養兎の世界
あるいは「ウサギ美味しい彼の山」について

串刺しウサギ
1784年の「御頭祭」の再現(長野県・神長官守矢史料館)


 明治維新の後、士族となった元武士たちは、生活のため、さまざまな職に就きますが、慣れない仕事でほとんどが失敗してしまいます。これを「士族の商法」といいました。

 婦人運動家の山川菊栄は、「士族の商法」の代表として「うさぎの飼育」をあげています。

《(殖産興業の)かけ声にのった流行の一つが養兎(ようと)でした。くいつめた士族が家屋敷を抵当にし、家財道具を売って高い種兎を買い、荒れ屋敷の片すみで育てるうちに、ふえたわ、ふえたわ。兎はむちゃくちゃにふえたものの、さて肉や皮の利用は知らず、政府も奨励しっ放しであとは無計画なのですからしまつがつかず、はては餌代にも困り、ただでも貰い手がなくなると、夜になってこそこそ空地やお濠の土手の中にすててゆく者がふえました》(『おんな二代の記』)

 これは東京の話で、時期はおそらく明治4〜5年頃です。
 いったいなぜ、東京でウサギを飼うことになったのか。

理想的なウサギ小屋
理想的なウサギ小屋

 実は明治4年以降、観賞用のウサギが大人気になっていました。そのブームは、まさにバブル。ウサギで大儲けした老婆の告白が残っているので、現代語訳しておきます。

《あの当時の流行は、地上にお金が落ちているようなものでした。予想外に儲かったんです。ウサギは耳が長いのがよく、毛色によって『更紗』『牡丹更紗』などと呼ばれ、いずれも高価でした。オスはよほど上物でないと値がつかないので、なるべくメスが多く生まれるよう、祈ったものです。島原(現在の新富町)に市が立ち、商人がたくさん集まりました。本郷駒込の土井さんが飼ってたオスは名高い珍物で、1回交尾させてもらうと5円払うのが相場でした》(『明治事物起原』)

 明治5年、両耳の毛が金色になったウサギが600円で売買されました。
 明治6年2月、白ウサギを柿色に染めて2円で売った男が詐欺で逮捕。
 2カ月後には、ウサギの売買をめぐって父親殺しの事件が起きます。どういうことかというと、ウサギを1羽150円で買う人がいたのに、父親が「200円じゃないと売らない」と言ったため破談に。それだけならよかったんですが、不幸にもその晩、ウサギが死んでしまったため、息子が怒り狂って父親を突き飛ばした次第。

 あまりのバブルで、巨額の富を築いた人もいましたが、多くは破産まで追い込まれました。商売に疎い武士が、このバブルで儲けられなかったのは当然です。

うさぎ
毛並みの美しい愛玩用のウサギ


 しかし、このバブルは突然はじけます。東京府が明治6年12月、飼育するウサギ1羽あたり1円という高い税金をかけたからです。こうして、大量のウサギが空き地に放され、あるいは虐殺され、大きな社会問題になりました。

 明治7年、ある雑誌に「士族の商法」を揶揄するこんな文章が載りました。

《当時一新、よくも替はつた。武芸はすたるし、大小は三文、エビシは読まれず、あせりあせつて、仕官と出かけ、等外六等、五円の月給、どうして堪まるか、九人の眷属(けんぞく)。米櫃(こめびつ)空つぽで、おなかはぺこぺこ、一寸のがれに家禄の奉還、叩きふるつて元手と奮発して、商法やらかし、兎を買取りや涎(よだれ)を垂らし、氷を仕込めば三分は解けた。豚鍋は安し、しめこ鍋(=ウサギ鍋)は外れ、餡ころ餅や辷(すべ)つて、汁粉餅や損だよ。ノコノコサイサイ、ヨサコイヨサコイ。》(『新聞雑誌』1874年7月12日号、「最近一覧あほだら経」)

「大小」というのは武士が正装として所持していた2本の刀で、これは安値でしか売れず、abcも読めないから、困って役人になったはいいけれど、「等外官」という最下級にしかなれず、たった5円の安月給で家族を養うこともできない。
 それで、商売を始めたものの、当時流行しはじめた「氷」を売れば3分の1は溶かし、あんこを売っても大損……。

