軍旗の世界
あるいは消えた「日本の旗」一覧

西南戦争の軍旗
西南戦争の軍旗


 日本の陸軍は、慶応4年(明治元年)、明治政府直属の軍隊として「御親兵」が創設されたことに始まります。
 明治3年には、兵部省が「日本陸軍旗」を制定、これがいわゆる旭日旗です。このとき、明治天皇は各藩兵に連隊旗と大隊旗を授与しましたが、これは当日かぎりのものでした。

日本陸軍旗
日本陸軍旗

 
 明治4年、廃藩置県により、明治政府は全国を管理下に置きます。同年、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が置かれ、明治6年に名古屋鎮台、広島鎮台が設置され、全国6鎮台制となりました。
 各鎮台の隷下には第1から第14までの歩兵聯隊(連隊)が置かれています。

 明治5年(1872年)、御親兵は西郷隆盛を中心に近衛兵として改組され、「天皇と宮城(皇居)」の守護という任務が課せられました。

 この状況で、明治6年(1873年)1月10日、徴兵令が施行されます。

 明治7年から、各部隊に「軍旗」が親授されていきます。
 最初に与えられたのは近衛歩兵第1聯隊と近衛歩兵第2聯隊で、明治7年1月23日のことでした。

近衛師団
近衛師団


 この日午前11時、天皇は皇居を出て、日比谷練兵場に臨御します。
 野崎貞澄・聯隊長以下、兵士は玉座から30歩離れた場所に整列します。やがて正装の天皇は、幄舎(あくしゃ、仮小屋)から玉座に出御。同時に各親王、宮内卿、侍従長、陸軍卿などが横に並びました。さらに横には宮中儀礼を担当する式部長官が軍旗を持って立っています。

 ここで聯隊長は大尉、中尉1人ずつと、護衛4名をつけた旗手の少尉とともに、玉座まで10歩のところまで近づきます。そして、聯隊長だけが式部官に導かれて、さらに玉座に近づくと、親王以下、全員が壇を下り前面に並びました。

 次いで天皇が壇を下り、次の勅語を読み上げました。

《近衛歩兵第一聯隊編制成ルヲ告ク 仍(より)テ今軍旗一旒(いちりゅう=1本)ヲ授ク 
 汝軍人等協力同心シテ益々(ますます)威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ》


 そして式部長官から旗を受け取ったのです。
 聯隊長は、「敬テ明勅ヲ奉ス 臣等 死力ヲ竭(つく)シ 誓テ国家ヲ保護セン」と奉答します。聯隊長は軍旗を旗手に渡し、回れ右をして兵士に対面します。
 
 ここで聯隊長は馬に乗って剣を抜き、「捧げ銃(ささげつつ=敬礼)」を号令、喇叭は以下のような「足曳(あしびき)」の曲を奏でます。

《あしびきの 山辺どよもす 砲(つつ)の火の 煙の中に 著(いちじ)るく きほへる旗は かしこしや 
 我大君の御 手づから 授け給へる 御軍(みいくさ)の 印(しるし)の旗ぞ 我が輩(とも)の
 軍(いくさ)の神ぞ 我輩(わがとも)の 軍の神と仰ぎつつ 進めや進め 丈夫(ますらを)のとも》


 同年の太政官布告により、軍旗は全国の歩兵・騎兵・砲兵聯隊に親授されることが決まりましたが、結果的に砲兵聯隊には与えられませんでした。
 以後、軍旗は現人神(あらひとがみ)たる天皇の分身とされ、天皇の御尊影と並び、もっとも神聖なものとして扱われるのです。

軍旗奉置所
歩兵第71聯隊の軍旗奉置所

 
 ちなみに、二・二六事件では、戒厳司令部が「勅命下る 軍旗に手向かふな」と書かれたアドバルーンを掲揚しています。これは、事件が天皇に対する反乱であることを意味しています。

226事件のアドバルーン
2・26事件のアドバルーン


 軍旗は、歩兵・騎兵連隊とも竿頭(かんとう)に菊花紋章がつけられ、三方を紫の房で縁どられています。寸法は、歩兵連隊で縦2尺6寸4分(80cm)、横3尺3寸(1m)。騎兵連隊では縦・横60cm。

歩兵連隊旗 騎兵連隊旗
歩兵連隊旗、騎兵連隊旗

騎兵第28連隊の軍旗
騎兵第28連隊の軍旗


 その後、各部隊は年に1度、旗を親授された日に「軍旗祭」を行うことになりました。これはいわゆる文化祭で、式典の後は観客を集めたイベントが繰り広げられました。
 せっかくなので、近衛歩兵第一聯隊の軍旗祭の様子を引用しておきます。

