「文化住宅」の誕生
名探偵・明智小五郎の事務所へ行こう!

夏目漱石の家
夏目漱石が明治39年まで住んでいた家(明治村)
ネコに注目! 



 夏目漱石は、死の2年前の大正3年、『文士の生活』というエッセーを発表しています。その冒頭はこんな文章です。

《私が巨万の富を蓄えたとか、立派な家を建てたとか、土地家屋を売買して金を儲けて居るとか、種々な噂が世間にあるようだが、皆嘘だ。巨万の富を蓄えたなら、第一こんな穢(きたな)い家に入って居はしない》(1914年3月22日、大阪朝日新聞)

 すでに大作家となって久しい漱石に対して、世間は口さがない噂を流したわけですが、ここで注目すべきは、漱石が言う「こんな穢い家」という言葉です。
 漱石は終生借家で暮らすんですが、この家はホントすごいんですよ。

《私の書斎の壁は落ちてるし、天井は雨洩(あまも)りのシミがあって、随分穢いが、別に天井を見て行って呉(く)れる人もないから、此儘(このまま)にして置く。何しろ畳の無い板敷である。板の間から風が吹き込んで冬などは堪(たま)らぬ。光線の工合(ぐあい)も悪い。此上に坐(すわ)って読んだり書いたりするのは辛いが、気にし出すと切りが無いから、関(かま)わずに置く》

 これが文豪の家の実態でした。まだまだ家にカネをかける時代ではありませんでした。

 質の高い住宅こそがまともな生活に不可欠だと考えられ始めたのは、かなり遅く、大正時代が終わる頃でした。
 大正11年(1922)、上野で平和紀念東京博覧会が開かれます。その一角に「文化村」がつくられました。「住宅こそが文化」という考え方のもと、理想的な一戸建てモデルが14軒も並んだのです。

文化住宅
文化住宅
これが展示された文化住宅


 文化住宅という言葉自体は以前からあったようですが、庶民にも住まいの重要性が意識されだしたのは、間違いなくこの博覧会からでした。

 で、この博覧会の翌年、関東大震災が起こります。
 被災者の収容やスラム解消のため、都心部ではまっとうな一戸建てをつくる以前に、とにかく大量に住宅をつくる必要に迫られました。
 
 当然、質の悪い建物が乱立することになるのですが、一方で「理想の住宅」を目指したアパートも数多く建てられました。

 その中でも有名なのが同潤会アパートです。
 同潤会は大正13年(1924)5月、内務省によって設立されました。当初は木造バラックの仮設住宅を建設していましたが、次第に、不燃性を意識した鉄筋コンクリートの集合住宅を建設し始めます。

 最初の鉄筋住宅は本所の中之郷アパート。その後、青山や渋谷をはじめ、次々に建てられていきました。機能性を追求しただけで、部屋自体は非常に狭いものでしたが、とはいえ当時としてはかなり高品質の物件でした。こうして東京や横浜に良質な住宅供給が進んだのでした。


同潤会青山アパート
同潤会青山アパート(1930年頃)

表参道ヒルズ
2006年2月、表参道ヒルズに


同潤会深川猿江アパート
同潤会深川猿江アパート外観

同潤会深川猿江アパート
同潤会深川猿江アパート室内


 さて、同潤会と並んで有名になったのが、日本初の完全洋風住宅である「文化アパート」でした。最も有名なのが大正14年(1925)に完成した御茶ノ水文化アパートです。椅子式の生活で、炊事・掃除・洗濯は家政婦に頼めるという……まるでホテルのような住居でした。

御茶ノ水文化アパート
御茶ノ水文化アパート


 実はこの御茶ノ水文化アパートは、名探偵・明智小五郎の事務所のモデルになったとされています。
 明智小五郎は東京都千代田区采女町の開化アパート2階に部屋を借りて、「明智小五郎探偵事務所」を開いていました。そこで女助手の文代さん(後の妻)と助手の小林少年と暮らしていたのです。
 さすがダンディーな明智小五郎ですな。

 というわけで、こちらが憧れの御茶ノ水文化アパートの内部です。

御茶ノ水文化アパート
台所

御茶ノ水文化アパート
居間


制作:2006年3月14日


<おまけ>
 同潤会アパートは、三ノ輪アパート(荒川区東日暮里2)と上野下アパート(台東区東上野5)が近年まで残っていましたが、2013年、上野下アパートが壊され、すべて消滅しました。

同潤会上野下アパート 同潤会上野下アパート

 上野下アパートは地下鉄稲荷町の目と鼻の先。建物自体はボロボロですが、近くに下谷神社をはじめ、多くの寺社があるせいか、それほどの違和感はありませんでした。
 上野と浅草という当時の大繁華街を結ぶ大通りからすぐなので、建築当時は羨望のまなざしで見られたはずです。
 こうした素晴らしい建物群を復興建築と呼んでいるので、ぜひ探してみましょう!
      
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