「復興建築」の誕生
関東大震災から再起した、ある小学校の物語

十思小学校
十思小学校


 大盗賊の鼠小僧(ねずみこぞう)次郎吉をはじめ、吉田松陰、平賀源内、高野長英など、歴史上有名な人物が収容されていた江戸・伝馬町(てんまちょう)の牢屋敷は、1875年(明治8年)にその役割を終え、しばらく跡地は放置されていました。
 1872年に学校制度ができたことを受け、1877年(明治10年)、この広大な地に「十思(じっし)小学校」が開校します。
 
 それからちょうど100年後の1977年、この小学校で「開校100周年ページェント」がおこなわれました。全校生徒によって学校の歴史が再現されたんですが、劇のメインは「関東大震災」でした。この学校の校舎は、1923年、関東大震災によって破壊され、1928年(昭和3年)に新築されました。
 小学校は1990年に廃校となりましたが、校舎自体は戦災にも耐え、今でも「十思スクエア」としてそのまま残っています。

十思小学校
十思スクエア


 関東大震災後に建てられた建造物を総称して「復興建築」と呼びますが、十思小学校の校舎は典型的な復興建築です。
 鉄筋コンクリート3階建てで、外観は曲線の多用とアーチ型の窓によって、優美な印象を与えています。隣接して公園があり、地域とのつながりが重視されています。

 こうした特徴を持った「復興小学校」は、全部で117校あり、ほとんどが1928年頃までに完成しています。
 そんなわけで、今回はこの小学校を通して、復興建築の全貌に迫ります。


 1923(大正12)年8月24日、加藤友三郎首相が死去します。
 次の山本権兵衛が組閣に難航していた9月1日、関東大震災が起きました。9月2日、急ごしらえの内閣が成立すると、内務大臣の後藤新平は、すぐに「帝都復興4つの根本策」をかかげました。

 1 遷都しない
 2 復興費は30億円必要である
 3 欧米の最新の都市計画を採用し、わが国にふさわしい新しい都をつくる
 4 地主には断固とした態度をとる


 というものです。
 後藤新平がどうしてこうした案を出せたかというと、江戸時代以来のごちゃごちゃした町を改造すべく、以前から都市計画を考えていたからです。1919年に都市計画法が施行され、1921年、当時、東京市長だった後藤が「東京市政要綱」を発表します。これは総額8億円をかけ、市街を一新する計画でした。
 しかし、当時の東京市の年間予算が1億数千万円だったことで、単なる大風呂敷扱いされていました。

 震災後、後藤は「帝都復興院」を創設し、総額50億円をかけ被災地をすべて買収し、大規模な都市計画を行うつもりでした。もちろんこれは実現せず、最終的に7億2000万円をかけた復興計画が立案されます。しかし、枢密院の重鎮だった伊東己代治らの大反対を受け、計画はどんどん縮小されていきます。

 震災翌年の1月21日、復興計画がようやく閣議決定され、復興事業の順序が決まりました。

 1 まず罹災跡の整理をする
 2 帝都復興事業施行区域を決定する
 3 帝都計画案を作成する
 4 市内を官衙(かんが)区域、商業区域、工業区域、住居区域に分け、各区域に適切な設備を作る
 5 交通系統を定めて、道路、広場、河川、港、鉄道などの計画を立てる
 6 上下水道、ガス電気などの施設・地下埋蔵物の整理をする
 7 通信機関を完備する
 8 建築物には制限を加えるが、民間建築は民間にまかせる
 9 経済復興のために金融機関を改善・整備し、関連施設も設置する
 10 そのほか、警備や各種の社会政策を講じる


関東大震災からの復興計画
関東大震災からの復興計画(国立公文書館デジタルアーカイブより)


 この順番を見ると、当然のことながら、ほとんどが都市計画にあたり、個々の建築物はおまけの扱いです。ただし、金融機関だけは重要性が強調されています。それで、復興建築には重厚な銀行建築が多いんですね。
 
 いずれにせよ、復興建築を語るのは、まずは都市計画から見ていく必要がありそうです。 

 復興事業のもっとも大きな点は、道路の新設と大規模な土地区画整理でした。
 下の図を見てほしいんですが、これは震災後の復興計画を表した地図です。上部の「文」マークが十思小学校。近くに昔からあった江戸通り(国道6号)が通っていますが、これと交叉して、新たな大通りを作りました。これが幹線第1号で、現在の昭和通り(国道4号)です。

関東大震災からの復興計画
東京復興計画大地図


 参考までに、震災後に新設・改修された主な大通りは以下の通り。
 幹線番号は123まであり、とりあえず16までのうち、◎印のついた5本が従来の道路の改修なので、かなりの数の道路が新設されたことがわかります。