軍旗祭
軍旗祭における分列式(歩兵第71聯隊)


《午前10時、連隊旗手が軍旗を捧げて護衛兵着剣護衛のもとに営庭に出ると、兵員一同は連隊長指揮のもとに捧げ銃(ささげつつ)の敬礼をする。『足曳(あしびき)』の喇叭(らっぱ)が寒い空に響き渡る。ここで軍旗を交銃(こうじゅう)で支えて祭壇にかざって酒饌を供えた後、やがて連隊長の祭文(さいもん)朗読についで、第一、二、三大隊の分列式がある。こうして両連隊共ほぼ同様に式を終って、午後からは軍隊相応な相撲茶番講談などの余興の外に、各中隊の造り物、飾り物を見ん為の下士卒の家族などがどやと繰り込む。(『東京年中行事』「愛宕神社の『御事の使』」)

軍旗祭 軍旗祭
軍旗祭の余興(左:歩兵第71聯隊第5中隊の飾り物、右:同第9中隊の飾り物)


 近衛歩兵第一聯隊は、その後、西南の役に出征し、日清戦争では台湾の蕃族征討に当たり、日露戦争では奉天会戦などに参加しました。明治37年(1904年)6月15日には、聯隊の兵員を乗せた輸送船・常陸丸がロシア艦隊から撃沈されてもいます。

 通常、軍旗は聯隊長の部屋で大切に保管され、24時間、軍旗衛兵が護衛しました。作戦・演習の際は常に聯隊長と行動をともにし、軍旗中隊によって守られました。つまり、軍旗は部隊が活躍すればするほどボロボロになっていくのです。近衛歩兵第一聯隊の軍旗は、昭和7年に撮影された写真を見ると、すでに枠だけになっています。これが激戦を潜り抜けた旗なのです。

近衛歩兵第1連隊の軍旗
近衛歩兵第1連隊の軍旗


 軍旗は、終戦までに466の歩兵、29の騎兵各連隊に授けられました。そのほとんどが、戦後の混乱で焼失しています。


統監部
統監部


 さて、日本は、明治以降、日の丸以外にも、軍旗をはじめとする数多くの官旗を作ってきました。そして、旗が決められても、その意味がわからないようでは困るので、各種の旗ガイド本も刊行されました。当然、民間でも多くの旗が作られ、明治から戦前は、想像以上に旗の文化が広がっていたのです。

 そんなわけで、ネット上にはほとんど資料がないため、ここに知られざる官旗を再現しておきます。

天皇旗 皇后旗
天皇旗と皇后旗

皇太子旗 皇族旗
皇太子旗、皇族旗

第1大隊旗第2大隊旗第3大隊旗
陸軍第1大隊旗、第2大隊旗、第3大隊旗

火薬旗 陸軍省付属船旗
火薬旗、陸軍省付属船旗


 陸軍の場合は天皇が直に授与するものですが、海軍の場合は風雨にさらされ非常に傷みやすかったので、天皇から親授されるものではありませんでした。
 明治3年、日の丸が日本国旗となり、同年、軍艦旗と定められました。明治22年、日の丸に16の旭日の光線が入ったものを「軍艦旗」とし、日の丸は「艦首旗」と改称されています。

海軍大臣旗軍艦旗艦首旗
海軍大臣旗、軍艦旗、艦首旗

海軍大将旗海軍中将旗海軍少将旗
海軍大将旗、海軍中将旗、海軍少将旗

代将旗司令旗先任旗
代将旗、司令旗、先任旗

歩兵運送船旗運送船旗工作船旗
歩兵運送船旗、運送船旗、工作船旗

当直旗測量艇旗長旗
当直旗、測量艇旗、長旒



<そのほか>

要拓水先船旗灯台船旗浮標旗
要拓水先旗、灯台船旗、浮標旗

海軍病院旗 赤十字旗
海軍病院旗、赤十字旗

屯田歩兵旗 北海道庁付属船旗
屯田歩兵旗、北海道庁付属船旗

日本郵船旗
日本郵船会社旗章


 日本郵船は民間企業ですが、前身の「郵便汽船三菱会社」が、国有の日本国郵便蒸気船会社と三菱商会が合併して設立されたため、ここに加えられたんだと思います。


制作:2013年3月26日

<おまけ>
 日本の軍旗の源流は、源平の2大武士団が対立した12世紀に現れます。本来の旗は守護神を勧請して加護を祈ったもの(旗指物)で、唯一無二のものでした。記録によれば、源氏は白旗、平氏は赤旗だとされています。
 その後、多くの兵が旗を持つようになり、旗は長らく、単なる相手への威嚇や目印の意味合いしか持たされなくなったのです。

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