あの地震のひと揺れのために、箱根から東京までの汽車のレイルの上は、想像しても容易に想像し尽されないような混雑と雑沓とを呈した。

 汽車の通れなくなったあのレイルの上を避難者は陸続として歩いた。あのレイルは急に昔の東海道の副路として役立つこととなった。箱根方面から、小田原方面から、または真鶴、湯河原、熱海方面から、避暑に行っていた人達は皆な慌てて出て来た。

 中には浴衣がけで歩いているものもあれば、シャツー枚、サル股ひとつで気まりがわるそうにして歩いて来るものもあった。平生ならば、自動車があり、電車があり、馬車があり、車があり、2、30分乃至(ないし)1、2時間で、楽に往ったり来たりすることの出来るところを、あたりの海山の美しいのをのんきに眺めたり何かしてやって来るところを、かれらは半日も1日もかかって、汗水流して歩いてやって来なければならなかった。

 それに、情報の伝らないことが一層かれらを不安にした。かれらは皆な妻子や夫や父母を東京に持っていた。家屋や財産をそこに置いて来ていた。そしてそれがどうなっているかわからなかった。到るところで途切れ途切れに耳にした風説では、東京は全滅だということであった。最早家屋は一軒も残っていないということであった。綺麗に、それは綺麗に焼けてしまったということであった。

 否、そればかりではなかった。恐ろしい不穏な情報もそれからそれへと伝えられた。革命が起ったという風説は、それはあまりに誇大であるらしかったけれども、思いがけない事件がそこに待っているというような気は誰にでもしていた。しかし、いくら心配したところで、某処まで行って見ない中(うち)は、どうにもならなかった。かれらはレイルの上を歩きながら、皆な懇意になった。

『一体どうなっているんでしょう?』
『さア』
『えらいこツてすな?』
『本当ですな』

 こんなことを言って互いに慰め合っている連中があるかと思うと、『何処まで行っても、自動車はありませんかな?』
『ありますまいな』

『一体、ここから東京まで何里あるんです? 横浜まで8里、それから戸塚まで5里、それから藤沢まで3里、や、大変だ、17、8里もあるんじゃありませんか? それを皆な歩かなけりゃならんのですか?』
『どうもしようがないですな?』
『とてもこれは歩けそうもない……』

 急に悄気(しょ)げて、どさりと路傍に腰を下してしまうものなどもあった。かと思うと、若い大学生は妹らしい7つ8つの児を負(おぶ)って、元気よく大胆で皆なを追越して歩いて行った。一番困っているのは、平生路などを歩いたことのない若い細君達で、夫らしい男に扶(たす)けられながら、白足袋を埃だらけにして喘ぎ喘ぎ歩いて行った。

 それでも幸なことには、そこここに救恤(きゅうじゅつ)品が出ていて、パンの一片や握飯の1つや2つを得ることは、それほど難かしいことでもなかった。

 それは沿道の村や宿場でも、かなりにひどい損害を受けて、ところに由っては、将棋倒に家屋が並んで倒れているようなところもないではなかったけれども、火に逢わないので、それほど散乱した形はなかった。無理に頼めば、腹の空らないぐらいのものは買うことが出来た。

 そういう人達の中には、おりおり外国人も雑(まじ)っていた。箱根で辛うじて死を免れたと言っているものもあれば、真鶴で動物を採収していたら、突然、あの地震がやって来て、岩の上に脱いで置いた上衣も取ることが出来ずに、シャツひとつで逃げて来たというものもあった。

『日本人、えらいですな! こういう災厄に逢っても、びくともしない。決して慌てない。それに親切だ! これは私達の国ではとても見られないことです』

 その外国人はこんなことをさも感激したように言って、救恤に路傍に出されてある握飯をさも旨そうにして食った。

『こんなに日本人は親切だと思わなかった! それ、御覧なさい! このシャツを!』

 こう言ってそれを引張って見せて、『これは、あの吉浜というところで、私が裸体で歩いていると、気の毒がって、路傍の見ず知らずの人がくれたんですよ。本当に、この地震で、日本人がわかった! 日本人の本当の親切ということがわかった!』

 こうその外人は続けて言った。

 レイルは長く長く続いた。松原があったり、桃の畠があったり、蜜柑(みかん)の密生している谷があったり、海の汀線(ていせん)が丸く前にあらわれているところがあったり、半潰れになっている昔の宿場があったりした。レイルの磨かれた鉄に日影がキラキラと美しく照った。