 幹線第1号 昭和通り・第一京浜 幅員22〜44m
 幹線第2号 大正通り(現・靖国通り) 幅員27〜36m
 幹線第3号 永代通り  幅員33m
 幹線第4号 晴海通り  幅員27〜36m
 幹線第5号 清洲橋通り 幅員33m
 幹線第6号 浅草通り  幅員33m
 幹線第7号 八重洲通り 幅員22〜44m
 幹線第8号 行幸道路(皇居〜東京駅)幅員73m
 幹線第9号 国会議事堂〜桜田門 幅員55m
◎幹線第10号 清澄通り  幅員25〜33m(改修)
◎幹線第11号 江戸通り  幅員27m(改修)
 幹線第12号 本郷通り  幅員27〜33m
◎幹線第13号 白山通り  幅員27m(改修)
◎幹線第14号 内堀通り、目白通り 幅員27〜36m(改修)
◎幹線第15号 桜田通り  幅員27m(改修)
 幹線第16号 日比谷通り 幅員33m


 どの道路も舗装されましたが、予算縮小により幅員は大きく狭められました。

関東大震災からの復興計画
日本橋郵便局近辺から十思小学校方向を見る
(国会図書館『帝都復興事業誌 土木編上』による)


 河川や運河は、改修が小名木川(幅員2.1m)など11カ所、新設が築地川楓川連絡(幅員1.8m)の1カ所。
 橋は隅田川6大橋(北から言問橋、駒形橋、蔵前橋、清洲橋、永代橋、相生橋)は国が担当し、厩橋、両国橋、聖橋などは東京市が担当、いずれも「復興橋梁」と呼ばれます。
 橋のデザインは凝ったものが多いんですが、これは前年、ワシントン会議で主力艦建造数に制限が加えられ、造船所の工員と鉄が大量に余っていたことと大きな関係があります。

駒形橋
駒形橋

蔵前橋
蔵前橋

清洲橋
清洲橋


 一ツ橋や神田橋など街中の小さな橋は、両端の区画整理が遅れていても架橋できるよう、川の中に橋の土台を置き、流路を3分割する「復興局型」と呼ばれる橋で標準化されました。
 たとえば十思小学校から1キロほど離れた場所にある「海運橋」が、典型的な復興局型の橋です。


海運橋
海運橋(現存せず、『帝都復興事業誌 土木編上』による)


 関東大震災では、燃え続ける炎から逃げ遅れた人が大量に出ました。そこで、避難所にもなるよう、市内に隅田公園、浜町公園、錦糸公園の3大公園が作られました。
 さらに、復興小学校の多くに公園が付設されました。その数は全部で52。もちろん、十思小学校にも公園が付設されています。

十思公園
十思公園


 十思公園には、写真のような鐘撞堂があるんですが、この鐘も震災による区画整理で本石町から移転してきたものです。この鐘は江戸時代の「時の鐘」で、当時の人はこの鐘の音で時間を知りました。伝馬町牢では鐘の音が聞こえると死刑が執行されたため、処刑日には、鐘の鳴る時間が遅れたと言われています。
 
 ほかに病院の新設、中央卸売市場の設置、同潤会など集合住宅の建設、大学の移転、上水道の整備などで、現在の東京の基礎が作られたのです。

上野同潤会アパート
上野同潤会アパート(現存せず)

 
 さて、こうした都市計画の下、東京には多くの建物ができていきます。1925年に復興建築の助成を行う「復興建築助成株式会社」が設立され、この支援を受けた建物もありますが、民間の建物の多くが何の援助も受けず建てられました。
 それは、前述の「復興事業の順序」に「民間建築は民間にまかせる」とあることから、当然の流れでした。

 ちなみに十思小学校のすぐそばには「福助足袋」の不思議なビルが建てられました。こんな建物がそこらじゅうにあった時代ってすごいですよね。

福助足袋
福助足袋(現存せず)


 実は、復興建築そのものに明確な定義はありません。

 商店など、小規模なものは「看板建築」と呼ばれることもあります。これは、木造2階建ての店舗兼住宅で、建物前面が平坦で、西洋風の装飾をつけたものです。区画整理によって道路幅が広がったせいで、個人個人の敷地は面積が減ってしまい、軒を廃止したことで生まれた建築です。

看板建築
看板建築


 一方、比較的大規模な商店は、不燃のため鉄筋コンクリートが使われ、大量生産が可能になったガラスでデザインされました。合理性を重視した東京中央電信局白木屋などが代表例ですが、これはモダニズム建築と呼ばれます。

東京中央郵便局
東京中央郵便局(外観のみ現存)