 で、注目すべきは「ウサギ」です。 
 当時のウサギは賞玩用で、ほとんど食べられることはありませんでした。しかし、大量のウサギが余り、一部は鍋にして売られます。ですが、江戸時代は肉食が禁止されていたこともあり、この時点ではほとんど誰も食べる人がいなかったのです。「兎を買取りや涎(よだれ)を垂らし」とあるので、この士族はウサギが好きだったのかもしれませんけどね。

 美食家で有名な北大路魯山人は「兎肉はまずい」と書いてますが、実際のところ、淡泊でけっこう美味しい肉なんですね。フランスでは最高級のウサギは1羽3万円くらいで売られているし、中国でも高級食材として扱われ、脳みそも目玉も食べられます。ちなみに、ローマ帝国でも「智者の食べ物」として珍重されていました。

因幡の白ウサギ
因幡の白ウサギ(『神代正語常磐草』より)


『古事記』に「因幡の白ウサギ」の話があるとおり、日本人とウサギの関係は深く、縄文時代から兎肉は食べられていました。
 日本人なら誰でも「月に兎がいる」という話を知っているでしょうが、これは仏典などに書かれた次のような物語が出所です。

《サル、キツネ、ウサギの3匹が、空腹で倒れている老人に出会った。サルは木に登って栗や柿などの木の実を集め、さらに里から大豆や小豆を取ってきて老人に与えた。キツネは墓地のお供え物や、川から魚をとって老人に渡した。しかしウサギだけはどんなに頑張っても何も取って来られなかった。ウサギは情けなく思い、サルとキツネに頼んで火をおこしてもらい、その中に身を投じて自分の身を食料として捧げた。その様子を見た老人は帝釈天に戻り、ウサギの行為を後世に伝えるべく、ウサギを月へと昇らせた。月に見える雲のようなものは、ウサギがわが身を焼いたときの煙である》(『今昔物語集』所収「三獣行菩薩道兎焼身語第十三」より抄訳)

 これって、どう考えても「ウサギ肉はうまい」という意味にしか取れませんね(苦笑)。

月岡芳年『月百姿』
月岡芳年『月百姿』(部分、ウィキペディアより)


 日本では長らく獣肉が禁止されてきましたが、ウサギは例外でした。ウサギはぴょんぴょん跳ねることから鳥の仲間だとされ、食べる地方も多かったのです。うさぎを「1匹2匹」ではなく、「1羽2羽」と数えるのはこのためです。

 実は、徳川将軍家では、正月にウサギ汁を食べる風習がありました。
 徳川家康の9代前の徳川有親が没落して信濃に隠棲していたところ、地元の豪族が大晦日に兎狩りをおこない、元日に有親に兎の羹(あつもの)を饗しました。ちょうどそのころから徳川家が隆盛に向かったからだと言われています。正月の兎汁が縁起物だとされたのはこの故事によると思われます(『本朝食鑑』による)。

 信濃では、特にウサギ肉が珍重されたようです。
 江戸時代の旅行家・菅江真澄が、1784年、諏訪神社の「御頭祭」を見学したとき、神への捧げ物が75のシカの頭と、白サギ・白ウサギ・キジなどのたくさんの肉だったと記録しています(『諏訪の海』)。
 その供物の一部を再現したのが冒頭のウサギの写真です。

茅野・十間廊
鹿の頭が75個並べられた長野県茅野市の「十間廊」


 明治になると、前述のように、ウサギは愛玩用として大流行します。
 その後、日清・日露戦争では軍需用物資として重宝され始めます。毛皮が防寒具、肉が缶詰用として役立ったからです。大正期には、ウサギ肉は一般化し、庶民も食べるようになりました。また、アメリカへ毛皮の輸出も始まりました。

