開城を決めた場所の目の前にあります。
 1924年、この地で一人の老人が雨宿りしていました。「四藩同盟」の現場を目撃し、浅野と砂糖水を売り歩いた新谷道太郎です。
 新谷は、浅野に呼び止められ、「紫雲閣」を見て回りました。浅野は「西洋人に日本文化を紹介するためにこの家をこしらえた」と語りました。

西郷南州・勝海舟会見之地の碑
西郷南州・勝海舟会見之地の碑


 廃物を利用して一代で浅野財閥を作った浅野総一郎。
 その最大の成果である川崎・鶴見の埋め立て工事が完成したのが1927年。その翌年、浅野は「紫雲閣」敷地内に 自宅を建てました。そして1930年、食道がんで死去。享年82。
  
 戦災で紫雲閣は焼失しましたが、浅野邸は焼け残りました。戦後は、長らく中学校の校舎として使われていたそうです。

紫雲閣
裏庭から見た紫雲閣

浅野総一郎と東京湾開発史
幻の料亭「紅葉館」
大谷光瑞「大谷探検隊」と「二楽荘」(伊藤忠太の設計)


制作:2018年5月12日

<おまけ>

 浅野総一郎の娘と結婚した白石元治郎は、一橋大学の同級生だった今泉嘉一郎と、日本初の民間鉄鋼企業「日本鋼管」(現・JFEスチール)を創業します。日本鋼管で使われていた「トーマス転炉」が、現在、川崎市市民ミュージアムに展示されています。転炉とは、くず鉄や銑鉄を鋼鉄にする炉のこと。この炉で作られた鉄が、東洋汽船の船にも使われたのです。

トーマス転炉
トーマス転炉

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