「映倫」の誕生
映画は何を検閲されたのか?

浅草で上演中の『生きる』
浅草で上演中の『生きる』


 昭和27年(1952)、黒澤明の名作映画『生きる』(東宝)が公開されました。この映画は黒澤作品の中でももっともヒューマニズムにあふれているとして、高い評価を得ているのはご存じの通り。
 ところで、実はこの映画には3カ所の「検閲」が入っているんですが、知っていましたか?
 具体的には以下の通りです。

・シーン52 駅で応召兵を見送る場面に軍歌が出てくるが、これは却下
・シーン65 特殊喫茶(売春所)での客引きは背景描写にとどめ、売春の暗示にならないようにする
・シーン69 ストリップ劇場の場面では舞台の直接描写は出さない

 この検閲を実施したのは、昭和24年6月14日に設立された「映倫」(映画倫理規程管理委員会)でした。いったい映倫とは何をどのように検閲してきたのか? 今回は映画の検閲史をまとめます!


 テレビがない時代、映画は庶民にとって最大の娯楽で、ラジオと並びもっとも影響力のあるメディアでした。当然、権力を持つ側はそれを管理下に置こうとします。

 日本の映画の検閲は、もともと劇場出張型でした。警官が映画館へ来て、初日の映写を見て「あそこを切れ、ここを切れ」と言っていたわけです。しかし、これでは統一的な検閲ができないため、大正14年7月から内務省が「全国統一検閲」を実施します。戦時中になるとこれに陸軍省、海軍省が参加し、情報局で検閲していました。

 戦火が拡大するにつれ、規制が拡大します。 
 そして、自由な映画製作を壊滅させたのが昭和14年10月1日に施行された「映画法」です。これは文化立法というより、文化統制という意味を持っていました。
 国会での審議で、時の木戸幸一内務大臣は次のように語っています。

「わが国の映画は、国民娯楽として最も重要な地位を占めるに至りましたが、最近では教化、宣伝、報道等の方面においても次第に顕著な機能を発揮し、映画の有する国家的任務はますます重大となってきたのであります。
 しかるにわが国の映画事業には、その製作、配給、上映の各部門にわたり幾多改善を要すべきものがあり、また映画の内容につきましても、相当考慮を要すべきものが少なくない状況であります……」


 こうして成立した映画法の主な内容は以下の通りです。

・映画の製作・配給を許可制とする
・映画製作者を登録制にする
・脚本の事前検閲
・文化映画の選奨制度の設置
・外国映画の配給・上映を制限
・教育、啓発、宣伝映画の強制上映
・政府が映画製作数や配給の調整権を持つ

 この法律を受けて、いわゆる国策映画がたくさん作られるようになりました。

国策映画
「海軍省後援」の国策映画でも「海軍省許可」が必要


 そして敗戦。GHQもやはり映画の検閲を進めました。

 昭和20年9月30日、「日本における太平洋陸軍民間検閲基本計画」第2次改訂版が完成します。これによりCCD(民間検閲支隊)部内に「新聞映画放送部」(Press,Pictorial and Broadcast Division)の新設が決定。
 この部の業務内容は次のように規定されていました。

《八、新聞、映画および放送検閲の業務
 A、業務の基礎
  日本における新聞、映画およびラジオ放送検閲の手引が業務手続きの基礎となる。最高司令官指令は即時当部の業務内容に繰り入れられる。
 B、業務の理論
  新聞映画放送部は、新聞、あらゆる形態の印刷物、通信社経由のニュース、ラジオ、ニュース映画および劇映画を通じて日本国民に頒布されるあらゆる題材の検閲を所管する》


 こうして映画は試写の段階ですべて検閲されることになりました。

 占領軍は、本来、検閲は民間団体が行うべきだと考えており、時代が下るにつれ、徐々に厳しいチェックは減っていきました。そしてついに昭和24年に純粋な民間団体「映倫」が設立されました。占領軍は昭和20年に「映画遵則」という指針を決めており、基本的にはこれに則りルールが決められました。

 参考までに、「映画倫理規程・前文」を公開しておきます。

《我々は映画が娯楽及び芸術として国民生活に対し精神的、道徳的に大きな影響を及ぼしていることに責任を感ずる。ここに於て我々は映画の製作について倫理規定を制定し、観客の道徳水準を低下せしめるような映画の製作の防止を計ろうとする。我等日本国民の生くべき道は憲法に明示されている通り、諸国民との平和的協力、基本的人権と自由の福祉とを確保する以外にはない。

 この崇高な理想と目的達成のために選ばれた方法が民主主義である。映画がこの理想と目的並びにそれの達成のための方法を尊重して協力すべきであり、映画の製作の根本方針はそこに置かるべきことは論を俟たぬところである。
 この趣旨のもとに映画は観客の道義観の向上を目指し、社会秩序の維持を妨げるものであってはならぬと同時に、基本的人格を犯すような言行を肯定したり、民主主義に背馳する思想を正しいものと観客に感ぜしめたりすることは些さかたりともあってはならない。我々はこのために映画倫理規定管理委員会を設置して、俄画倫理規定の完全な実施を自主的に管理する。

 しかし、映画の進歩発達は単に製作者のみの努力によってなるものではなく、一段大衆の映画に対する理解と愛情が欠くべからざる要件である。倫理規程の目的達成のためにはまた一般大衆この理解と愛情が必要であって、映画が娯楽及び芸術として更に一段と進歩する自由と機会はそこから生れて来るであろう。》