 大阪ビルなど、装飾性を重視した建物は、外壁に「テラコッタ」と呼ばれる焼きものが取り付けられました。動植物や西洋建築の柱やアーチ、透かし彫りなどさまざまな意匠が施されています。こうした装飾は、アール・デコ建築の影響といえるでしょう。
 ちなみに高島屋は、蟇股(かえるまた)があることから、意外にも和風テイストが取り込まれているとわかります。

高島屋タカシマヤ 高島屋
高島屋の外観と、二股デザインの「蟇股」


 復興にあたり重視された銀行などの建築は、三井本館第一銀行のように古典主義が意識され、日比谷公会堂は垂直感あふれるゴシック建築を範としています。
 ほかにも、明治屋京橋ビルはアメリカンスタイル、日本工業倶楽部はウィーン分離派、第一生命館はドイツのナチスが採用した新古典主義、三菱倉庫や泰明小学校はドイツ表現主義の影響を受けている……などといわれます。

日比谷公会堂 第一生命館
日比谷公会堂と第一生命館

三菱倉庫江戸橋倉庫 泰明小学校
三菱倉庫江戸橋倉庫と泰明小学校


 要は、白いキャンバスに自由に絵を描くように、世界のさまざまな様式に影響された建築が一気に花開いたのです。
 震災を肯定するわけではありませんが、廃墟から立ち直った東京は、結果として、世界に冠たる建築王国となったのです。 

 1930年3月26日、震災からの復興を祝うため、帝都復興完成記念式典が開催されました。しかし、その会場に後藤新平の姿はありませんでした。前年に71歳で死去していたからです。

 昭和天皇は、皇太子時代の1921年に外遊し、ヨーロッパの石造建築や広場といった町の構造を視察しています。帰国後まもなく起きた震災からの復興には強い関心を持っていました。しかし、後藤の立てた壮大な計画は、官僚の抵抗でどんどん矮小化されていきました。

帝都復興祭
昭和天皇が臨幸した帝都復興記念式典


 1983年8月30日、昭和天皇は那須の御用邸で会見をしています。記者から「今年はちょうど関東大震災から60年になりますが、陛下の体験談をお聞きしたいと思います」と聞かれると、天皇は次のように語りました(『陛下、お尋ね申し上げます』による)。

「ええ、この震災のいろいろな体験はありますが、そういうことはいろいろ時間もかかることですから、略して一言だけをいっておきたいことは、この復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが、いろいろの事情でそれが実行されなかったことは非常に残念に思っています。もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています」



 十思小学校100周年ページェントの、関東大震災と並ぶもう一つのメイン場面は、東京大空襲でした。

 東京大空襲が起きたのは1945年(昭和20年)3月10日。その2週間後の3月24日、十思国民学校の卒業式が開かれました。十思公園には多くの遺体が並んでいて、講堂は避難民であふれていました。やむなく校庭で式を始めると、まもなく空襲警報が鳴り、そのまま中断してしまいます。

 1990年3月24日、十思小学校で閉校式が行われました。そしてその翌日、昭和20年の卒業生たちが集まり、45年ぶりの卒業式が開かれました。
 こうして、歴史ある十思小学校は、112年の歴史を閉じたのです。
 

 さて、本サイトでは復興建築の全貌を再現します。

●私立近現代建築資料館 復興建築の世界/インデックス

関東大震災直前の東京空撮
関東大震災から8年後の東京空撮
敗戦から10年目の東京空撮

三信ビルディングで日本初のハンバーガーを
文化住宅の誕生
勝鬨橋内部に潜入


制作:2013年6月2日

<おまけ>
 東京市の復興事業総額を書いておきます。ただし、時期や事業をどこまで含めるのか、資料によって違いがきわめて大きいので、ひとつの参考とください(復興調査協会編『帝都復興史』1930による)。

◎土地整理    1億7498万5038円
◎街路修築     8103万4038円
◎小学校建設費   4093万9096円
◎下水道改良    4021万1321円
◎水道関連全般   2500万円
◎中央卸売市場建設 1650万0000円
◎公園費      1407万2538円
◎道路橋梁改築   1368万4221円
◎社会事業施設費  452万5000円
◎市立病院建設費  310万円
◎塵芥処分設備   185万円
◎電気軌道事業   5690万円
◎電気供給事業   436万円

 合計     4億7716万1252円

 以上の数字は、大正12年度から昭和4年度までの金額の合計で、電気事業に関しては昭和10年度計画分まで含みます。
 一方、昭和3年度までの国の東京復興予算は街路費(2億5745万8400円)、運河費(2857万円)、公園費(1190万円)、土地整理(875万円)などで合計3億667万8400円。
 東京府は、国道費(937万780円)、橋梁費(188万3254円)、環状線放射線道路費(750万円)などで2200万円くらいしか出していません。

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