ウサギの毛皮の乾燥作業
ウサギの毛皮の乾燥作業

ウサギの毛皮
ウサギの毛皮

 
 ウサギは、穴に住むアナウサギ(rabbit)と岩陰に住むノウサギ(hare)の2種類に分類されます。アナウサギは目をつぶったまま生まれ、ノウサギは目を開けたまま生まれるとも言いますが、ほとんど区別はつきません。
 そして、ヨーロッパに住むこのアナウサギを家畜化したのが「飼兎(かいうさぎ)」「 家兎(いえうさぎ)」と呼ばれるものです。

アナウサギ
アナウサギ
 
 飼兎は、
 ・肉用(ベルジアン、フレミッシュ、パタゴニアなど)
 ・毛用(アンゴラが有名。毛皮用に向くのはチンチラやレッキスなど)
 ・愛玩用(ヒマラヤン、ダッチ、ロップイアーなど)

 と分かれます。日本の真っ白なウサギは明治時代に品種改良されたもので、毛皮・肉用ともに向いています。白毛に赤目がまるで日の丸のようで、一部では「日の丸肉」などと呼ばれたこともあります。第1次世界大戦後は日本でも養兎が奨励され、最盛期は600万頭も飼育されていました。

ウサギの缶詰
ウサギの缶詰

 しかし、ウサギの飼育は、戦後すぐに廃れてしまいます。
 ウサギ肉は粘着性が高いので、ソーセージによく使われます。日本でもJASマークの標準規格としてソーセージにうさぎを使うことは認められています。ですが、農水省の「食料需給表」によれば、1960年に2000トンあったウサギの国内生産量は、1972年以降、統計上ゼロになっています。

 養兎が衰退した理由は不明ですが、ウサギは唇が割れ、肛門が9つあるとされてきたことから、昔から妊婦がウサギを食べると、子供が痔になったり、嘔吐したり、唇が欠けたりすると信じられていました(『本草綱目』などによる)。
 こうした言い伝えが根強かった上、やはり飼育中に愛情が移ることから、日本人には向かなかったのだと思われます。

兎肉乾燥機
兎肉乾燥機(国会図書館所蔵『養兎指導講習録』、1939)


制作:2014年7月13日


<おまけ1>

 1934年に刊行された「養兎のすすめ」というパンフレットによれば、オス1羽メス1羽のつがいで飼った場合、ウサギは多産なので1年で80羽も子供が生まれるため、以下のように大きな利益が出ると概算されています。
 
○経費 79円81銭
   種兎代          40円(オス16円、メス24円) 
   種兎1年間の飼料代     3円65銭(1日1羽5厘)
   生産兎80羽の6カ月飼料代 28円80銭(1日1羽2厘)
   生産兎80羽の売却輸送費   7円36銭(400マイル、約650kmとして)
○収入 96円
   80羽の売り上げ代     96円(1羽800匁として)

○差し引き 16円19銭


兎の解体の仕方
兎の解体の仕方(国会図書館所蔵『兎肉の解体・捌き方・調理法』)

<おまけ2>

 唱歌『故郷』は「兎追ひし彼の山」で始まります。もちろん追っかけて捕まえた兎は食べるわけで、まさに「ウサギ美味しい彼の山」なわけです。
 この山は作詞者の生家があった長野県だという説があります。このように、長野とウサギは昔から深い関係があるんですね。

 徳川家では、正月にウサギを食べましたが、このウサギはずっと信州から送られてきました。現在でも、長野ではわずかながらウサギが飼育されており、そのウサギは愛知県岡崎市の龍城(たつき)神社にも送られています。
 この神社は徳川家康の生誕地である岡崎城の本丸すぐ隣にあります。

 徳川有親にウサギ汁を出した地元豪族は、林藤十郎光政という人物です。その末裔である林忠崇は、幕末、1万石の領地を朝廷に返上し、自ら浪人となって徳川家を守るため、明治政府と戦いました。
 林家は、石高こそ少ないですが、元旦には将軍から最初に盃を賜る名家でした。その儀式は「献兎賜盃(けんとしはい)」という名前で呼ばれていました。

 一杯のウサギ汁のおかげで、林家は江戸時代最高の名誉を賜りつづけたのです。
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