 具体的には「国家及び社会」「法律」「宗教」「教育」「風俗」「性」「残酷醜汚」の7つの大きな枠組みがありました。以下、簡単に内容をまとめときます。

●国家及び社会
・日本国憲法は常に厳守する
・民主主義の精神に反する思想はすべて否定する。特に封建思想とそれに基く習慣は否定する
・あらゆる国の慣習及び国民感情は尊重する
・戦争、武力及び暴力は否定する

●法律
・殺人場面は刺激的に表現しない。火器、鉄砲、刀剣など武器の使用は最低限にする
・密輸の方法を詳細に描写しない
・麻薬の不正取引や使用方法を描写しない
・訴訟や裁判の手続は正しく表現する
・復響は否定する

●宗教
・信教の自由を常に尊重する
・牧師・僧侶・神官などを故意に愚弄したり、故意に悪人として表現しない
・宗教儀式の取扱いには充分に注意する

●教育
・民主的教育制度や教育者を不当に愚弄したり侮辱したりしない

●風俗
・猥褻な言語、動作、衣裳、暗示、歌謡、洒落などは扱わない
・裸体、着・脱衣、身体露出、舞踊、寝室の扱いは観客の劣情を刺激しないように充分注意する

●性
・結婚及び家庭の神聖を犯さないよう注意する
・売春を正当化しない
・色情倒錯、変態性欲に基づく行為を描写しない
・性病は人道的・科学的観点から必要な場合以外、素材としない
 
●残酷醜汚
・死刑、拷問、リンチ、婦女子や動物の虐待、人身売買、外科手術(堕胎手術を含む)、不具者や病傷者の扱いには注意する

映画の検閲
チェック済みの映画にはこんなマークが付けられました


 では、実際の映画のチェックはどのようなものだったのか?
 松竹の『本日休診』(1952年)という映画では次のようなチェックが入りました。

・悠子が暴漢に犯されるのは悲惨なので、いたわりの気持ちで演出する (社会・性)
・シーン9「その上から男が飛びかかって来て……」の「その上から」、シーン10「悪疾の感染も考慮しなくては……」「では上半身だけでも見せて貰おう、外傷があるかどうか」のセリフは削除する
・シーン46 勇作の歌う軍歌は軍歌でないものに変更を希望(国家)
・シーン67 兵隊服の男が三千代(未亡人)をからかうセリフ「おばさんみたいにね、オツにすました女がかえってモヤモヤしてるんだ」は削除するか、卑猥感の出ないものに(性)
・シーン78 「堕胎法」という法律はないので適当に他の表現に(法律)

 これはまだ納得できますが、困ったのは人気の忠臣蔵の映画化です。どうしてかというと、忠臣蔵は「封建思想」「復讐」などの要素が多くあるからです。
 そこで、東映の『女間者秘聞 赤穂浪士』(1953年)の場合を見てみましょう。
 
・女間者(スパイ)になる動機を「ご奉公」にしない。封建的主従関係の賛美にしないため(社会)
・47士の行為を仇討ち扱いせず、幕府の失政に対する抗議から吉良を討つ決意をさせる(法律)
・女間者の活躍に重点を置き、それ以外はできるだけ省略する。討入りの場面も女間者を中心として描き、47士の活躍するシーンはできるだけ避ける(社会・法律)

 基本的に戦争映画は審査が通りにくい状況でしたが、昭和26年(1951)に日本が独立を果たすと、『原爆の子』や『ひめゆりの塔』といった従来では絶対にあり得ない戦争映画も上映されるようになりました。

映画の検閲
アメリカ批判にとれる映画は、長らく上映禁止でした


 たとえば『悲劇の将軍 山下奉文』(東映、1953年)の場合。
 この映画は山下奉文の弁護士だったリールの見解を元にしているため、山下擁護、さらには反米と取られかねない作品でした。そこで、用語、脚本が第3稿までチェックされ、最終的には完成版で判断するとした上で、次のような理由で許可が下りました。

「英雄賛美や追憶の印象ではなく、戦争によって起こる解決しがたい悲劇 的な矛盾を批判の対象としてとりあげたものである」

 そして、「マニラ市の破壊など山下の責任でないものもあるかもしれないが、戦争の罪状や責任は広く言えば日本人の責任であるべきだから、その旨をどこかに挿入し、宣伝スチールもその点を注意するように」として上映されました。

映画の検閲
どこからどう見ても「英雄賛美」ではない宣伝


 ここまで読んできて気づいたかもしれませんが、だんだん映倫はいろんな理屈をこねてどんな映画でも上映可能にしていくのです。
 実はこの時点で映倫のメンバーは脚本家など映画関係者ばかりで、要は身内びいきの団体でした。

 そのことが大きな問題になったのは、1956年に公開された『太陽の季節』です。いわゆる「太陽族映画」のシリーズは大人気で、ほとんど無審査状態で一連の映画が上映され、世論から激しいバッシングを浴びたのです。ついには文部省(当時)までが規制に動きだし、結果、映倫の運営は映画界から切り離され、独立団体として改組されたのでした。

 (本稿は『キネマ旬報』63号を参考にしました)


制作:2010年7月25日

参考リンク
戦前の検閲の歴史
GHQ検閲の歴史
●<戦争とデザイン>真珠湾攻撃がもたらしたアニメと特撮の萌芽
   
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