 そして時々停車場がやって来た。しかもそれはいつもの雑沓した賑やかな停車場でもなければ、駅長や助役や車掌が事務に忙殺されている、絶えず引きりなしに電話のかかって来る停車場でもなかった。それは大抵は半ば以上破壊されてある、ガランとした、人気のない停車場であった。大磯などはことにひどかった。その停車場の建物は全く崩壊されてしまっていた。

 かれらは停車場に着くと、きまってそこで何かの新しい情報を得ようとした。しかし大抵はそれは徒労に終った。電信も電話も何もない停車場は、単なる駅站(えきたん)にしか過ぎなかった。

 馬入川の鉄橋の崩潰したさまは、凄じい光景だった。大きな橋柱、橋欄が右に左に、あるいは石原の上に、あるいは川原の上に、または水の瀬を成しているところに崩れて倒れているさまは、人の目を睜(みは)らせずには置かなかった。川の瀬が塞がれて、一時通れなくなったのを、一ところに片寄せて、帆が辛うじて通って行っているのをかれらは見かけた。

 藤沢、ことに大船あたりからは、レイルの上を徒歩するものが一層多くなった。このあたりは、レイルと東海道とがそう大して離れていないので、後者と選ぶものもかなりに多くあったのであるけれども、それでもレイルの上は一層そうした人達で賑った。鎌倉の被害のひどかった話がそれからそれへと雑り合った。そこに来ると、東京の情報がいくらかわかって来た。

 あの信濃坂のトンネルを抜けるのが無気味なので、その入口から山へとのぼって行く路がひとり手(で)につけられて出来ていたが、しかもトンネルを抜けるものも決して少いとは言われなかった。『おい……おーい!』などと言いながら、かれらは丸い穴を目当てにその暗い中を心細そうに小さな明るい方へ抜けて行った。

 平生ならば、あそこいらは、ちょっと好いところであった。いかにも武蔵と相模との国境らしい感じのするところであった。あの信濃阪の上からは、富士と大山とが見えた。東海道の栄えた頃には、その阪の上に茶店があって、誰でもそこで草畦(わらじ)の紐をゆるめてひと休みしたところであった。

 そしてそこから少し来たところは、例の境木村のなつかしい古駅で、汽車の中から見ても、高い古い茅葺屋根のぐしに一八(いちはつ)が並んで美しく咲いていたりなどして、いかにも名所図会中の挿絵の1頁(ページ)を思わせるようなところであった。

 しかし今はそれどこではなかった。人達は唯慌ただしくいくらか小高くなっているレイルの上を通って行った。一歩は一歩ごとに混雑と雑沓とを増して行った。程ケ谷あたりに来た時には、横浜の被害の大きかったことが次第にわかって来た。否、行くにつれて、そのすさまじい光景がはっきりとその眼にあらわれて来た。

『ほ!』
 
 横浜の全体の光景の見えるあたりに来た時には、誰もこう言って驚かないものはなかった。
 もはやそこには大きな建物の何物をも見ることが出来なかった。倉庫や工場や堀割の中まで入って来ている舟や、レイルの両側に次第に展開されて来る汚ない場末町や、そういうものの何物をも発見することが出来なかった。

 否、かれらは右に西戸部の一部の残ったのを見ただけで、海が——いつもは容易に見ることの出来ない海がぱっと濶(ひろ)くそこにあらわれて来ているのを眼にした。かれらは不思議な気がした。思わず眼を睜(みは)った。

『ほう!』
 さも驚いたというようにしてかれらは叫んだ。
『えらく焼けたもんですな!』
『なるほどこれは全滅だ!』

 こうした声がそこからも此処からも起った。
 しかしかれらは猶(な)お何遍かの驚愕を繰返さなければならなかった。かれらは東京に近づいて行けば行くほど、益々(ますます)形勢の不穏になって行くのを感じた。かれらは銃剣を着けた兵士がそこここに立っていて、あやしいものと見れば忽(たちま)ち誰何するのを見た。

 騎兵が2、30騎も並んで、何か事ありげに、急いで街道を駛(はし)らせて行くのを見た。否、そればかりではなかった、自警団というものが、竹槍を持ったり、ダンビラを携えたりして、頻(しき)りに夕暮の空気の中に彷徨しているのを見た。

 次第に日は暮れて行った。あちこちに燈火が見え出して来た。今度は不逞鮮人と見誤られることの危険——で弁解して通らなければならない危険を感じた。

『誰だ? 誰だ? そこに行くのは?』

 かれらは絶えずこう前後から声をかけられた。長い長いレイルの上を歩いて来たかれらは、殆ど一歩も先に行けないというほど労(つか)れていた。かれらはどうかして少し休みたいと思った。しかしそうした場所は何処にもなかった。また自警団の提灯は向うからやって来た。